二、姉


「どうぞよろしくお願いします」


 蝴蝶フーティエ花精ファジンに連れられ、多くの女と、医女と、医学生と、病人の視線を背中に浴びながら、執務室の中へ入るなり、蝴蝶の見慣れた医女だった女が、ぺこりと頭を下げた。


甲紫ジャズーねえね、どうしてここに!?」


 甲紫ねえねと呼ぶその医女は、かつてこの恵民署に勤めており、蝴蝶がここ、恵民署で産まれる際に、立ち会った医女の一人であり、羊然ヤオレンが養父であるならば、甲紫は蝴蝶の姉にあたる人物だ。

 数年前に嫁ぎ先が決まり、医女を辞めるとなった時にさんざ泣いた事を、蝴蝶は今でも覚えている。

 記憶に残っていた頃よりも、幾分か丸くなっているが、慕っていた姉を見間違えるはずもない。


「私が雇ったんですよ。新しい給仕の責任者として」


 にこやかに、眩しいほどの笑顔で、そう宣うのは花精。蝴蝶は思わず開いた口を塞ぐことを忘れてしまう。

 今まで給仕の責任者のような立場は蝴蝶だった。毎日朝昼夕の献立を考え、調理し提供する。その責任者として新しく雇ったということは。


「私は、給仕としてはクビ、ですか」



「そうなりますね」



 悲愴感漂う面持ちで、なんとか言葉を絞り出した蝴蝶に対し、 花精は変わらない笑顔のまま、当然のように返す。今度は身の毛もよだつあの不快感が全身を撫ぜる。

 腹の中では嗤っているのだろうか。


「なぜ、また…」


 事態を飲み込めない、否、飲み込みたくない蝴蝶は縋るようにして尋ねた。


「何故ってもちろん、貴女はもう私の助手ですからね。抜けた穴は補いませんと」


 想定内を直球ストレートで往く返答に、蝴蝶の目の前からさあっと色が抜け、真っ白になる。

 蝴蝶が病人へ出す食事のいろはを教わったのは、他でもない甲紫だった。なので、蝴蝶にとっては師匠にあたる彼女は、誰よりも適任と言える。

 だが、どうやって寿退社した彼女を短時間で探し出し、説得したのだろうか。

 もしやその憎らしいほどに美しい顔で有無も言わさず、交渉を成立させたのだろうか。


 よろよろ、と体幹を崩す蝴蝶を受け止めたのは、常に花精にくっついている园丁ヤンディン。彼は、蝴蝶を抱きとめると、小さな声で「諦めて下さい」と言った。


「いいじゃない、提調チェジョ様に認められるなんて凄いことよ、貴女のぶんも頑張るからね!」


(甲紫ねえねは分かってない、分かってないのよ)


 これを蝴蝶の出世か何かだと浮かれている甲紫に、必死に目で訴えるがまるで伝わらない。


「ではさっそく今日の昼餉から、お願いしますね」


 花精が変わらぬ貼り付けた笑みを向けると、甲紫は少しだけ頬を赤らめ、執務室から退室する。

 これで本当に、給仕の仕事は出来なくなってしまったのだ。


「…ふう」


 甲紫が執務室から出て行ったのを確認するなり、花精は大きく息を吐いた。


「と、いうわけだ」


 外堀を埋めた策士のように口角を歪める花精を、睨む事しか出来ない。


「鉗子と剪刀の違いも分からないようでは話にもならないからな、まずは器具を覚えてもらうぞ」


 執務室に置かれた机には、ご丁寧に椅子が向かい合わせに置かれている。嫌だ、と態度で拒絶を示すが、园丁に簡単に抱き上げられ、椅子の上に座らされてしまった。



「それは腸鉗子だ!私が言っているのは止血鉗子だ!」


 あれから、何時経ったのだろうか。鋏だか、鉗子だか、剪刀だか分からない器具の説明を延々とされた挙句、その器具の名前を言われ、適当な器具を手渡す作業が行われていた。

 花精は真剣そのものであるが、蝴蝶は助手なんてごめんだ、と言わんばかりにやる気が無い。寧ろ、わざと適当でない器具を手渡している様にさえ見える。

 事実、蝴蝶はもう殆どの器具がどういった時に使用し、どんな名前を付けられているのか覚えていた。彼女は結局のところ、愛されるために生まれたので、何でもそつなくこなす事が出来てしまう。それは、興味のない術式の器具を覚えることにだって発揮されてしまう。


「この調子だとまた緊急術式になった際、不安だな」


 花精は机に肘をつき、眉間を指の腹で揉む。蝴蝶は朝餉の準備のために恵民署で寝泊まりすることに慣れているとはいえ、花精は初めての当直だったのだ。やっと疲労を顕にしたのかと、遅いとさえ蝴蝶は感じる。


(どうか疲れて助手もクビにしてほしい)


 瞳を閉じて唸る花精をじとりと見ていると、何かを閃いたように、その大きな瞳をぱちりと開けた。


「そうだな、新しく届いたこれも見せてやろう!」


 花精はそう言うと、がたりと椅子から立ち上がるなり、今朝届いて執務室に運ばれた、と元牛ユェンニウが言っていた荷物、丁寧な装飾が施された木の箱のひとつに、手をかけた。

 錠を外すと、独特の酒の匂いが漂う。それを大きく吸い込み、肺に溜め悦に浸る花精の様子は一種の変態ではないか、と蝴蝶は蔑視する。

 そんな蝴蝶の冷たい目線などお構い無しに、花精が取り出したのは、ぶよんぶよんと柔らかい材質で出来た、細い紐であった。


「これは排液管ドレーンだ」


 宝石のような瞳をさらに輝かせ、聞いてもいない謎の紐の名前を教えて頂ける。蝴蝶の「はぁそうですか」という返事に心など、こもっているわけがない。


「これはな、いらない体液などを取り除くためのもので、吸う方とは反対の方にこうして護謨ゴム球をつけ、握って離すと吸えるようになる」


 さらにご丁寧に使用方法の解説付きだが、昨夜しっかりと眠ったはずの蝴蝶の瞼が落ちそうになる。


「これが注射器、拡大鏡、それにそれに」


 まるで宝箱を漁っているかのように楽しそうに、嬉しそうに、術式に使うであろう器具を取り出しては説明し、取り出しては説明しを繰り返す。ふと、蝴蝶はそんな花精の姿を見て、彼の年齢はいくつだろうかという疑問が浮かぶ。

 若い青年の見た目をしているが、恵民署の提調になるようなお方だ、自分よりいくつも年上だろうと勝手に思っていた。

 普段の寒気がするような猫かぶりをした姿や、術式の際の真剣な姿が余計に、年齢を分かりにくくする。


 しかし、こうして目を輝かせながら術式器具を見せてくる姿を見れば、自分よりひとつ上か、よくてふたつ上程度にしか見えない。

 花精の懸命な説明を聞き流し、ぼんやりとそう考えてしまう。


「これで何人かの者の命が救えると思えば心が踊らないか!?」


 花精のその言葉に蝴蝶は、はっと我に返る。今まで彼が喜びを露わにして器具について語っていたのは、それらが患者の命を救う架け橋になり得るためだった。

 それを心から嬉しそうに言うものなので、蝴蝶の胸がちくりと傷む。


「…そうですね」


 口にするのを躊躇うが、出してしまう。救える命が多くなるのは喜ばしい事に変わらない。が、どうか自分の預かり知らぬ所で救って欲しい、と思うのもまた、蝴蝶の本心であった。


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