五、花精の過去
「も、申し訳ございません、
施術室を出てすぐの扉の前で花精に頭を下げる、
この
(园丁様がああもなるということは花精様は怒れば怖いのかな)
逆ならばわかりやすいのだが、と
普段の仮面のように付け替え可能の笑みから、その笑みを浮かべたまま怒る姿を想像してしまい、蝴蝶は身を震わせた。確かにあのように憎悪で撫ぜる事に特化した笑顔のまま怒られるのならば自分もああして謝ってしまうかもしれないとさえ思う。
(やはりあの笑みは、苦手だ)
彼が素で居る時や、病人への丁寧な対応をしている時には感じないのに、と蝴蝶は思い出す。
「大丈夫ですよ、あれから直ぐに診察をして交代する時間もありませんでしたし、丁度呼ぼうと思った時に来てくれたのですから」
遠くで見る本日当直当番の医女達は、园丁をしっかりと叱りつけることも出来る花精様は素敵だときゃあきゃあ言っている事だろう。
「いえ、それでも申し訳なく…あのお方には花精様をしっかりと補佐するように命じられていたというのに」
花精も怒ってる風ではないというのに、それでも尚自責を辞めない园丁に笑みが困ったものになってゆく。
(花精様が怖いのではなく、この国は上下関係がしっかりと根付いてるからなのね)
一人納得のいった蝴蝶はとうとう二人から目を逸らしてしまった。
この国の上下関係は、絶対だ。それは古くからの考えであり、この国の基盤のうちの一つでもある。
上下関係は、身分においても、仕事関係においてもそうだった。特に酷いのは身分においての上下関係であり、一番下である奴婢がそれに逆らえば重い罪に問われる。
だから奴婢ではないものの花精よりは下の立場である园丁は真っ青になって頭を下げているのだろう。
いくら王宮に勤めていた名医であろうと、拳での戦いになれば容易に勝てるような相手であろうと、上下関係という鎖から逃れる事などこの国では出来ない。
はやく終わってくれないかな、と施術室に寝転んで待つ柳のような女をちらりと見ながら蝴蝶は誰にも気づかれぬようにため息をついた。
「お待たせしました、では鍼麻酔をしたいと思いますが」
話を終えたであろう花精が园丁を引き連れて柳のような女の側まで歩く。园丁の見目は整えられていた。
「この男から鍼麻酔についての説明がありますので、それを聞いたうえで同意をお願いしますね」
花精はそう言うと、横にすっと身体をよけて园丁を柳のような女の横に傍に立たせた。
「説明から施術のあいだ、私達は出ておりますので」
花精はそう言うと、今度は蝴蝶を連れて施術室を出た。
「何故わざわざ园丁様に説明させたのですか?」
施術室から少し離れて、蝴蝶は尋ねた。
「私は多少の知識はあれど、园丁には敵いませんからね。もし、私に何かを質問され、それがより専門的な知識が必要になる場合わからないといった対応をすれば病人は不安に思うでしょう?」
いちいち人を変えるのは面倒だと思っていた蝴蝶がなるほどと納得がいく。
「それに、私達医者は治療の際に適切で十分な説明をする義務が、病人にはその説明を聞いて同意する権利がありますから」
(医者?)
花精の耳慣れない言葉にひっかかり、首を傾げる。
「私の居たところでは基本的な考えられ方なんですよ」
蝴蝶が何故首を傾げているかわかっていない花精は、言葉を続ける。
「あの、一つ尋ねてもよろしいですか」
その言葉の終わりに蝴蝶が断りを入れ、花精は許可をする。
「花精様のご出身はどういった所なのですか」
蝴蝶はずっと、疑問に思っていた。
人の身体を切る治療など、どのような環境で育てば知識として入るのか。
また、突如として現れたこの華々しい提調の、恵民署に来る前の話をまったく聞かない。
王宮で勤めていた名医を従えるほどの者だというのにその本人が王宮に勤めていたという噂も聞かない。
どこか遠くから飛んできた種子がこの恵民署という辺境な地で突如花を咲かせたような、そんな人物だった。
「そうですね、寒くて、土地が痩せていました」
蝴蝶は(そういうことが聞きたかったわけではないんだけど)と心の中で思うが、黙って聞いていた。
「なので、食べるものといえばそんな環境でも育つ芋と麦…あとは何でも食べて育ってくれる豚肉ぐらいでしたね」
故郷を懐かしんでいるのか、花精は暗くなった空を見る。
「何も無い土地ですが、すぐ隣の国はいつでも侵略の機会を伺っていました」
土地柄から、この国の北の方かなと蝴蝶はぼんやりとしたこの国の地図を頭の中に広げる。
近頃この都では隣国との争いは聞かなくなったが、国境の前線に住む村では違うのかと複雑な気持ちになる。
「そこで、他に引けを取らない技術を研鑽しようという事になり、その中でも私は医術を選びました」
花精はそこでふと、哀しそうに笑った。
「母はあまりいい顔をしませんでしたけどね」
その表情は諦めなのか、寂しさなのか、蝴蝶は理解をする事は出来なかった。
「医術、文学、芸術、作物の品種改良、そのどれよりも力を入れていたのが軍事でしたから」
花精の母親からすれば力を入れて推奨されている軍事を学んで欲しかったのだろう。
「幼い頃より医術に進むと決めた私はそれをきっかけに母と殆ど絶縁状態になったんですよね」
母親の居ない蝴蝶は、自身の息子が思い通りの道に進まなかったからといって、絶縁することが正しいのか、正しくないのかは分からない。
ただ、花精と同じように幼少から医術を父のように慕う
「話が逸れましたね。ああ、蝴蝶と話しているとつい余計な事を言ってしまう」
大きな掌で顔を覆う花精がどのような表情をしているのか、月明かりだけでは伺えなかった。
「そう、私が居た所はそのような所でした」
少し素が出てしまった花精は、すぐにいつもの笑顔を浮かべた。
薄ら寒さを覚えるその笑顔を見て、母に見捨てられ、孤独の中で生命の勉強をする花精にとっては、その端麗すぎる顔と愛想を巧みに使わなければならなかったのかもしれない、と憶測する。
「蝴蝶が学んだあの器具たちは皆、私の故郷で作られたものなんですよ」
話を切り替えるように、明るい声で花精はそう言った。
確かに見た事も無いものばかりだったのは、花精が故郷から持ち込んだものだからかと納得する。
が、それと同時に都でもない、国境付近の辺鄙な村が、それ程までに独自の技術を築けるものなのかという疑問も生まれる。
「そのまま持ってくる事が出来ないので、この国で昔から私を懇意にしてくれるおじさんに器具の作り方を教えて、やっと作って貰えたので今朝届けられたんですよ」
笑顔で語る花精をよそに、蝴蝶の脳裏には一つの仮説が立った。
王族でも、武官でも、文官でもない、官服の胸章。
王宮に勤めていた名医を従えている事。
人の身体を切る治療法をとる事。
医官ではなく、医者と名乗った事。
畜肉は主に鶏を好まれる我が国において、彼の故郷では豚肉を好んで食べた。
国境の辺鄙な村では限界があるであろう、多くの技術の研鑽。
「あの、花精様、もう一つ尋ねてもよろしいですか」
仮説を立証するには、確実な根拠が必要となる。それを、花精の口から得るために蝴蝶は尋ねた。
花精はいつものように、許す。
「花精様が着ていた官服の胸章の花ですが、それは…」
言葉の尻を濁す事で、事実のみを語らせようとする。
花精はいつか聞かれることが分かっていたかのように、口を開いた。
「花の胸章は…」
「花精様」
その時、施術室から出てきた园丁によって、花精の言葉は遮られてしまった。
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