二十九、記憶の枝葉
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恨むのならば、何を恨めば良いか分からない。俺と、
何度、この国と世界を共に恨んだろうか。
春柳、という名に相応しい女性だった。
春の暖かい風に遊ばれ、揺れる柳の葉のように髪を揺らし、柳の花のように愛らしい笑みを浮かべる女性だった。
俺が彼女と出会ったのは、忌まわしい王宮だ。
彼女が王宮に務める前に出会えてたのなら。
そんなどうしようもない後悔を、何度も描いた。
王宮にて、木の剪定をする女官の背に語りかけたのが、始まりだ。
王宮の全ては殿下の所有物だ。
古今東西の知恵が集まる文献も、幾人も屠った武具も、殿下に忠する我が身も、文官も、武官も、王妃も、側室も、顔と名前など覚えていない、女官でさえも。
俺は、その殿下の所有物を持ち出し、逃げたわけだ。
その所有物も、俺と共に逃げる事を選択してくれたから。
春柳と居れば何も恐れることなどない、とは言えなかった。
しかしそれでも、己の行いを悔やんだ事は無かった。
それほどまでに、愛したのに。
別れはあまりにも突然で、予兆など無かった。
別れの前の日の夜、味の薄い、米以外の穀物で誤魔化した粥を一緒に食べながら話していたのに。
彼女も、俺の話でいつものように、笑っていてくれていたのに。
翌朝起きてみれば、隣に居るはずの彼女は忽然と姿を消していた。
例え世界の全てを敵に回してでも君を愛する。
文字通り、俺たちにとっての世界を敵に回したわけだが、彼女が居なければ俺の生に意味が無い。
春柳、どこにいった?何故、突然消えた?元気にしてくれているか?
春柳。
春柳───。
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「なんだか外が騒がしいわね」
いつもならば女の嬌声が響く恵民署だが、それとは違う、男達のどやどやとした騒がしさに、
「か、代わりに見てきてあげるねっ」
先程まで蝴蝶と共に、くだらない話に花を咲かせていた柳のような女は、そう言うと軽い戸を押して開ける。
「急患、みたいだよーっ」
急患だと理解しているのに伸びた物言いに蝴蝶は口の端を上げると、
その様子を見た柳のような女は、慌てて駆けつける。
といっても、頭を揺らすような行為を禁じられているため、走れはしないのだが。
「もう立っても大丈夫なの?」
素人の知見で立っては駄目だ、と言わず、その言葉が出るあたり彼女の人の良さが伝わる。
「急患だもの。きっと花精様は私が居なくちゃ、術式も出来ないでしょうし」
そう言って蝴蝶は小さな肩を竦めてみせる。
自身の術式の際、誰も花精の隣に立っていなかった事なんて、わざと考えない。
「それなら私も、身体を支えるねっ」
病人二人で支え合って漸く一人前、という繋がりに柳のような女は目を輝かせ、蝴蝶の身体を優しく支えた。
「なに、これ」
以前、火事で熱傷を負った際の急患も慌ただしかったが、今回はその慌ただしさと共に、剣呑さも恵民署の庭に蔓延していた。
その緊迫した状況の正体は、何人もの官服に身を包んだ男達。
見るからに武官であるその男達は皆、とても病人とは思えない程にぴんぴんしている。寧ろ、元気有り余って花精に鋭い視線までぶつけている。
神聖なる医療の現場、とまで言うつもりは無いが、恵民署には恵民署の、信念の
蝴蝶はか弱く愛らしい外見をしておいて、猪突猛進な節があり、これと決めたら曲げない頑固さも併せ持つ。
もちろん、これらは彼女の自己愛がもたらす行動だ。
それ故に、彼女の逆鱗に触れてしまえば、誰も彼女を止める事は出来ない。
先程まで柳のような女に支えられていたのは何だ、と思わせる程に足早と件の現場まで、可憐な顔を怒りに彩って赴く。
柳のような女はというと、蝴蝶の名を呼びながらもついて行く。
蝴蝶が現場に着いた時は、园丁と他の若い医官がぐったりとした男を二人がかりで抱えあげ、施術室に連れていこうとしている所だった。
ここにたどり着くまでに、
術式用の服に着替えようと走っている花精も、すれ違った際に、ぎょっ、と驚いてしまった。
「あなた達!生命を助けてもらうのだから」
「
まずは郷に入っては郷に従え、ということでその泥だらけで不衛生な靴を綺麗にしてこい、から言おうとした蝴蝶の言葉を背後から劈く女の声。
声の方へ、全員の注視を浴びるのは、今担がれている男の顔を偶然見た、柳のような女だ。
「お前、この者を知って?記憶は──」
すぐに反応を示したのは、园丁だ。
彼女が大きな声をあげたことも、何よりも、誰も見知らぬこの男の名前を益、と呼んだ事に驚きを隠せなかった。
「──?違う、夢の人と、同じだなって思って、それで、あれ?何で、私」
夢の人。それは彼女が何度か語った、彼女の夢に出てくるという、男だ。
「まさか、その男だと言うのか?そんな偶然」
园丁が信じられない、と驚愕しているところ、施術室から花精の怒号が飛ぶ。
「园丁!何をしてる!早く施術室へ!」
瞬きも惜しいというように、事態は迅速な対応を必要としている。
园丁は、はっ、と我に帰り、花精の方へ視線を投げると、すぐさま歩き出す。
その間も柳のような女は錯乱し、うわ言のように何かを呟きながら、頭を両腕で抱える。
「すまない蝴蝶、彼女を頼む」
柳のような女を主に診ていたのは、花精と、园丁と、蝴蝶。
花精は術式、己は男の身体を運ばなければならない。
彼女を良く知り、なだめてあげられるであろう人物は、数日前腹に傷を負った蝴蝶だけとなった。
そんな彼女に任せきる事を謝罪し、自責に顔を歪ませた园丁は施術室へと向かう。
次から次へと起こる突然の事に、蝴蝶でさえもすぐに行動に移す事が出来ずに居た。
只、园丁の複雑な表情を見送る。
「ごめんなさい、ごめんなさい、益様、私、ごめんなさい、お母さん、お父さん、私、逃げちゃって、ああ、あ、」
段々とこの異常な光景を蝴蝶の頭は咀嚼して、理解する。
そして柳のような女の名前を呼びたい衝動に駆られるが、それは適わない。
ただ言葉だけが乗らなかった吐息を吐き出して、女のすぐ傍に寄る。
蝴蝶の呼び掛けに返事は、無い。
強く声を掛けても、彼女はざわざわと揺れる記憶の枝葉に恐れ、喚き散らしている。
「お前、まさか」
そう言って女の顔を覗き込んだのは、帽子に孔雀の羽飾りをつけた男。その表情は訝しんだものから、驚愕へと変わる。
「やはり!益と王宮から逃げた、女官──ッ!」
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