第26話 オレンジの記憶
…………。
それは、私が本当に小さな頃の記憶だ。
「貴方は、私の自慢の娘だ」
そう言って、背の低い私の頭を撫でるお父様。その目は
たまに怒ることもあるけれど。それは私の身を思って怒ったことしかない。
とても優しいお父様。
私は、そんなお父様が、とてもとても好きだった。
ある夏の日。
家族で旅行に行った。
森に囲まれた大きな湖のある、大自然だ。
優しい木漏れ日がチラチラと覗き、名の知らない薄い桜色の小さな花が風に揺れている。
湿った土の匂いが、踏み出す度に鼻をくすぐり心地良い。さえずる小鳥の音色がいろいろなところから聴こえて、まるでコンサートのようだ。
誰もが笑い、弾んだ声が絶えない記憶。
皆、楽しそうにしてて。
お父様も楽しそうで。
もちろん私も笑ってて。
そんな、そんな、キラキラとした宝石のような記憶。
その宝石は、透き通っていて。
眩しくて。
――そして、
湖が、綺麗なオレンジに染まりつつある。
風にゆったり押し出されては引いていく波の音。少し寒く感じられる風が、夜の訪れを感じさせていく。
「わぁ! 綺麗よ、皆、お父様」
「あぁ。そうだね。綺麗だ」
私たちは、湖の丁度真ん中に浮かんでいる建物に居た。建物といっても、白い屋根を支える柱が何本か立っているだけの簡素なものだ。
しかし、この湖と合わせると、まるで幻想的な神殿のように思えてくる。
真ん中という事もあって、湖の底は深いらしい。底が見えなかった。
私は、湖を覗きながら、ぼんやりとそんな事を思っていると、冷たい風がビュウッと、頬を撫でた。思わず身震いしてしまう。
「寒いな。そろそろ戻ろうか。おいで、ルナ」
「あ、はい! お父様!」
私はすぐに立ち上がって、腕を拡げるお父様へと駆け出す。そして、勢いをつけたままお父様の胴へと飛び付いた。……飛び付いてしまった。
あまりの勢いに、お父様のその体は傾き、一歩下がる。しかし、その踏み引いた一歩は、大地を踏むことなく――
「――――ぁ」
そのまま、
その時、ドンッと、お父様が私を突き放した。
「キャァッ!?」
刹那、お父様の体が私から離れる。
目を見開いた私の前で。お父様は優しく笑った。
そして、その笑顔のまま、お父様だけ凶悪なほどのオレンジに落ちていく。呑まれていく。
お父様は、私を助けるために突き飛ばしたのだ。
さっきまで、あんなに綺麗だったはずの湖が。お父様が落ちていく湖は、とても恐ろしい物に思えた。
「――嫌だ」
それは、嫌だ。
とても嫌だ。
「嫌だ、嫌だ嫌だ」
そう思考が走った瞬間、視界が滲む。
あんなに大切なお父様が。
呑まれてしまう。
深く、冷たい、そこに、底に。
「嫌だぁあああああーーッ!?」
その意思が
思わず伸ばしていた腕に。
力が登りうねるのを感じる。
心臓から、腕、手首。そして、手のひらへと。
そして、集まり、うねり合い、行き場のなくなった力という力は。集束され――
一直線に、お父様へと。鋭く
「ッ!?」
それを見て、お父様は顔色を変えた。
焦った顔で、身をよじり、紙一重で回避する。
穿つ標的を失った力は。
そのまま湖へと着弾し。
――湖が固まった。
「「――――え?」」
比喩はない。文字通り、固まった。
まるで氷のように固まった湖の表面へと、お父様は着地する。
回りの家族も、それを見て、音がなくなったかのように絶句する。
そして、そのうちの誰かから声があがった。
「それは、ルナの【
【
その時の私は、その言葉を聴いて目を輝かせた。何しろ、あんなに待ち望んだ【職業】がついに自分にも現れたのだから。
しかし、【職業】という物は『火』に関するものだと教えられてきたのだが……。
これは、あれか。
レア、というものではないのだろうか。
だから、私は嬉しそうに誇らしげに言う。
「そうね! これは私の【職業】よ! 氷だなんて、絶対レ――」
――パアン!
私の言葉は、その乾いた音に閉ざされた。
おそるおそる、頬に手をあてると。
痛い。
なんで、なんで痛い。
何が起きたのかと混乱している私に、もう一度平手が跳んできた。
パアン!
「痛ぁッ!?」
今度は、しっかりと痛みを感じ、後ろへふらつく。頬に手をあてたまま、私は叩いてきた人を見上げた。
「……ど、どうして? ぉ、お父様……」
叩いてきたのは、目の前にいるお父様だった。
お父様は、先程の笑顔を消し去り、なにも感情が読み取れない無表情で私を見下ろしていた。そんな表情、私は今まで見たことがない。
「お父様……?」
「…………ルナ。今、何をした」
そう、お父様は言った。
少し前までの楽しげな雰囲気が、もうそこには欠片すら残っていない。
私が息を飲む音以外、辺りは静寂に包まれる。
「う、腕を伸ばしたの。お父様に。そ、そしたら、湖が氷に……」
私は、怯えつつ、たどたどしく言葉を
「氷」
お父様が、ポツリと呟く。
回りの家族が、ポツリと呟く。
「「「氷」」」
氷、氷、氷、と。
呟き続ける家族に、私は置いていかれる。
いずれか、私は囲まれていた。
「お前なんか……」
誰かが、憎しみに満ちた声音で、投げる。
それを始めに。
『なんだそれは』
『お前は、私たちの家族ではない』
『なんと汚らわしい』
『今までの努力が水の泡だ。忌々しい』
『顔を見せるな、出ていけ。今すぐ出ていけ』
出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ。
投げる、投げる。
私を刺す言葉と視線は、全て敵意だった。
その言葉は、私に投げられる石や、炎より。格段に深く、痛く心に後を残す。
私は、怯えて震えるしかない。
小さくなって、自分の体をかき抱いて、ただただとどめなく溢れる涙を溢すしかない。
「なんで、どうしてよ……。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。許してください。ごめんなさい」
ごめんなさい、ごめんなさい。役立たずで、産まれてきてごめんなさい。何度も連呼する。
しかし、もうその出来事から。
もう二度と、私に笑顔を向けてくれることはなかった。
私が、どれだけ望んでも。体が壊れるまで努力しても。
もう、愛をくれることはなかった。
…………。
だからかもしれない。
今の私が、お父様の提案に、すぐに答えられなかったのも。
「ルナ。私の元に、戻って来ないか?」
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