十五 日曜日:偶然の産物

十五


「悩んでることがあるの」

 私に電話越しにそう告げたのは藤花さんだった。

 電話帳の登録名はちゃんと元に戻しておいた。

 スタンスを決めるにあたって、藤花さんの言葉も後押しになっていたと思うし。

 それにいつまでもそういうことをしていていい人でもない。

 私から見て彼女は大切な人であるし。

「何に悩んでるの」

「次の原稿の題材」

「……そんなの僕に相談していいの? 編集の人とかとするものじゃないの?」

「ベベだからいいの」

 どういう理論なのだろうか。

 プロ目線と素人目線は違うということか。

 であれば、納得と言えば納得だが。

 それでもプロ目線の方を重視した方がいいのではないか?

 多くの物を見てが故の審美眼を持つからプロの編集者なのだと思うけれど。

 ……アマチュアの編集者というのが存在しているのかは分からない。

 ただ存在していたとして、かなり厄介な存在であろうことは想像に難くないところだ。

「どんな話にするの?」

「色んな女の人と関係を持った男の人が問題に巻き込まれる話」

「……なにそれ」

「そのままの意味。どう思う?」

 どう思う、と言われてもだな。

「別に、いいんじゃないかな……?」

 何か問題があるような題材だとも思えない。

 最近の自分のことを少し顧みてしまうところがあるけれど、それは私自身の問題であり藤花さんの相談事とは関係がないのだ。

 だから、思考の外側に置いておくのが適切である。

 間というものが良いのか悪いのかが全く分からないが。

「ベベは経験ある?」

「ないよ」

「本当に?」

「僕はそういうタイプじゃないって分かるだろ?」

「ベベは自分が思ってるほどそういうタイプじゃないと思うけど」

 本気で言っているのだろうか。

 藤花さんが私の事をどういう人間と捉えているのか時々分からなくなる。

 いや、多分自分の思う彼女の中の自分というものが間違っているのだろう。

 他人の中の己を知ることは出来ない。

 だからこそ、人間と人間の間には問題が生まれるのかもしれない。

 ……ならば私が知らない間に私も問題を起こしているのだろうか。

 それすらも気付くことが出来ないことなのだろうけれど、もしもそれを知ることが出来るなら知ってみたいものではある。

 自分にとって不利益になるとしても、知らぬまま生きるよりはマシな気がしないでもない。

「藤花さんから見たら、僕が女性関係で問題を起こすように見える?」

「そうは言ってない」

「……」

「ただ、ベベはベベに向かう気持ちに鈍感だから」

「え?」

「本当に、鈍感。刺さってるのに、気付かないみたい」

 それはどういうことなのだろうか。

 私はその瞬間時間が止まったかのように動けないでいた。

 言葉も出ず、身動きもせず、思考だけが巡っている。

 藤花さんの言葉の意味が理解できないわけではないのだが、返す言葉が見つからなかったかのだ。

 そんな風に自分を捉えたことなど、ただの一度足りともないからである。

 なぜなら私は誰でもない。

 誰にでもなれるから誰でもない。

 菊屋咲良という存在そのものが、変化という能力によって薄くなっていく。

 輪郭がぼやけて何者かが怪しくなってしまう。

 そこにいるはずなのに掴めない。

 そばにいるのに見えない。

 存在しているかどうかも定かでなくなっていく。

 認識されない名簿上の名前。

 瞬きの合間に記憶の中から消えてしまう人間。

 それが私、菊屋咲良の体質で間違いない。

 なのに彼女は、私に向けられる感情の話をしている。

 ……いや、ここ最近の私の行動に影響を与えている桂御園の前提だってそういうものなのかもしれない。

 私に対して強い感情を抱いている人間だけが私を記憶できる。

 それは私が他人に対して何らかの感情を抱かれている前提の話であって……

「ベベ? ベベ?」

「あ、ごめん……ぼーっとしてた」

「大丈夫? 寝不足とか」

「いや、ちゃんと寝てるはずなんだけど……」

 私に対する感情に鈍感。

 自分自身が何者でもないから、あるいは今までの経験からして私に感情を向ける人間などそういないだろうという前提があるからそういう風になってしまっているのか。

 分からない。

 やはり、自分で自分がよく分からない。

 藤花さんが言っているのは本当に私の事なのだろうか。

 彼女は菊屋咲良について言及しているのか。

 世界が回る。

 私の周りが自転の速度に合わせて動いているような錯覚に陥る。

 分からない、本当に何もかもが。

「……ありがとう、ベベ。悩んでたけど、それで書こうと思う」

「特に何も言ってないと思うけど……」

「駄目って言われなかったらそれでいいの。それだけで背中を押してもらった気持ちになれるから」

「そういうもの?」

「そういうもの。ごめんね、急に電話して」

「いいよ別に」

「うん、ありがとう。空也ちゃんと仲良くね」

「分かってる」

 別れの挨拶と共に通話が切れる。

 藤花さんの中にある問題は何とか解決したらしい。

 気付けば私の中に問題のようなものが生まれてしまっているが。

 私は私に向かう気持ちに対して鈍感。

 そのことについてどう消化したらいいのだろうか。

「少年?」

 不意に背中の方から声がした。

 振り返るとそこには空也がいて、私は一瞬自分がどこにいるのか分からなくなっていた。

 冷静でなかった心が冷えていくと自分が空也の部屋にいたことを思い出す。

「空也」

「どうしたんだよぉ。なんか変だったよ」 

 空也に打ち明ければ解決するのだろうか。

 何かが分かるのだろうか。

「?」

 結果として、私は藤花さんから言われたその言葉を空也に話さなかった。

 彼女に言葉をもらえればきっと安心できるのだろうけど、そうすることによって何かが固定されてしまうような気がして。

 あるいは答えが分かってしまうような気がして。

 自分の中の結論を見つけなければいけないような、そんなことを思ってしまったから。

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