九 木曜日:男装しなくても麗人
九
冷泉トモエは私の雇用主である。
彼女はお兄さんと共に店を経営している。
店の名前は『〇泉』
読み方はレイセン。
何でも夜中に思い浮かんだものをそのまま名付けたらしい。
冷泉さんの兄から聞いたと、空也が教えてくれた。
元々ここは空也に連れられてきたのが最初である。
〇泉では食事と酒と、時々音楽を楽しめる。
店の一部分はライブが出来るように一段くらい高い舞台になっていた。
白壁姉妹に紹介したのは何を隠そうこの店である。
この店で私はアルバイトをしている。
ある日、ライブをする場所がないと相談を受けて冷泉さんにその話をすると、じゃあここですればいいとのことだった。
そして私は今日、冷泉さんから呼び出しを受けていた。
昨日の電話はここに私を呼びたかったかららしい。
一応、今日は非番の日である。
「お疲れ様です」
「あぁ、咲良君。お疲れ様」
地下に続く階段を下りて扉を開ければそこには冷泉さんがいる。
お客さんは誰も来ていなかった。
「……もう開店してますよね?」
「今日は臨時休業だよ」
「え?」
急に呼ばれたので団体客でも来るのかと思った。
この店では時々そういう案件もある。
一部の人の中にはこの場所で飲み会をしようとする人もいる。
そういう連絡が来るのは冷泉さんのお兄さんの顔の広さに由来するところだ。
「うーん、何と言えばいいのかな。君と食事がしたかった、というのはどうかな?」
そういって冷泉さんが私に微笑んだ。
不覚にも心臓が跳ねる。
彼女はこの店の看板娘といって相違ない。
竹を割ったような爽やかさや男性と相違ない身長と長い手足など。
外見的にも内的にも魅力的な人である。
彼女に会いに店に来たというお客さんを私は何度も見ている。
「まぁ座って、準備はしてあるんだ」
「分かりました」
ひとまず、カウンターの席に座る。
端の方に置かれた小さなかごの中には、トランプなどの簡単な遊び道具が置いてある。
その中にあるルービックキューブを手に取る。
いつも色がバラバラになっている。
聞けば出勤した時に冷泉さんやお兄さんが適当に弄っているとのことだった。
元の状態に戻る前で放置されている時も、あえて弄るらしい。
何度も私はこのキューブを元に戻さんと奮闘してきたが、その度に敗北して帰っている。
今日ならば大丈夫だろうか。
「知的な遊びをしているね」
奥から冷泉さんが戻ってきて、皿が置かれた。
一旦キューブを置いて、視線をやると皿にはスパゲティ。
赤い色をしているソースがそれに絡まっている。
「これは?」
「アラビアータというものだよ。私が作った。食べてみてくれないか?」
「……分かりました」
この店の料理はお兄さんの仕事である。
冷泉さんは配膳や接客の担当で、彼女が作るのはカクテルぐらいだ。
しかしそれもお兄さんが料理を作っている時や、冷泉さん目当てのお客さんが直接注文してきた時などに限る。
たまに賄いといって料理をごちそうになることもあるが、やはりお兄さんが作ったものを食べる。
彼女の料理を食べるのは初めてだ。
「いただきます」
「どうぞ」
フォークでスパゲティを巻き取る。
口に運び、最初に出てきた感想は辛いということだった。
「……ぐっ」
とても辛い。
気管に何かが潜り込んだのか思わず吹き出しそうになる。
何とかこらえて噛みしめる。
やはり辛いが食べられないほどではない。
「辛すぎたかな?」
「そ、そうですね」
「やっぱり料理は難しいね……」
「……ちょっと意外でした」
「料理は兄貴の管轄だからね。私は厨房に立たせてもらえなかったし」
こだわりか、あるいは心配か。
お兄さんが冷泉さんにそういうことをしたのにも理由があるのだろう。
そういえば、今日はお兄さんがいないのだろうか。
厨房の方に視線を向けるが、そこにお兄さんの姿はない。
「兄貴を探しているのなら今日はいないよ」
「あぁ、そうだったんですね」
「君に料理を振る舞うなんて言ったら俺も行くときかないだろうからね」
「そうなんですか?」
「あぁ、心配性だからね。私が料理をするのを後ろからじぃっと見たり口出しをしてくるに違いない……ありがたい話だけど、今日は私一人でやってみたかったから」
失敗だったけれど、と笑う彼女にそんなことはないと首を横に振る。
辛かったが不味かったわけではない。
前に食べた麻婆豆腐の方がよっぽど辛かった。
むしろ貴重な経験と貴重なものを見られたという意味でこちらが感謝をしたいほどだ。
「前に兄貴が事故を起こされたことがあっただろう?」
「ありましたね」
バイクに乗っている時に、操作を誤ったらしい車と衝突したらしい。
入院こそしなかったが骨を折ったらしく店に出るのが困難になった。
「兄貴がいなくてもちゃんと料理を出せるようにしたいんだ。兄貴の助けになるし、縁起でもないけど、また何かあった時に問題なく帰りを待てるように」
なるほど。
今回のことは冷泉さんなりに兄を気遣ったかららしい。
お兄さんにそのことを伝えれば、料理を教えてくれそうな気もするが彼女なりの意地のようなものがあるのだろう。
「後は君に料理を食べてみてもらいたかったんだ」
「そうなんですか?」
「私は君になら失敗する私を見せてしまってもいいかなと思ってるんだ」
「?」
「兄貴が事故に遭って人手が足りない時に来てくれただろう? 大変だったろうに分からないなりに頑張ってくれたし、今も働いてくれてる。私は君に感謝しているし、君を尊敬しているんだ」
「そんな……僕はそんな風に言ってもらうことはしてませんよ」
「謙遜しなくてもいいよ。まぁ、そう控えめなのも咲良君のいいところだけどね」
むずがゆい。
冷泉さんはそういうことをてらいなく言ってしまう。
人の美点を見つけるのが上手いというべきなのだろうか。
きっと彼女ならば、胸に差したボールペンでも褒めてしまうのだ。
媚びではなく、心からの言葉。
彼女目当てのお客さんの気持ちが少し分かった気がした。
「後はまぁ、忌憚なく意見を言ってくれそうだからね」
「……」
そこはどうだろうか……
私も遠慮くらいはする。
信頼されているということだろうけど。
「ふふ。君は君が思っている以上に素直だと私は思うけどね」
私の心を見透かしたように冷泉さんが笑う。
「言い忘れてたけど、好きに店の酒を頼んで貰っても構わないよ。付き合わせたお礼と今までの感謝だ。ボーナスは出せないけど、今日の食事代を持つくらいは出来るさ」
「……いいんですか?」
そこまでしてもらうのは悪い気がする。
じゃあ何が妥当かどうかと言えば、水を出していただくということぐらいだ。
「いいよ。それとも、うちの店のお酒は飲めないかな?」
「そういうわけじゃ……」
「ふふ。分かってるよ。お客さんとしてここに来てくれた時みたいな気持ちで注文してくれればいいさ」
メニューを渡され、目を通す。
どうにも酒の種類には疎く、味も分からない。
コーラなどは味も想像できるが、酒というのは飲み慣れていないと分からないのが常だ。
あるいは店によって同じカクテルでも味の違いが出たりもする。
困ってしまうな。
「……冷泉さんにお任せします」
「承知した……あぁ、そうだ実はもう一品料理があるんだ。それも食べてもらえるかな?」
「えぇ、勿論」
出てきたのはオムライスだった。
デミグラスソースがかけられており、食欲をそそる匂いが湯気と共に上がってくる。
「実を言うとこっちの方が自信作なんだ。今度は君に美味しいと言わせて見せるさ」
「楽しみです」
そして次に出てきたのは青とも緑とも言えない美しい色の酒。
美しい海の色を切り取って注いだようなものだった。
「エメラルド・ミスト、というお酒だよ。私が兄貴に一番初めに作り方を教えてもらった」
「なるほど……あぁ、じゃあこれをもう一つお願いします」
「ん? 別に構わないけど、どうしてかな?」
「折角なんですから、乾杯をしましょう。僕一人で飲むのも寂しいですから」
私は一人で酒を飲むことはない。
酒に馴染みのない私だが、これは誰かと飲んだ方が楽しいというのは分かる。
「そうか……ふふ。いや、嬉しいよ。そんな風に言ってくれるなんてね」
もう一杯のエメラルド・ミストが作られる。
二つの海が掲げられて―――
「乾杯」
私たちはグラスに唇を付けた。
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