十 木曜日:帰り道


「申し訳ないね、本来なら私が君を送るべきなんだと思うのだけど」

「いえ、流石にお酒を飲んだ女性を一人で帰らせるのは良くない気がしますから」

 それからしばらく酒を飲み、食事を楽しんで今は帰路である。

 折角なので送ろうと言われたのだが、送られるべきは私ではないだろう。

 治安が悪いとは言わないし女性を守るのが男性の役目だとも言わない。

 そもそも私の住む寮と冷泉さんの住むマンションまでなら彼女の部屋の方が近い。

 私を送れば冷泉さんはまた来た道を戻ることになり、二度手間というものではなかろうか。

「普段から帰る時は一人なのだから問題はないんだけれどね」

「それを言うなら僕も帰る時は一人ですよ」

 夜道を帰るのも慣れた。

「咲良君は寮で暮らしているんだったかな」

「はい。うちの大学の学生自治寮です」

「ふうん。私は寮で暮らしたことはないんだけれど、同部屋という感じなのかな?」

「そうですねぇ」

 特に交流などはないが。

 恐らく私の事を認識出来ていないだろう。

 私の荷物が誰かが置いていったものかと勘違いされることもしばしばだ。

「帰る場所に誰かがいるというのはいい事じゃないかな。最近よく思う」

「冷泉さんってお兄さんと暮らしてるんじゃないんですか?」

「最近一人暮らしを始めたんだ。兄貴と一緒に住んでた部屋の下の部屋だけどね」

「なんでそんな」

「……私はずっと誰かと生きてきたからね。父や母がいて、両親を亡くしてからは兄貴と一緒に生きてきた。そろそろ一人で立って歩けるようにならないといけないと思ったんだ」

 きっと私なら環境に甘えてしまうだろう。

 そう思うと冷泉さんの自立心というものを尊敬する。

「でも困ったことがあってね」

「なんですか?」

「やっぱり一日の大半が一人というのは慣れなくてね。正直に言うと少し寂しい気持ちがある」

「……」

 一人であるということは時に自分の輪郭を薄める。

 独立独歩であれる人間は例外だ。

 たった一人、孤高に身を置けるのならばそんなことは思わないでいい。

 しかし冷泉さんはそうではないのだろう。

 私も出来ることならば一人は嫌である。

「……君がいいならもう少し飲んでいかないかな?」

「え?」

「店に出そうか悩んでいる酒があるんだ、それの試飲もかねて……どうかな?」

 どう、と言われて少し困る。

 私に邪な気持ちはない。

 一切ない。

 そろそろ彼女の住むマンションが見える頃合いだ。

 受けるか断るか、答えを出そうとした時である。

「ん? 誰かと思えば君か」

 前方からの声。

 その姿は見覚えのある人。

 鯉山仁子、私のサークルの先輩。

 横にはもう一人。

「あぁ、寮にいないと思ったらここにいたんだぁ」

 雁金空也。

 ……これは良くない状況、なのかもしれない。

「おや、これは。どうも雁金さん」

「どうもぉ……ニコちゃん、この人がさっき言ったお店の人ぉ」

「へぇ。確かに聞いてた通りの感じだね」

「もうお店ぇ閉まってます?」

「今日は臨時休業でして」

「運が悪いね、空也ちゃん」

 と言いつつも、鯉山先輩の顔に残念そうな雰囲気はない。

 薄く笑って空也を見ている。

 どういう意図かは分からないが、あえてそうしているようには感じてしまう。

「しょうがないなぁ。部屋で飲みなおしだぁ……あ、二人とも来る?」

「いや……いいかな……」

 空也と鯉山先輩と飲むというのは、半ば魔境じみた雰囲気を感じる。

 空也一人が相手なら慣れているのだが。

 それに冷泉さんに誘われている手前、はいとは言い難い。

「冷泉さんはぁどうしますぅ?」

「魅力的なお誘いですけど、遠慮させていただきますよ。お酒を前にすると、どうしても仕事の気持ちになってしまいますから」

「そっかぁ……残念だけど、帰ろうかニコちゃん」

 そう言って空也が鯉山先輩の肩を抱く。

 相変わらず距離感が近い。

 鯉山先輩はそれを受け入れているようだった。

「別にボクはそれでいいよ。ええっと……君の名前ってなんだったっけ」

「冷泉です。冷泉トモエ」

「そう、冷泉君。臨時休業の日に従業員と一緒にいるなんて、中々いい関係の職場みたいだね」

 鯉山先輩と冷泉さんがお互いの目を見つめ合う。

 お互いに何を考えているのか私には分からない。

 私としては、私が冷泉さんとお兄さんの店で働いていることを鯉山先輩が知っている事に内心驚いている。

「……まぁ、別にだから何だという話でもないさ。それじゃあね冷泉君。今度は空也ちゃんとお店で飲めるのを願っておくよ」

「じゃあねぇー」

 二人が笑って戻っていく。

 空也の笑みと鯉山先輩の笑み。

 今となってはその顔の下の意志は違うものであったと思う。

 その時の私はいつものように意味深な言葉と雰囲気を残していく鯉山先輩といつものように酒の匂いを残してく空也を見送るだけだった。

「……帰ろうか、咲良君」

「ええ……あの」

「ん。あぁ、いや、いいよ。その先は言わなくても大丈夫だよ」

「え?」

「弱気なことを言ってしまったね。大丈夫、一人でいるさ。私の部屋で飲むのはまた今度にしよう」

「いいんですか?」

「あぁ、断ってしまった手前、雁金さん達に悪いからね」

 眉をハの字にして、冷泉さんが困ったように笑った。

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