十 素敵な人
十
キィコ、キィコとペダルを踏む。
労働というのは尊いもの、とは私は思わない。
出来れば楽をしてお金を稼ぎたいというのが心情だが、そうならないのが現実というもの。
食うために稼ぐのだ。
私は一日の労働を終え、空也の所に戻る途中である。
首に巻いたストールが揺れているのが分かる。
昔見た映画に腰に巻いた布が地面に着かない様に走る、というシーンがあった気がする。
そんなことを思い出していた時だった。
「あれ?」
私は自転車を止めた。
ハンドルの傍のアクセルを握った原因は、前にある角からこちら側に曲がってきた人のためだ。
見慣れた背丈、私よりも高い背。
見慣れた服装、白シャツに上着の夏には合わないスタイル。
見慣れた面相、落ち着いている雰囲気。
見慣れない髪、紫……?
「ベベ」
聞きなれた声、私の大事な人の一人。
「藤花(とうか)さん」
ペダルを踏む。
前に進むために必要なことだからだ。
「何してるの」
「お散歩」
嘘をつくな。
「嘘をつくな」
思考と発言が一致した。
心と体が友好条約を守った形である。
本当に何をしているんだここで。
「実家帰ってた」
「郵送してもらったんじゃなかったの?」
「……寝れないから」
なるほど。
郵送されるのが待ってられなくなってこちらに来たということらしい。
よく見れば大きなカバンを持っている。
その中にこの人の枕が入っているのだろう。
……そんなに眠れなかったのか。
「だとしても……そのままに家に帰ればいいのに」
「ベベ」
「な、なに?」
「わたしのこと、また嫌いになった?」
「ごめんなさいでした」
彼女の声は夜に聞くと少し怖い時がある。
ささやくような声が恐怖を呼び寄せてきているようだ。
「これから帰るの?」
「……空也の所に。ストールも返さないといけないし」
「ストール……それ空也ちゃんの?」
労働に向かう前に空也に借りたものだ。
貸すだけの責任が雁金空也にはある。
わざわざ首を隠すことになっているし。
「そうなんだ」
「そうだけど?」
「首、隠すのね」
「……隠してるわけじゃ」
「なら、取れる?」
取れるには取れる。
別にこのストールは私の首に張り付いている代物というわけでもない。
まぁ、取りたくはないが。
なので私は黙って首を横に振った。
それにつられて尻尾のようにストールがふわふわしている。
「ほんとに仲いいみたいでよかった」
「……髪、染めたの」
私はなんだかいたたまれない様な気持ちになった。
だからそれまで忘れていたこの人の髪について質問を投げた。
人らしくない髪の色。
明らかに染髪をしている色である。
「うん。綺麗?」
「綺麗、だけどさぁ……」
綺麗なのだが、なんだかなぁ。
黒髪の乙女とは程遠くなってしまっている。
もちろん、それが全てではないのだけれど。
「触ってみる?」
「なんで?」
昔、空也の髪を触って注意を受けたことがある。
女性の髪に気安く触らない方がいい、私のだったらいいけど。
そんな風に言って空也は笑っていた。
だから彼女の髪を触るのは、私と彼女の関係を差し置いても若干のやりにくさがある。
「いいならいいけど」
「いいよ、別に。なんで染めたの」
「見てた海外ドラマの女優さんが紫色にしてたの」
「それで染めたの……?」
「人前に出る仕事じゃないから」
まぁ、私がいちいち口出しをすることでもない。
好きにしたらいい。
似合ってないわけでもないと思うし。
「……こっち来て平気なの?」
「どうして?」
「仕事の進捗とか大丈夫なのかなーとか、予定とかないのかなーとか……思ったりしてるんだけど」
「……」
「?」
「……ない、から来たの」
変に間を置かないでもらいたい。
本当にないのだろうか、不安になってきた。
「ベベ」
「ん?」
急に立ち止まり、彼女は私の耳に顔を寄せた。
「もう原稿上げちゃった」
「なんでささやいた……?」
心臓がびくっとして、背筋がぞくっとした。
急にそういうことをするのは止めていただきたい。
「大きな声じゃ言えないから」
「変な言い回しをするな」
守秘義務とかだろうか。
よく分からないが、知らない世界には知らない規則というのがある。
私たちの世界はかなり混沌としている気がするが。
どこに行っても規則というのは付きまとう。
「終わってるならいいけど」
厳しくなければ終わっていない時でもいい。
それこそ心臓に悪くなければ私はいつだってこの人を歓迎して迎え入れるだろう。
迎え入れるが私は寮暮らしなので招き入れることはできない。
どこかホテルぐらいは探そう。
「おーい」
「ん?」
「あ」
声が聞こえてそちらの方を向けば空也がいた。
気付けばもうかなり彼女の住んでいる場所に近づいていたらしい。
外で待っていてくれたのだとしたら申し訳ないことをしている。
後で埋め合わせか、なにか詫びを入れておこう。
あるいは謝罪をする必要があるだろう。
手には酒瓶―――――前に聞いたことがあるものだ。
確かあれは海外製……ブランデー……コニャック……ヘネシー……
分かったところで下戸なので飲めないが。
「遅いぞぉ……あれ、藤花さん?」
「こんばんは。空也ちゃん」
「こんばんはです。ご旅行ですか?」
「実家に帰るついでにベベの顔を見に来たの」
「あぁ! なるほど……」
……警戒してると言われていた割には普通の受け答えの気がする。
勘違いだったのかもしれない。
なにか、ふとした時の反応を警戒と取られていたのだろう。
「何持ってるの? お酒、とは思うけど」
「コニャックのいいやつですよ。えっと、ヘネシーって書いてありますね……飲みます?」
「飲むわ」
「え、本当ですか?」
下戸なんじゃなかったのか。
正しくは、酒の味が嫌いじゃなかったのだろうか。
酒を飲んでいるところは見たことはないけれど。
「貰える?」
「あ、はい。でも部屋来てもらったらグラスとか……」
空也が話すのを制して酒瓶を握る。
蓋を開け、そのまま口を付けた。
ストレートで、ラッパ飲みをした。
下戸だと私に言った彼女がお茶を飲むような感覚で酒を飲んだ。
すべて飲み切る前に空也に酒は返された。
「あ、ありがとうございます……」
「美味しかったわ……ベベ、空也ちゃん。私帰るわ」
「送りますよ」
「いいわ」
「車は乗れないですけど。ホテルですか?」
「秘密」
空也に背を向け、私の方に向かって歩いてくる。
彼女はどこに向かうつもりなのだろう。
「待ってよ」
「なに?」
「行く当てはあるの?」
「あるわ。大丈夫」
本当だろうか。
優しく微笑んでいる彼女の顔からは何も読み取れない。
嘘はない、そう信じたい気持ちではある。
……いや、本人が言うのだからそうなんだろう。
そう結論付けるしかない。
ここで問答をするのは問題がある。
「……次に来る時はちゃんと連絡してね」
「ベベ」
「迎えに行く。月並みなことを言うけど、夜道は危ないし何かあってからじゃ遅いから」
人でないものが身近にいることをよく覚えておかねばならない。
世間がそれを……あるいは目の前の人がそれを信じるか信じないかに関わらず、それらはそこにいるのだから。
「大丈夫よ。でも、ありがとう。ベベは変わらないわね」
「……うん」
変わる。
私は変幻自在だ。
いや、自在というより変幻である性質に束縛されている。
変幻束縛、あるいは不自由自在の身である。
それでもそう言ってもらえるのは嬉しいものだ。
「それじゃあ、またね。おやすみなさい」
私たちは彼女の背中を見送った。
付き添いは断られた。
夜道は危ないと言ったものの、一人で行かせてしまった。
少し申し訳ない気分になってしまう。
心に何かがひっかかったような感覚が残っている。
「びっくりした……」
「急にお酒飲ませてこっちがびっくりした」
「ごめん。飲むにしても部屋でと思って」
確かにあれは予想外だったのだと思う。
……もしや空也の警戒というのは、そういう突拍子のなさだったりするのだろうか。
振り返ってみても、あの人が何か突拍子もないことをした記憶はあまりないけれど。
私は知らないが空也だけが知っていることがあるのかもしれない。
「……と、とりあえず部屋来る?」
「うん。あ、空也は藤花さんのこと苦手なの?」
「えー? うーん……ちょっと、まだ距離感は掴めてない、かなぁ……なんか少年と似てるようでちょっと違うような……なんて言うんだろうね」
「ふうん」
「後は……なんか、被ってない?」
「被ってない」
被ってない。
多分、九割の人が被っていないというはずだ。
残りの一割は話を聞いていない人間である。
「なんでだよぉ。お姉ちゃんで被ってんだろ?」
「藤花さんは『お姉さん』だけど、空也は『姉(あね)さん』って感じじゃないかな?」
テンションとかそういう部分が違う。
大体、空也は私の姉ではない。
「なにおう。生意気いうようになっちゃってさぁ……付き合いたての頃はぁ私にべったり甘えてたくせにー」
「今でも甘えてる」
「ほ……それもそうだね」
「そこは否定して欲しかったなぁ……」
まぁ実際、かなり甘えさせてもらっているのだけど。
家に泊めてもらったりとか。
その辺り、大学生になってからかなり自由がきくようになった気がする。
「冗談だよ。お腹空いてない? なんか食べる?」
「大丈夫だよ。今日は飲むの、付き合おうか」
「明日休みだし、お願いしちゃっかなぁ」
明日が休みじゃなくても、きっと空也は私の申し出を承諾したはずだ。
「……そんなに似てない? 面影とかは?」
「似てないよ」
「そっかぁ……」
「誰かに似てるから空也が好きなんじゃなくて、空也が好きだから空也と付き合ってる」
「……急にそういうこと言うなよなぁ。照れちゃうよ」
よく言うよ。
「僕が飲めるやつある?」
「あると思うよ」
藤花さんに出会うという突発的な出来事が起きた夜だった。
まだ夜は続く。
少なくとも私が眠りにつくまでは。
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