七 痛みと弱さと心と


 少し前の話になる。

 私がまだ折部寮に入らず、大学にも入らず、高校に入って一度目の夏が来た頃。

 わが町には台風が来ていた。

 観測史上最強ではなかったとは思うが、勢力は非常に強く、今まで味わった台風の中では最も激しい。

 一軒家の中で一人、私はそれと向き合っていた。

 停電が怖くパソコンの類は電源を付けられず、空也の所に行くことも出来ずに部屋の中にいた。

 家が揺れる。

 地震というものを一年に何度か受けていいたので、揺れること自体に恐怖はなかった。

 幸いにも震度3からそれ以下といった程度の体感である。

 ただ恐ろしいと思うのは、それが地盤という家を支えるものではなく、風というこの大地とは関係のないものから揺れがもたらされているということだ。

 私はその事実に漠然とした嫌な感覚を覚えた。

 当然、地震の中には台風以上の被害を生み出すものがあるのは知っている。

 それでも私はその瞬間ばかりは台風の方が恐ろしかった。

 外からやってきた風の塊が、私には通り魔のように思えた。

 でなければブレーキの壊れたダンプカーか不沈艦もかくやと考える。

「これで何度目のダウンかしら。菊屋」

 そんなことを考えるほどに私は余裕だった。

 圧倒的なまでの力の差。

 どんな作戦も力技でねじ伏せられてしまう。

 まるであの時の台風のようである。

 葉子の加護のおかげで怪我はないが痛みはある。

 うつ伏せに倒れた私のあごに、若王子さんの靴のつま先が当たる。

 地面を抉り、無理やり私の下に潜り込んだ足だ。

 彼女が足を上げるのに連動して、私の体が持ち上がる。

 フックで引っ掛けられたかのようにだ。

 若王子さんの足が天に向かって高々と伸びる。

 つま先で私の体を支えていた。

 一瞬、足首のスナップ。

 体が浮き上がっていると感じた頃には、私の体は下に落ちるのではなく横に吹っ飛んでいた。

 後ろ回し蹴り。

 踵が私のあごを蹴り抜き、規格外の被害を生み出した。

 痛い。

 が、気絶はしなかった。

 幸運だ。

「あ……ぁ、がっ……」

 起き上がる。

 無理やり体を動かしていく。

 手が動く、腕が動く、足が動く、首が動く、私の体は動くし、頭も働く。

 ならば、立たねばならない。

「まだ立つのね、貴方」

「はい……まだ立ちます……まだ、立てます……」

 痛みと疲労。

 また徒労になるかもと思いながら一歩ずつ前に踏み出していく。

 足が重い。

 いや、重いのは気持ちの方かもしれない。

 まるで相撲の新弟子のようだなと自嘲気味に心の中で笑う。

 また余裕だ。

 半ば諦め、それでも何かを捨てきれずに向かっている。

「遅いわ」

 振りぬいた拳をかわされ、一本背負い。

 背中への痛み。

 まともに受け身も取れずにもろに食らう。

 離されない手。

 肩を踏み抜かれ、その後に胸、腕を引っ張り上げられ体が浮き今度は背中。

「うっ……ぐ……あぁ……!」

「もう降参してしまいなさいな。それなら、もうこれ以上痛い思いをしないで済むわ」

「ダメです……それじゃあ……ダメなんです……」

「そ」

 跳躍。

 私の腹の上に着地する若王子羽彩。

 内臓が破裂するかと思った。

 多分、加護がなければ本当に破裂していたと思う。

 私の上に乗ったまま、彼女が話す。

「その根性は認めるけれどね、でも世の中には死んだ方がいいと思う瞬間があるのよ?」

 それが今だというのだろうか。

「にゃ、若王子さんは……そんな経験があるんですか……?」

「あるわよ」

 嘘だ。

 もし世界最強番付というものがあったとして、余裕の殿堂入りを果たせるだろう。

「そんなに、強いのに……?」

「そんなに強いからよ」

 私の腹の上から彼女が下りた。

 体が強張るが追撃はない。

「何にも本気ではあれなかった。少なくとも運動という科目において、若王子羽彩という人間は強すぎるほどに強かった」

 知っている。

「霊能力の反動は、貴方からすればデメリットとは呼べない代物だと思うけど、それでもあたしはこれに苦労させられた。瓦は割れても卵を綺麗に割れず、壊さないことが出来なかったから」

「そ……ん、な……」

 デメリットと呼べないだなんて、私は思わなかった。

 大なり小なり、霊能力というのは私たちの生活に影を落とそうとする。

 それを克服した人間が、変わり者として社会で生きていける。

 私はそう思っている。

「自分の強さに気付いた瞬間、人生は全部練習みたいなもので、どれだけ制御できるかという部分だけに力は注いだわ。その瞬間は死んだ方がいいと思ったわ」

 何にも本気になれない。

 本気を出せば運動では文句なしのトップ。

 むきになって、かっとなって、そんな事情で喧嘩になれば人が死ぬ。

 力を制御して、感情を制御して、その練習。

 若王子さんの人生はそういうものだったらしい。

「頭脳は強化出来ないみたいなんだけど、勉強を頑張り過ぎたようで国立に入ってしまって」

 ……才能がある。

 本当に強化されていないのなら、神様はいくつのギフトを彼女に渡したのだろうか。

「だからあたしは妖退治っていう得体のしれないものに手を出したのだけど」

 彼女が私を見下ろしている。

 黒い瞳が私を見つめていた。

「あんたは何でこのサークルの一員になろうとしているのかしら?」

 心臓が跳ねた。

 毛穴が一瞬して開かされた。

 背ににじむ汗が冷たい。

「もうやめてしまった方がいいんじゃなくて?」

 彼女の手が私の胸倉を掴む。

 引っ張られると、服の生地が耐え切れずに破れ始めた。

 若王子さんの瞳に感情はない。

 無理やりに立ち上がらされると、彼女と向き合う形になる。

 両手で掴まれるぐしゃぐしゃの生地。

 今この瞬間が好機とも思えず、手も足も動かせずにその場に棒立ち。

 戦士としての才能は私にはないらしい。

「やめてしまいなさいよ。ユートピアに入れば、心も体も傷つくかもしれないわよ」

「心配して、くれるんですか……?」

「ふふ、それは雁金先輩の仕事でしょう?」

 胸倉から右手が離れ、流れるようにボディブローが一発。

 体が浮く。

 今日何度目の浮遊感だろうか。

「あんたみたいなのが本当にやりきれるのか、正直疑問だわ」

 また、殴られる。

「やらないといけない事情があるわけでもなく、古市みたいな器用さがあるわけでもなく、何故かしら?」

「それは……」

「後は、なんで私のスタンプを諦めようという気持ちにもならないのかしら」

 拳が振り上げられた。

 腹かと思ったが違った。

 来たのは顔面であった。

「全部諦めてしまった方が楽になれると思うけど」

 賽銭箱に向かって飛ばされた私を葉子が受け止めた。

「って、言うてはるけど?」

「葉子は……どう思う……?」

「自分で決めたことやろって思う」

「僕も同じことを考えてた……」

 立ち向かわなければならない。

 力の差も、覚悟の違いも言い訳にはなりえない。

 言い訳になることがあるのだとすれば、それは生きているか死んでいるかという部分だけではないだろうか。

「若王子さん……」

「何かしら?」

「諦められません……若王子さんの判も、ユートピアも……だって僕が選んだ、道……ですから……」

 自分から望んで選んだ道だ。

「曲げられないんです……僕は、自分を変えたかった……他人に変えられることはあっても……自分から変わることは難しい……ここで投げ捨ててしまうのは簡単ですけど」

 私は再び彼女の目の前に立った。

 正直、立ちたくない気持ちが強い。

「自分で言ったことをそんな簡単に曲げるなんて、空也でも許してくれませんよ」

「それで、何度殴られても蹴られても我慢出来るの?」

「しますよ……覚悟決めたら悩まずに、進むしかないんですから……」

 ブレーキをかけることはあるだろう。

 立ち止まることもあるだろう。

 でも、だからといってやめてしまうこともないだろう。

「桂御園の一件で、自分が弱いのを再確認しました……怖かったです……でもその痛みや怖さや記憶を無駄にしたくないです……」

「……そう、確かに貴方は弱いわね」

「はい」

「強くなりたい?」

「はい」

「じゃあ、強くなりなさい」

「はい」

「それが貴方のスタンス?」

「いいえ。まだ、それがスタンスじゃあないです」

「そう。見つかるといいわね。応援するわ」

 彼女が構え、私は構えられない。

 格闘技の経験など全くなく、とりあえず両の拳を握って顔よりも少し低いぐらいの高さまで上げてみる。

 彼女の構えを真似してみたが、本来あの人に構えなど必要ないだろう。

 私が拳を出す。

「その程度かしら」

 初めて私の攻撃が彼女に当たった。

 若王子さんはかわさしたり、掴んで防いだりもしなかった。

 彼女の顔に拳が当たったのを自分の目でしっかりと確認する。

 ほんの少し、胸が痛んだ気がする。

「そんな顔している暇はないわよ」

 彼女の拳が私の頬を叩く。

 痛い、痛いが先ほどよりはマシだ。

 手加減されているのだろう。

「全部受けたって私はあんたに勝てる」

「……!」

 拳を握りなおす。

 大きく息を吸い込み、イメージする。

 今まで散々受けてきた打撃の痛みや力強さをだ。

 私の体が変化していくのが分かる。

 自分が若王子羽彩に負けない力を持つ人間だと信じる。

「らァ!」

 手ごたえあり、油断していたせいか肩に当たった拳で彼女の体勢が少し揺らぐ。

「はは」

 若王子さんが笑った。

 でも、怖くはない。

「そうよ。全力でいらっしゃい」

 そこから先は意地の張り合いという感じがあった。

 お互いに一歩も下がらずに殴り合っていた。

 心は痛まなかった。

 そういう気持ちを持ち込む場所でもなかったから。

 ただなんというか、やはりというべきか、徐々に打ち負けてきた。

 私の手が止まるのが多くなり、体勢が崩れやすくなっていく。

「はぁ……はぁ……はぁ……!」

「思ったより長引いたわね」

 彼女が視界から消える。

 姿勢を低くして、深く踏み込んでいる。

 曲げた膝を一気に伸ばしながら彼女が腕を振る。

 低い位置から放たれたアッパーが、私にぶつかった。

 高い。

 棒高跳びのような高さだった。

 もっとも、そんな思考は直後に垂直跳びで追いついてきた若王子さんの存在で忘れてしまった。

 本当にこの人は規格外だ。

「そろそろおしまいにしましょうか?」

 空中で体を掴まれた。

 なぜそんなに自由に動けてしまうのだろうか。

 気付けば背負い投げのような体勢。

 彼女の体が私の体に重なり、そのまま地面に落ちていく。

 このままでは彼女の下敷きになって地面と衝突か。

 そうだ、もう終わりにしよう。

 落ちていく、だが落ちるのは若王子さんだけだ。

「……!」

 インパクトの瞬間。

 私の形が失われる。

 霧のように散っていくのだ。

 だから、私を下ではなくなってしまう。

 であればどうなるか?

 当然、彼女だけが地面と正面衝突してしまうだけというわけだ。

「はぁー……! はぁー……! 怖かった……!」

 霧散した私の体が集まり、体が作り直された。

 本当にちゃんと戻れただろうか。

「よ、葉子!」

「大丈夫やで、ちゃんといつもの咲良君やからなー」

「何かしら、今の」

 若王子さんが立ち上がり、私の方に歩いてきた。

 全くダメージを受けた様子はない。

 結構高い位置から落ちたはずなのだけど。

 若王子さんなら大丈夫だと思ったが、本当に大丈夫なようだ。

「体がバラバラになって、もう一度くっつけばなぁと……」

「……それで出来たの?」

「しないとダメなので、やらないといけないと思って、とにかく力を抜いて……」

「出来てもうてんな」

 我ながらよく出来たと思う。

「それ、失敗したら一生バラバラだったんじゃないかしら」

「あ」

 確かにそうだ。

 そもそもバラバラになっていた時は思考が出来ていなかったかもしれない。

 どうやって私は元に戻ったのだろうか。

 考えたら怖くなってきた。

 心なしか体が震えている気がする。

「無茶をするわね」

「でも、そうやって勝てましたから」

「そうやね。試合終了やわ」

「まぁ、そうね……合格だわ。今度部室来た時にスタンプを押してあげるわ」

 若王子さんがしゃがんでこちらに手を伸ばす。

 これはそういうことでいいのだろうか。

「ありがとうございます」

 私は彼女の手を握った。

 優しい力だ。

 そのまま若王子さんに立ち上げられる。

「お疲れ様。じゃあ、私は帰るわね。さようなら」

「はい。お疲れ様でした」

 鳥居を潜って若王子さんが帰っていく。

 そのうち姿が見えなくなってしまって、それが彼女が現世に帰ったのだと理解させてくれた。

「嵐みたいやな」

「うん……」

「とりあえず、おめでとうな咲良君。あ、スマホ返すな」

 賽銭箱の中からスマートフォンが取り出された。

 何だか神聖なものになったような気がするのでやめて欲しい。

 どういう感覚なんだろうか。

「なんかピカピカ光ってたで」

「? そりゃ、ピカピカ光るとは思うけど」

「電話来てたっぽいで?」

「え、ほんと?」

「誰か知らんけど、後で折り返しときや」

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