八 月の綺麗な夜でした


 神域から出たころには日付が変わりそうになっていた。

 ボロボロの服で出ると問題になるからと、服は葉子が直してくれた。

 縫物をしたとかではなく、神様の不思議な力で服を過去の状態に戻したらしい。

 よく分からないが、すごいことが起きたことは分かった。

 SFか? 私の人生はSFになっているのか?

 違う、なんということはない……いや、さっきのはなんということはなくなかったが。

 それでも私の人生はもっと平坦な日常もののはずだ。

「……」

 スマートフォンに残った履歴。

 二つあって、片方は空也だ。

 ただ葉子が折り返しておけといったのはもう一つの方だろう。

 空也の方は何も言わなくても折り返すと思っているだろうし、もう一つは登録名が『アホ』だからだと思う。

 ……我ながら酷い登録名にしてしまっている。

 多分以前喧嘩した時に腹いせでしてしまったのかもしれない。

 謝りたいが、謝ったところで相手もどうしていいのか分からないだろう。

 なので黙っておくことにする。

「はぁ……」

 近くの土手に下りて電話をかける。

 何となく鳥居の近くだと葉子に話を聞かれてしまう気がして。

 こんな時間だがきっと起きている。

 私のその予想は当たった。

 二回のコール音が鳴った時に相手が電話を取った。

「ベベ」

 私のことを少年と呼ぶのは雁金空也くらいだ。

 そして私のことをベベと呼ぶのはこの人くらいだ。

「こんばんは。起きてたの」

「起きてた。仕事、終わらなくて」

「そっか。あんまり夜更かしすると体に悪いから」

「ん。てんきゅ」

 何となく眠そうな声色だった。

 ウィスパーボイスというのか、息が混じったような薄い声。

 柔らかくて、するすると耳の中に入ってくる感じで、聞いていて心地がいい音ではある。

「それで何?」

「ベベって最近実家帰ってる?」

「いや、帰ってないけど」

 帰ってもちゃんと覚えられてるか怪しいし。

「そう……帰る用事ない?」

「ない、かな……」

「そうなんだ。前帰った時に忘れ物して」

「何忘れたの」

「枕」

「枕?」

 あぁ、そういえば変わると眠れない人だったなと思い出す。

 私も同じだが、大抵我慢して寝てしまう。

 あるいは泥のように眠るまで疲れてしまうかのどちらかだ。

 思えば空也の部屋の枕に慣れるのにもそこそこ時間がかかった気がする。

 これは今そんなに関係のない回想であった。

「忘れちゃって……眠れなくて……」

「いや、取りに帰るか郵送してもらいなよ」

「ベベの顔が見たいからって言ったら、どう?」

「……郵送してもらえ」

「薄情」

 薄情じゃない。

 大体、枕が変わって眠れないから枕を持っていくのは良いが、忘れて帰るのは阿呆のすることだ。

 自分の性質を理解して行動しているのに、最後にささいな失敗をしてしまう。

 うっかりし過ぎだ。

 忘れないように手の甲にでもメモをしておくか、出るまでに荷物を確認する必要がある。

「郵送してもらう」

「それがいいよ」

「……ベベ、大学楽しい?」

「……大変だよ」

 主に学業とは違うところが。

 学業は学業で大変だが、それ以上に大変なことを体験してしまった。

 そして今、そこに自分から飛び込んでいこうとしている。

「そうなんだ」

「うん」

「空也ちゃんと仲良くしてる?」

「してる」

「……よかった」

 よかった、のか。

 そりゃあよかったと言ってもらった方が嬉しいのだが。

 だが、何となくこの人は他人のそういう部分に興味がなさそうだと思っていた。

 なんとなくこの人はそういう世相の流れの中にいながらも、そういうものに流されていない用か気がしたから。

 有り体にいって、他人に深く興味を示さない人だろうと認識していた。

「この間、空也ちゃんに会った」

「ほんとに? どこで?」

「そっちに旅行しに行ったときにね、行きの電車の中で」

 そうだったのか。

 行きの電車ということになると、空也はこの街から出て帰ってくるところだったのだろう。

 あいつはいつもふらふらとしているから、たまに姿を見せなくなることがある。

 大学にまともに通っているのかも怪しいと思う。

 単位とか大丈夫なのだろうか。

「空也ちゃん、わたしと会うと警戒してる気がする」

「え、ほんと?」

 警戒心というものがありそうでないのに。

 もしくはあっても目に見えることはほとんどないのに。

「なんでだろうね?」

「知らないけど……」

 私は雁金空也ではないし。

「なんでだと思う?」

「いや、知らんて」

「わたしが下戸だから?」

「僕も下戸」

 思い込みの力を借りればザルになるが。

 基本的には下戸で間違いはない。

 空也の場合、素面の状態に自分の肉体を無意識に保存するのでアルコール分解が常人の何倍もあるので、アルコールをものともしない肉体を手に入れている。

 あの仕入れかと見紛うほどの量の酒の代金はどこから出ているのかと思うことが多々ある。

「……そういえば」

 ふと、落ち着いてみて私はこの人に自分の考え事の相談をしようと思った。

 自分で解を出すことになるが、参考になる意見というのは多すぎず少なすぎずの量で欲しい。

 今では少なすぎるような気がした。

「何で働いてるの?」

「急に何? やめて欲しいの?」

「や、違うけど」

 聞き方が悪すぎる。

 もう少し考えて聞けばよかった。

「進路で悩んでるの?」

「そんな感じだけど……」

「空也ちゃんのヒモとかどう?」

 ダメだろ。

 空也にそういう話をすると喜んでヒモにしてくれそうな気はするけど、別にヒモになりたいわけではない。

 ……本当だ。

 生きがいというものを感じられなくなりそうだし。

「ん……ベベがどんな答えが欲しいのか分かんない……」

「別に、どんな答えが欲しいとかじゃなくて……えーと、働くとかそういう、なんていうん活動とか行動とか、そういうののスタンスが……」

 上手く言葉が出てこなかった。

 流石に退魔サークルの話をする訳にもいかないし。

 この人はそういう力がないのだから。

「働く理由、とか?」

「そう、そんな感じ」

「お金が欲しいから」

 確かにそうだ。

 私もお金が欲しいからアルバイトをしている。

「ふ、普通……」

「普通だよ。世の中の人って大体そうなんじゃない?」

「それもそっか……」

「わたしは違うけど」

 急に浮世離れするな。

 いや、してないか。

 世間ずれした発言ではなかったか。

「わたしは今の仕事、好きだよ。会社を辞める時とか、悩むこともあったけど……仕事を一緒にしてる人は、情熱とか考えとかその人なりにあるみたいだし」

「……」

「ベベはベベの好きなことをしたらいいと思うよ。したいことをしたいように。それはとっても難しいことだけど、とってもいいことのはずだから」

 したいこと。

 したいこと、か。

 私のしたいこととは何だろうか。

「ベベのしたいことって何?」

 それを私は探している。

 それを見つけるためにスタンプラリーをしている。

「分かんない」

「そっか……じゃあ、別の所から考えてみたら?」

「別の所か……」

「したいことって初めは漠然としてるから、好きなこととか嫌いなこととか、そういうの。考えててもこういうの、なかなか答えが出ないから」

「そうだね……ありがとう」

「人生、長いからゆっくりでいいよ」

 まだ四半世紀と少ししか生きていない人が笑った。

 半世紀くらい生きてから言って欲しいものだ。

 ……そんな通話相手につられて私も笑ってしまった。

「ちょっとびっくりした」

「なんで」

「今までベベはわたしにそういう相談をしなかったから」

「ごめんなさい」

「いいよ。なんで?」

 相談できなかったから。

 私の持っている霊能力という苦しみを私は誰にも打ち明けずに生きようと思った。

 もしくは苦しみを持ったまま死のうとしていた。

 だから貴方に全てを打ち明けられなかったのだ。

 空也や葉子と出会い、私が私を受け入れて菊屋咲良として生き始めた今でも、私はこの人に胸の内を吐き出せない。

 どうしようもないほど私に意気地がないせいで、私は自分の親しい人に秘密を持ち続けている。

「なんでもない」

「そっか……そろそろ切るね。ベベが元気そうで良かった。空也ちゃんによろしくね」

「うん。風邪とか引かないようにね」

「ベベもね。おやすみ」

「おやすみなさい」

 通話が切れる。

 スマートフォンをポケットの中に突っ込み、その場にしゃがみこんだ。

 好きなことや、嫌いなこと……か。

 確かにスタンスとはと思っても、答えは出なさそうだ。

 少なくとも初めに思った『強くなりたい』という感情は初期衝動であれ目標ではない。

 じゃあ、なんで私は妖と関わる?

 ……考えている途中でスマートフォンが震えているのを感じた。

 空也だった。

 すぐに通話を開始した。

「少年大丈夫かぁ? こっち来ないし、寮にいないって桂御園君は言ってるしさぁ。しかも若王子ちゃんが攻めてに行くって言ってたからどこ行ったのかって思ってぇ」

「あぁ、ごめん。若王子さんのテストは終わったよ」

「そうなんだぁ……その感じだと合格したんだねぇ。おめでとう。お姉ちゃんも鼻が高いよ」

「分かるの?」

「分かるよ。少年の恋人だかんねぇ?」

 恋人だから分かるという理屈はあんまり分からないが、付き合いは五年ほどになるか。

 お互いのことを理解しているぐらいの意味合いだと思っておこう。

「で、どうする? 今日は泊まってく?」

「なんで?」

「なんでってぇ、別になんか理由があったわけじゃないけど、最近は泊まってることの方が多かったしぃ」

 桂御園の一件後から癖で彼女の部屋に行くことが多くなっていたのは確かだ。

「今日は寮にする?」

「ううん。そっちに行くよ」

「あいよー。お風呂沸かして待ってるぅ」

「ありがとう」

 私は彼女の部屋を目指して歩き始めた。

 多分すぐにつく。

 体中が痛いけれど、いつも彼女の部屋に向かう時だけ何故か私は競歩の選手よりも早く進むことが出来るのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る