二十 倫理

二十


 扉を開ける、そこはホテルの内部とは異なる。

 受付も何も無く廊下がそこにある。

 現実に存在するものでなく、外観と内観が違ってもおかしくはなく。

「……」

 廊下を歩く、部屋番号はめちゃくちゃでなんとなく鯉山先輩らしさのようなものを感じてしまう。

 なんの意味も規則もなくそこにあり続ける。

 自由なように好きなように。

「先輩、どこですか!」

 答えは聞こえない。

「ん?」

 あぁ、と勝手にひとりで納得する。

 今の私には縁の糸が見える。

 出入り口で待機している彼らに見えるようにしてもらったからである。

 つまりはこれをたどって行けば鯉山先輩に会えるのではないだろうか。

 問題があるとすればどの糸が誰なのか具体的に分かっていない事だが。

 一本一本たぐってみる。

 出入り口向きのものは除外していき……いや、部屋を通り過ぎてしまった場合はそっちが正解になるのか。

 ううんと悩むと糸伝いに声が聞こえてきた。

「菊屋君、まだかな?」

「糸電話……?」

「ふふふ、意図電話かもよ?」

「意外と余裕ですね……」

 というか、会話が出来てしまっている。

 建物の中に入ったあとは糸伝いに探すのが効率的なのだろう。

 ……いや、こういった特殊な道具に頼るのもどうかとは思うが。

 自分の足で探すことこそが誠意というものでは無いのだろうか。

 私がこの問題の発端であるし。

「おや、考え事をしているのかな? そう黙りこくられるとボクを助けに来ないのかと不安になるよ」

「……行きますよ、ちゃんと」

「あぁ、そうしてくれると助かるよ。なんだか……気分がいいんだ、君に会いたいよ」

 その言葉の意味も感情も分かるが、それを振り切るために私は動いている。

「ねぇ、早く来てくれないかな、キミ……」

 同じ声、同じ人のはずなのになぜか私の中に彼女の言葉がどろりと入り込む。

 鯉山先輩が私に好意を向けていると自覚しているからでは無い。

 ささやかれるような錯覚。

 なにか、背に走ったような。

「先輩、僕はちゃんとそちらに行きますから」

「ふふ……たァのしみだ」

「そう、ですか」

「そうだよ」

 やはり、何かがおかしい。

 私の知る鯉山仁子であると確信できるのに、どこかが違う。

 この空間において衝動や欲求に飲み込まれているからなのか。

 考えているうちに部屋の前にたどり着いていた。

 物理法則を無視する縁の糸は扉の向こうに。

 扉を三度叩く。

「空いてるよ」

 ひやりとする感触のドアノブを捻る。

 開く。

「……っ!」

 初めに感じたのは匂いだ。

 なんとも言えず、これまでの人生で嗅いだことのない香りだった。

 クラクラとしてきて、目の前が明滅するような。

 甘さにも似たそれが鼻から体に入り込み、染み込み、巡り、脳内に到達する。

 次に部屋の中に充満する煙と部屋の中を満たす熱を感じた。

 何かを焚いているらしい。

 お香たまろうか、ならばこの部屋の匂いもあれが原因だろうか。

 私は思わず鼻に手をやった。

 吸引を防ぐためではない。

 私の鼻を伝って血が流れ出したからだ。

「待ってたよ、さーくら君?」

「……鯉山先輩」

「おや、血が出てるじゃないか。こっちに来なよちり紙でもなんでもあるからさ」

 鼻血が出たせいか少しばかり頭がすっきりしたような気がする。

 声の主、あるいは部屋の主である鯉山先輩は平気なのだろうか。

 扉からまっすぐ歩いていけばベッドにたどり着ける。

 その上に鯉山先輩が座っていた。

 布団に身を包んでいる。

 雪ん子かなにかだろうか。

「……すみません」

「いいよいいよ、ほら」

 煙をかき分け、私はベッドに近付いていく。

 片手で鼻を押さえながら、もう片方の手を彼女の方に伸ばす。

「ティッシュを……」

「ふふ……そうそう、おいでおいで」

 私の手に触れたのは紙ではなく彼女の手で、そのまま思い切り引かれる。

 不格好にうつ伏せの状態でベッドに引きずり込まれてしまう。

 どん、と背に軽い衝撃。

 上に乗られたらしい。

「なにを……?」

 反転。

 硬直。

「な、なんで裸なんですか!」

 そこにいたのは布団を捨て、生まれたままの姿の彼女であった。

 服に覆われ、守られていた部分がそのまま目の前。

 ニヤニヤと意地悪そうに笑って逃げようとする私の手首を押え付ける。

「シャネルの五番さ」

「……嘘ですよね」

 もちろん、と頷きが返ってくる。

 煙が目にしみる。

「の、のいてくださ……!」

「やーだね」

 軽く頭突きを食らう。

 衝撃と吸い込んだお香のせいで目の前が明滅するような錯覚を覚える。

 勘弁して欲しい。

「そんなに焦って│《せいて》なんになるのかな?」

 ぐいっといつの間にか手首を解放していたらしい手が私の鼻の下を拭う。

 親指にべったりとついた血を何の気なしに鯉山先輩は舌に乗せる。

 また、ぐらりと世界が揺れる。

 赤い舌がうごめく。

 私は私の見ているものが現実だとは思えない。

 思考が整わない。

 泡が水面に浮いて弾けるように、大きな何かになる前に潰れてしまうのだ。

 上に乗っている彼女から離れようとベッドを蹴ろうとするが上手く力が入らない。

 あるいは、彼女の膝を押そうとするものの手もまた力が乗らないのだ。

 ひとつ呼吸をするごとにふわりと体が軽くなるようで。

 私は私の形を記憶することばかり気にしていて、それが思考がまとまらない原因の一つのように思えた。

 変化しないように、この体を忘れないように。

「ふわふわしてきたかい?」

 囁かれる。

 腹の下にあった重さは少し軽くなり、気付けば覆いかぶさられていた。

 それに抵抗できずに私は全てを受け入れていた。

「これはね、吸うと神様が降りてくるんだ」

「かみ、さま」

「そう。世界が広がって、色も音も普段よりも沢山わかるんだよ。分かりすぎて脳が回りすぎるのか、お腹が空いたりするけどね」

 神様。

 私の見た神様はここにはいないのに。

 鯉山先輩は何を見ているのだろうか。

 水音がする。

 何かを口に含んでいるような。

「くすぐったい……」

「そう? 可愛い耳だったんでついね」

 私は酩酊していた。

 酒を飲んでいる訳でもないのに雲の上を歩いているようにおぼつかない。

 私を見下ろして鯉山先輩は満足そうな顔をしている。

 何をしに来たのか忘れそうになっていることに気付き、なんとか言葉を吐き出す。

「僕はせんぱい、に……」

「聞きたくないなぁ。今のままで良くないかい?」

 また腹の下に重みがやってくる。

 鯉山先輩が体を起こしたらしい。

「キミも、満更じゃないだろ?」

 手が腹に触れる。

 ゆっくりと服の裾を持ち上げて、体を滑る。

 外気に触れる肌、粟立つような感覚。

 暑かったのが少しずつマシになる。

 これも、この熱もお香のせいなのだろうか。

「うん。なんだ、やっぱり男の子だね」

「やめ……て……くださ……」

「やめていいのかい? 後悔するよ」

 施されていればよかったとね。

 そう呟いて私の言葉や意志など知らぬ顔をしている。

「ぼ、くには……空也が」

「うんうん」

「だから……あなたのおもう、ようには……いかな……」

「知ってるよ」

 口を塞がれた。

 息苦しい。

 視界が鯉山先輩で埋まってしまう。

 押し返そうとしているのに全く手が動いてくれない。

「キミが空也ちゃんと付き合ってることだってボクは承知の上さ」

「な……」

「でもね、やっちゃダメって言われることはやりたくなっちゃうよねぇ?」

 恋人と愛人、先輩の問いを思い出す。

「いいんだよ? ボクを選んでも、ボクと空也ちゃん両方を選んでも。ボクはね、楽しくて気持ちよくて素晴らしければなんでもいいんだ」

 呼吸が上手くできない。

 私は彼女に支配されていた。

 ただ、脳に流される言葉を聞いているだけだ。

「もっと自由に、欲求に従って……ほら、全部求めていいんだよ。僕もそうするからさ?」

「ぜんぶ……」

「そう、やりたいことをやるんだ」

 どろりと欲がこぼれる。

 私の上に鯉山先輩の欲が広がる。

 これは毒だ。

 きっと従えばいい思いができるだろう。

 空也だって許してくれるかもしれない。

 超然的な空也のことだからもしかしたら。

 やりたいことをやればそれで。

「いや」

 いや、私は何を考えているのだろうか。

 そんなこと、許されていいわけがない。

 私が選んだ答えを示さなければならない。

「……!」

 私は手首に爪を立てる。

 自分で自分の手首にだ。

 私の爪は刃のごとく。

 そう、ぼんやりとした頭で何度も唱える。

 ぐっ、と爪が肌にくい込む。

 肉に刺さる、抉る、そして切る。

「……おいおい」

 私の肉体は変化する。

 考えたように、感じたように。

 私の手首は切り開かれた。

 蝶番が馬鹿になった扉のように揺らいでいる。

「ぼ、僕は……空也以外を愛するつもりは……ない!」

 体がもたらされても、心がもたらされても、我が心が変わることなどない。

 流れる血に混じってお香の効果も抜けていくようだ。

 曇り空が晴れるように私の心だって澄み渡る。

「……鯉山先輩、僕は貴方の思うようにはなれない。僕にとって一番大事なのは雁金空也ただ一人です。貴方がどう思おうと関係ない」

「ん。ん……その愛情はそこまで執着すべきものなのかな」

「……はい」

「彼女に借りというか、恩があるらしいじゃないか。それに殉じているだけじゃないのかい?」

 それは違う、とは言えない。

 私と空也の関係においてその出来事は余りにも大き過ぎる。

 あの時のことを引きずって私が空也に執着しているのかもしれない。

「……そうだとしても、愛しています」

「そっか……あーあ、こうなるんだったらさっさと食べてズルズル引きずらせれば良かった。何も考えられなくしてやれるんだったなぁ」

「悪い人ですね」

「そうだよ? 嫌いかい?」

 悪びれる様子がなくて思わず私は眉をハの字にした。

 彼女は私が思う以上に悪い人で、思う以上に困った人らしい。

「……ほどほどにして下さいね先輩。何かに巻き込まれると困りますよ」

「ふふふ。もう巻き込まれているようなものだけどね」

 ……それもそうである。

「まぁ、いいや。行きなよ。今日のところは諦めよう……もしも空也ちゃんに飽きたら来てくれていいんだよ?」

 その言葉に安心のようなものを感じてしまったのか、私は思わず微笑んでしまった。

「その頃には先輩は三度生まれ変わってますよ、きっと」

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怪力乱神を語る 鈴元 @suzumoto_13

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