逢魔の瞳と人形少女/3
翌日、神崎美優はベッドの上で微睡みながら、ずっと、白羽薫のことを考えていた。
……あの女は、みえているようだった、ということと。
……あの女は、自分のつくりだした幻覚だったのではないか、ということを。
朝になっても、緑色の小鳥は病室の中を飛び回っている。美優の包帯を替える看護師の頭を突き抜けても、小鳥と看護師双方に傷は無い。互いに気が付く素振りもなかった。
けれど――美優は考える――小鳥たちは、自分を認識しているのではないか。
それは、一羽、ないし二羽が常に、美優の頭上を飛び回っているからだ。今も一羽、美優の見上げる天井のあたりを旋回していた。美優の観察した範囲では、他の場所で旋回したり、特徴的な飛び方をしている訳ではなさそうだった。
……違う。
ふと、思った。思考ではなく、直感として。
明確にはわからない。しかし何かが違う。それに気が付くと、美優は俄然、注視し始めた。飛び方、色、形。けれども、どの小鳥も同じように視える。
微睡む。微睡みながら、白く霞んだ思考が続く。
そう思えば、この小鳥たちには個性が無さそうだった。どの小鳥も手のひらに乗るくらいの大きさで、羽の色も同じ緑色だった。飛び方も同じである。しばらく飛び回っては、小さな椢のネックレスへと吸い込まれていく。今ももう一羽が、椢から頭を出した。四羽の小鳥たちが――
……四羽?
そこで、美優は引っかかった。
昨日は五羽が飛んでいた。
今は、四羽しか飛んでいない。
……五羽揃って飛んでいる様を、今日は視ただろうか?
視界の外に行ってしまったのだろうか。けれども、今朝、美優の眼が覚めてから、五羽揃って飛んでいただろうか。朝早くに起きてからずっと、美優は小鳥たちを眺めていた。正午を回って、十五時が来ようとしているが、しかし今日はこれまで、四羽しか飛んでいない。
身体を大きく動かせないまま、美優は視線を巡らせた。ベッドに寝たままの視界は限られているが、病室のおおよそは見渡せる。
小鳥たち以外に些細な異常があるとすれば、それはひとつきりだ。
ネックレス。
美優が眼を凝らせば、菱形の孔の周りには細かな模様が彫られているようだった。菱形をなぞるように、幾重になって溝が彫られ、溝と溝の間には、所々、やはり菱形の意匠が視える。それはスパンコールのように光っている。
眼を、凝らす。
遠く――かつ近くを――美優は視る。知らぬ間、美優の眼は蒼を帯びる。菱形の意匠。意匠の先の菱形。幾何学模様。溝。微かな凹凸は、見知らぬ街のビル群のよう。近未来じみた、モノトーンの都市。壁面には再び菱形。彫られた溝の奥には無機質な街。黄色の空。空に引かれた白濁の直線が折り重なって、輝く星の先には黒の塵。
美優は、病室のドアが引かれる音にも、足音にも気が付かない。
――塵。否、灰の集合。灰色を基調に、所々には宝石のような煌めき。灰の砂に埋もれた宝石。赤色と思った。赤の裡には青が、緑が、紺が……あった。映された鏡面
「ストップ」
薫は片手をネックレスに被せ、覆った。美優の視線が遮られる。息を切らしながら、薫は云った。
「――まさか視線だけで入ってしまうとは。もしやと思って駆けつけて正解だった。危ないところだった。ならば置いて帰ったのは間違いだったか。いや、しかしな……」
美優の視界が、病室に戻る。
「え、私」
病室の中には、ダークブラウンの髪を後ろに纏めた若い女、昨日の来客、即ち白羽薫がいる。片手で窓際のネックレスに蓋をし、翠の眼で、美優を見ている。小鳥たちは、いない。窓のブラインドの隙間から、橙色の、夏の強い陽射しが差し込む。
薫は思わずうなだれて、息を整える。世辞にも頑丈とは云えないその身体で、薫はここ数日、駆け回り続けていたのだったが、その疲労が明らかに彼女を蝕んでいた。
片や美優は、自由の効かない身でありながら、ごく自然に身を起こそうとして、そして呻く。痛みが現実を思い出させていた。
……そうだ、私は、あの……事故で、死にきれず、入院している……。
しばしの沈黙。時間にして、ほんの一分。
「幻だとは思わなかったのかな」
両者が落ち着きを取り戻すと、薫は問うた。
「もしかすると薬の副作用か、先の事故で脳が損傷したか、とは考えなかったのかな。ここは病院だ、幻覚なら、そう訴えるべきことでしょう」
ゆっくりと、薫は続ける。美優はゆっくりと、その言葉を理解する。
「でも、君は、そうしない」
薫は優しく、微笑んでみせた。それは薫にとって少しばかり苦手なこと、けれども薫の前に仰臥した少女にとって必要なこと。少しでも気持ちを和らげようとしてのことだった。
「何故なら、君がソレが其処に在ることを知っているからだ。ソレが幻覚の類ではないことを理解しているからだ。
私も、知っている。私にも、視えるんだ。」
薫はネックレスを覆った手を避ける。途端、翠の小鳥たちが飛び出した。薫はそのまま、病室を気ままに飛ぶ小鳥たちを、指差して、一羽ずつ数える。
「一、二、三、四。おや、五羽目がいない。もしかして君が食べてしまったかな。――なんて、いや、慣れない冗談は云うものではないか。そんな怖い眼で視ないでくれ。君の眼は、君が思っている以上に、美しいモノなんだから」
薫は思考する。手を差し伸べて、すると一羽がその手に泊まる。掲げて、眺めた。綺麗な羽よね、と呟く。ネックレスを自分の首に掛けた。
そしてひとり、思考を口にする。
「コレをここに置いて帰るわけにはいかないな。見てはならない、なんて云ったところで、見るなの禁は破られるのが世の常だ。では君の視界の外に置くか、遮蔽を取るか。けれどそれでも視てしまうんだろうな、君ならば」
落ちついた筈の鼓動が早まっていた。薫の直感が、美優の蒼い瞳の恐ろしさを告げている。余裕が無くなっていた。
左眼だけで、瞬きもせず、一心不乱に薫を視続ける蒼い瞳から、己が眼と意識を逃がす為に、ひとり語る。
「ふうむ、困ったな。……困りごとだらけだ。私が二人いなければコトが回らない。いや、回せない。手が届かない。どちらかだけでは不十分だ。あの人形は私のモノだ。アレを奇跡と呼ばずとして何と呼ぶ。だが、何処へ行ったか判らない。
いや――そうか。その手があったか! 私が二人いれば良い。ならばどちらに私がいるべきか、その答えは明白か。あいつはアレにしか興味が無いからな――人形趣味め。借りを作るのは癪だが、今使わずに、いつ使う」
興奮して笑い声を漏らしながらひとり納得する目の前の女の正気を、美優はいぶかしむ。視える、と云ったこの女。視えてはいるが、しかし、この女は何者なのか。本当に、大丈夫な人間なのか。
どちらでも良い。そう、美優は思った。仮にこの目の前の女が幻だとしても、或いは正気ではないものだとしても、もしかすると正気だったとしても、美優はこのベッドから離れられない。これまでも、おかしなモノは視てきたのだ。目の前のこれがその類だったとして、そんなモノが視えることは常だったし、そんなモノには、こちらからは手出しが出来ない。
無視しよう。そう思ったのだけれど。
美優は、言葉を発するこの女に、――明確に意思疎通の適うこの女に、手放しの希望を抱いてしまった。
それは、半ば自棄な興味だったとしても。
「あなたは、誰」
くっくっ、と楽し気に笑いながら背中を向けた女に、美優は、訊いた。
女は、足を止めた。
「私は、白羽薫。薫と呼んでもらって構わないよ。君を助けるよう、君のお父さんに頼まれた者だ」
そう云い残して、足早に、薫は病室を後にする。薫もまた、追い詰められてはいたが、これから訪れる夜のことを考えると、胸が高鳴ってならなかった。
七月一日。陽は、落ちようとしている。
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