天使の生まれた夜/7

 パワーウィンドウを開けると、生温いそよ風が車内へ招かれた。その風に当てられると、紗羅は己の躰が軽くなってゆくように思った。喉に空気が通り、肩や腰にのしかかっていた重しが外れ、あらゆる輪郭が現実と一致したかのように。ワゴン車の停められた影の外で照っている陽の光は相変わらずだったが、あの眩暈すら弱まっていた。

 薫はシートに沈み込んで深呼吸すると、助手席の刀を紗羅へと差し出した。

「此処からは君に預ける。こんな重いモノ、使えない私が持っていたところで無用の長物だからね。刃物なんだし、あまり堂々と持ち出せるものでも無いから、気を付けて」

 か細い少女には不釣り合いな大きさであったが、その刀は紗羅の手に馴染む。重量がある事は認識しているが、彼女はこの刀が重いとも長いとも感じてはいなかった。手にしていることで安堵感すら覚えるのである。重さは、彼女にとって棒切れに等しい。

「用があるって、この場所?」

 身を起こしながら、紗羅は尋ねた。支えを必要とはしていなかった。

「うん、この丁度向かいの家が。そうだね……中身はちょっと拗れているし、直に視てもらった方が早いか」

 薫は何も持たずに車を降りた。鞄のひとつすら持っておらず、そのまま家の敷地へと踏み入れる。家そのものは古びているが、手入れはそれなりに行き届いているようだった。大人一人が手を伸ばせば一杯になってしまいそうなスペースしか無い庭だったが、こじんまりとした花壇がしつらえられている。

 だが、どことなく、やつれてくたびれているようだった。荒んではいなくとも、何れは朽ちるであろうと思わせる外観であった。

「貴女の家なの?」

 不審に思って紗羅は尋ねる。薫の屋敷とは正反対の住まいで、だが薫は我がもの顔で立ち入っている。

「いいや、全くの他人の家。鍵は預かっているのさ」

 インターホンを鳴らすことも無く、その住人へと声を掛ける素振りすら無い。薫はごく当たり前のように玄関を開けた。相当に年月を経てきたことを感じさせる擦り硝子の引き戸が、近所中に響くような音を鳴らした。

 ……昼だが、家の中は薄昏い。

 薫の住む屋敷と比べれば狭苦しい、ごく当たり前の大きさの民家であった。しかし、その家に包まれた空間は、その家が包む筈の空間よりも小さく、狭い印象を彼女たちに抱かせる。

「この家、本当に人が住んでいると思えないわ」

 紗羅には、この家からは人間の気配が感じられなかった。家そのものが止まっているかのようだった。

「敏感だね。ある意味、君にとっての正解かもしれない」

 土足のまま、薫は無遠慮に家の中へと踏み込んでゆく。抵抗感もあったが、紗羅もそれに倣った。

「ちょっとした頼まれ事があったんだけど、連絡が取れなくなった。それで私が押しかけたって訳。どうせだから君も連れてきた」

「良い迷惑よ。外に出るなんて」

「放っておけないんだよ、君。また勝手に出歩かれて行方を眩ませられたら、今度こそ見つけられないかもしれないじゃないか。それに、この場所に来るなら多分、君が役立つと思って」

「その言い方、あんまり面白くないわ」

 廊下の突き当りには淡い光を放つ小窓があったが、それ以外には真っ当な光源が無かった。履物が幾らか玄関の隅へと追いやられて並べられていた。花瓶に生けられた紫の花は萎れており、この家の外観よりもいっそうくたびれた印象を抱かせた。

「一応は、人が住んでいる事になっているのだけどね」

 板張りの廊下の途中で彼女はおもむろに腰を屈めて、床へ手をついて息を吐く。

「そこら中が歪んでいるな。ほら、こんなところに」

 ふっ、と軽い吐息。積もった埃を吹き飛ばすかのような仕草。

 西洋風の、片手で抱えられる程度の大きさのビスクドールが薫の眼前に現れた。出現した、とも錯覚させる在りようであった。先程まではただ板張りの廊下だったその場所に、唐突にくすんだ金髪の人形が置かれていたのである。

 不意に、廊下の長さが紗羅には解らなくなる。ずっと真っ直ぐ続いているように視えていて、その実、手を伸ばせば突き当たってしまいそうに思えた。

 紗羅は瞬きをしていた。ただ廊下の途中に置かれているだけで隠されている訳も無かったが、薫が指摘するまでそのビスクドールの存在に気が付いていなかった。その場にその人形が在る事の方が幻のように思えたのだった。

「この場所に確かに在ると知らないと見逃してしまう、そんな仕掛けになっていたのだろうね。うっかり此奴を見逃した誰かの一挙手一投足を記録、もしくは」

 その後に続けられた言葉は、甲高い、聞き覚えのある音にかき消された。玄関の引き戸が開けられる音だった。

 間髪入れず、ガチ、と彼女たちの背後で重い金属音が響く。

「……帰って来たか」

 何食わぬ顔で音の方へ眼をやる薫だったが、紗羅にはその言葉の意味がとれなかった。彼女たちの背後には誰もいないのである。ただし、玄関の鍵がいつの間にか閉められていた。すると、彼女たちの間を風のような流れが過ぎる。あの、生温い風と似ていた。

「逸らず、動かないように」

 低い声で薫は囁く。無自覚のうちに、紗羅の右手は刀の柄へと掛かっていた。

 しゅる、しゅる。視えない気配だけが廊下を歩く。気配はひとつだけでは無かった。正確には判らない、複数の、不可視の、ごく僅かな流れ。この家の奥へと向かったソレは、間もなくして一枚の襖を開ける。すぐに畳を擦る音が鳴り始めた。その部屋からは何かがぶつかる音が淡々と響く。

 不可視のモノが、この家を探っている。紗羅だけでは無く、薫にもその姿は視えていない。

「――薫」「しっ。静かに。悟られてはいけない」

 口を開かないようにと、薫は紗羅に釘を刺す。しかしその後「霊刀……其の刀は、いつでも抜けるように」と、特別小さな声で付け加えた。

 紗羅は正体不明の恐れを感じていた。気配を気味悪く思ってはいなかったが、気配に含まれた質が彼女を恐れさせていた。居合わせてはならないような、紗羅にとって致命的なまでに相性の悪いモノが含まれている。

 可能な限り素早く、この場から立ち去るべきであると彼女の直感が告げていた。

「ねぇ、薫」

 耐えがたい恐れを払う為に口にした言葉は、紗羅が知っている唯一無二の人間の名前だったのだが、薫はその心情を知らない。薫は眼前の非日常を注視しているのみである。紗羅もまた、薫の心情を知らない。

 互いに等しいすれ違いを抱えたまま置物になったかのように動かない様は、さながら薫に掴まれたビスクドールであった。当の薫はしゃがんだまま、呼吸すら抑えている。

 いよいよ騒がしくなった物音は、彼女たちからは視えない場所でこの家の住人が暴れているかのようなものへと変化した。その派手さは、物音と称する域を超えていた。壁に打ち付けられる音、床を踏み鳴らす音。

 荒々しい騒音は、長くは続かなかった。家具どうしがぶつかり合ったらしき重い音が響いて、水をうったように静かになった。

 すると襖の奥から、一匹の猫が出で来る。大きさは仔猫程であった。

 紗羅の背筋が痺れる。ソレには先の気配よりも、彼女にとっての恐怖の質が濃縮されていた。

 ……猫? 違う、アレはもっと別の……。

 果たして、その姿は彼女らと相対する。

「あの猫……」襤褸切れのようになった毛並みの、焦げ茶色の猫。

 猫は震えながら紗羅へ近づいた。既に彼女らに気が付いているかのように。

 猫の姿そのものが、さざ波のように小刻みに震えていた。猫としての姿から逸脱した手足のバランス。黄色い瞳は濁りきっている。ソレは、生物として真っ当な震えや動きを伴わない。一歩ごとに横へ曲がる足先の仕草は、産まれたばかりの小鹿の不器用なそれと似ていた。

 鞘を掴んだ紗羅の左手がこわばりながらも、親指が鍔に触れる。ソレはこの世に存在する事に対して拙い。その点では生を受けたばかりの小鹿と変わらないが、その拙さの由来に対して、紗羅は全く異なる筈の因果を視た。

 ……あの猫。昨日の、そう、昨日の。

 刀の柄を握る。「待て!」急過ぎる動きに驚いた薫の静止も無意味であった。紗羅は刀を抜き放っている。紗羅も知らないうちに、躰が刀を抜いていた。

 止まっていた空気が緊張した。霊刀に共鳴しているかのように。

 ……少年に滅多刺しにされていた、あの猫の死骸と同じ姿。死んでいる猫が、動いている。見紛う筈も無い。あの猫だと躰で確信している。

 死んだモノが動いている。

 床板が蹴られた。手狭な廊下は尺の長い得物には不向きであったが、紗羅は壁をその刃で力任せに削りながら、刀の切っ先を猫の姿へと突き出す。

 紗羅の躰を突き動かしたモノは、けれども昨夜のそれとは異なっている。湧き立つような熱い昂りでは無かった。むしろ、その真逆の冷たさを感じて、手にした得物を非ざるモノへと向けたのである。

 猫の姿は動かない。

 霊刀は、過たず貫いた。貫き通した。

 反りを天井へ向けて異形はひと突き、床ごと串刺しにされていた。猫の額を割り胴を貫いている。

 だが血飛沫すら無い。煙の塊を突き刺したかのような手応えであり、刀身が頭から胴を通り真っ直ぐ床に刺さっているのに、猫の姿には掠り傷ひとつも無かった。刀が抉った筈の肉体は、然し一切が変形していない。突き破られた皮膚が隆起し、中身を零す事も無い。

 床板にはしった亀裂は、突きの衝撃が床のみに集中した事を物語っている。

 額を貫かれたまま、猫の姿は少女を凝視していた。紗羅は刀身を捻じりながら、ゆっくりと引き抜いた。不器用な歩みは止まったまま、猫の姿はそれでも動かなかった。

 やがてソレは、やはり煙のようにカタチを崩す。呆気無く、土くれも残さず雲散霧消する様は、その場に何も居なかった事を示しているようだった。生温い風となって霊刀へと吸い付き沈む。柄から紗羅へと伝う。濃縮されたかのような重たさを感じさせる霊素に、彼女の渇きが満たされてゆく。

 霊義肢から失せつつあった命の糧を、紗羅は霊刀を通して喰らったのである。

 そして何より、死の質を帯びた致命の気配が解けて失せてゆくコトに紗羅は安堵していた。

 家に充満していた不確かさも消えつつあった。ビスクドールは確かに薫に抱えられていたし、廊下は直線で然程長くも無い。不可視の気配も消え去っていた。

 紗羅は義体全身に込めていた力を抜いた。

「これで、良いかしら」

 逆光に、構えを崩した紗羅の立ち姿はたったそれだけで人形じみている。人間離れした早業に、薫は自らが斬られたような冷たさを感じていた。

「全く、刃物の扱いには気をつけてと云ったでしょう。歪んでいたモノを纏めて斬り払ってしまうなんて強引にも程が――」

 そうぼやき、心裡を誤魔化しながら止めていた息を吐いた薫は、逆光に、冬の夕焼けよりも陰鬱で密やかな朱を視た。朱は生糸より細く、まさに霊刀から紗羅へ絡みつこうとしていた。

 薫は殆ど条件反射で察知する。まだ終わっていないコトを。

 咄嗟に伸ばされた左腕は紗羅に届かない。

 ……――。

 紗羅の躰が、痙攣する。空いた片手が口元を撫でた。紗羅が接していた現は唐突に無音となった後、混ざり合った烈しい叫びの渦へと収縮してゆく。息を呑もうにも、紗羅には既に自由の効く躰が無い。紗羅はこの断末魔に憶えがある。消えていたあの恐ろしさが惨憺たる叫びによって瞬時に想起され、紗羅へ衝突する。

 数多の絶叫が、彼女の意識の中でカタチをなした。

 ――死した、生者だ。死した、生者――。

 だん、だん、と義体は膝から崩れ落ちる。

 音無しの声が木霊する。数多の呻きが一律に合唱している。

「おい、さ、ァ……紗羅――さ――」

 現からの孤独な呼び声は虚しく。小窓が明滅する。

 ――死した、生者だ。

 残響が共鳴する。増幅する。侵食する。暗転した紗羅の認識、其の総てを覆し塗り潰してゆく。

 彼女は恐怖の只中にあって恐怖を感じられない。振り切れた恐れは無感動をもたらした。仮に恐れたとして、彼女には何も出来なかった。逃げ出すには脚が無く、もがく為の腕も無い。だからこそ紗羅は恐れない。得体の知れない苦悶の叫びがそこここから響き渡ろうとも、そもそも耳も頭も無い紗羅は何らかの反応をする必要を認めなかった。その中に己がいるらしき事、それだけを知っていたし、それ以外は元より失われている。

 此処は家の廊下に非ず、彼女は虚空へと落下している。

 死した、生者だ。其れは怨嗟。忘却される意識を繋ぎ留めんとする誘惑。抗い難い衝動にして、

 ――死した、生者だ――

 慟哭である。

 光の届かない虚空は夜空のよう。然し闇に星は無く、瞳の瞬く無数の貌たちが集まった、光の届かぬ空である。落下しているようだったが、落下に限界は無かった。貌たちは遥か彼方にあるようで、すぐ傍に貼り付いているかのようだった。彼女を取り囲んだ空が、彼女へと呻いている。

 それぞれ苦悶を浮かべた貌を掻き分け、押し退け、ひと際白い星が降る。けれども其の星は煌めかず瞬かない。腕があり、脚があり、頭があり、そして翼をもった無垢な純白と化した。

 ……白い、天使……。

 迫る其の天使には貌が無かった。故に表情などありはしない。一切が漂白されたかのような天使は、けれども美しさや神々しさを伴わない。宿るは曇り無きまがのみ。

 諸手が彼女を鷲掴みにしようと伸ばされ、長すぎる指と爪が迫った。

 紗羅は、甲高い悲鳴を聞いた気がした。まさに彼女へ天使が触れようとするひと刹那に、果たして白銀の軌跡が慟哭を断ち斬った。

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