天使の生まれた夜/8

 閃光は、彼女の手に。

 抜かれた霊刀。駆けた脚。闇。雨。夜。濡れた髪と服。影。点滅する赤い光。ビルを見上げる。柵を乗り越える。外付けの階段を上る。あの時、薫と出会った場所に似た霊素の流れ。然し其処よりも濃い。空気。高い影。孤独な歩みは止まらない。数十、百段を超えた。認識と躰は一致しない。まさに憑かれたかの如く。

 ……生温い霊素が混じっている。

 地面が遠くなればなる程に気配は濃くなってゆく。其れが彼女が脅かすモノに由来していると知っていた。けれども止まらない。止められなかった。

 慟哭の源が果たして、扉の向こうに在った。


 天使が其処に居た。――ぶつり、彼女は脚を止める。


 散った朱が頬を染める。足は血溜まりを踏んだ。何かが鼻先を掠める。再度、血飛沫が咲いたところで、それが人間の身体であり壁に激突していたことを知った。翼をもつ白い影が、その人間の首筋へと愛し気に寄り掛かっている。

 雪の様な翼と肌。髪は氷の様な銀。その天使は紗羅に背を向けて、朱を貪っている。がつ、ぐちゃ、ごり、と天使が頭を動かす度に似つかわしくない音が反響していた。

 ……喰らっている。人間を。

 紗羅は口元を抑える。強い吐気に襲われたが、けれど吐くことは出来ない。彼女の躰には吐くべき物が何一つとして収まっていない。

 ソレが、頭を巡らせた。

 天使は少女の嗚咽に身を震わせる。その貌には紅が一筋、不器用に引かれていた。それ以外に表情は無い。そもそも人間のような姿をしていながら人間の貌をしていない。それ以外は全くの無表情、眼も鼻も、皺のひとつも存在しない貌である。

 その貌は確かに紗羅の方を見つめていた。獲物を見定める視線を彼女はひしひしと感じとっている。眼と眼が合っている。紗羅の紅い眼と、存在しない双眸とが。霊刀を握る手に力がこもった。

「待て」

 白い天使が抱きかかえた屍を無造作に床に棄てた時、その背後から人影が現れる。

「お前。誰だ」

 紗羅の方から、その姿は影のようにしか認識出来ない。暗がりに隠れて視えないその姿は、低い声だけで紗羅を威圧する。背の高い男だった。それ以上のことは、彼女には解らない。

「……おい、お前も喰おうとするな。てめぇの餌から始末しとけ」

 その言葉は隣の天使に向けたモノだった。天使は不服そうに、餌と呼ばれた食べ掛けの屍を再び抱き上げる。がっ、くちゃ、と湿った音と共に肉を喰らい血を啜る。その姿は天使ではなく悪魔に近いように紗羅には思えた。

 問いかけるべき言葉を失ってしまった紗羅は、刀を構えて立ちすくむことしかしない。

 男が歩を進める。抜けた天井から降り注ぐ星明りが、痩身で白い長髪の男を露わにした。黒のジャンパーにはチェーンが幾つも纏わりつき、右手には大振りのナイフを握られている。狼のような眼に生気は無く、ただひたすら殺気だけが篭っていた。

 ……あの男だ。猫殺しの。

 身なりは不良青年そのものである。然し纏う空気が狂っている。無造作な足取り、意志の無さそうに傾げられた首。

 刀を正眼に構えた紗羅に相対してもまるで怯まない。ゆら、ゆら、と一歩ずつ近づくその姿は怪物を想起させた。

 唾が吐き棄てられる。白髪の狼が、駆ける。

 寸でのところで紗羅は銀色の横一閃を避ける。リーチの差など有ってないようなものだった。紗羅の刀はその男を掠めることすら敵わず、刀より遥かに小さな刃が首を執拗なまで狙う。紗羅の的を絞らせること無く、冷静に、そして素早く標的の懐に潜り込み円を描くようにして回り込み続ける。

 狼と羊。狩る者と狩られる者の関係がつくられていた。

 紗羅のバランスが崩れていく。彼女は確かに目の前の男の動きを認識していた。認識しているにも関わらず、ナイフを避けることしか出来ないのである。

 ひゅお、と紗羅の耳元で鋭い音が過ぎ去る。

 彼女の視界からその男が消えた。

 勢い良くしゃがみ込んだ男は、床に這いつくばるようにして彼女の背後に滑り込んでいた。紗羅が動きに気が付いた時、そして刀を振り向きざまに斬りつけた時には、既に男は間合いの外で何事も無かったかのように首を傾げていた。

 ぼう、と紗羅の視界が滲む。

 ナイフが、紗羅の背に刺さっていた。ぴたりと、心臓を穿つ位置に深々と刺し込まれていた。

「――人間じゃねぇのか」

 生身の人間であれば急所を過たず貫かれ倒れている。

 けれどナイフが貫いたのは、生身では無く、つくりモノでしか無いエクリクルムに覆われた霊義肢である。痛みすら彼女には感じられない。ナイフが背に刺さっていることを、その重さから漸く認識する。

 そして彼女はたたらを踏む。動きは明らかに鈍っていた。死ぬことは無くとも、躰の動きに障害が出ていることを認識する。左腕が痺れ始め、床が柔らかい泥のように思え始める。

「あなたは、人間……?」

 やっと、紗羅の口をついて出た疑念だった。偽物の躰とは云え自身の霊義肢が生身の肉体より確実に力強く、素早いのだと彼女は経験から知っている。けれども紗羅は男に傷ひとつ負わせることも出来なかった。しゃにむに振られる霊刀は掠りもせず、そして白髪の男はその呼吸を乱す素振りもみせずに紗羅に凶器を突き立てている。

 男は上着の内側から新しいナイフを取り出した。

「はあ? 人間以外何だってんだ?」

 呆けた口調は余裕そのものだった。そうして新しい細身の刃を紗羅へと向ける。

 その言葉が偽りの無いモノであることを紗羅は認識する。自分よりも素早い男に、造りモノの気配は一切感じられない。異形たちの気配、即ち物質で無いモノは、男の背後で屍を貪る天使の姿以外に無い。

 その瞳は暗い。浅く、暗いのである。吸い込まれそうな深みのある瞳とは真逆の暗さ。

 紗羅に残された選択肢が一つしか無かった。

 床を蹴って男に大きく斬りかかる。踏み込みは人間の其れでは無く、完全に人間の肉体の限界を超える鋭さを持っている。男はその斬撃を軽々と避ける。彼にもそれ以外の選択肢は与えられず、けれど全く意に介さない程余裕をもって紗羅の後ろへと回り込む。

 ――人形は、そのまま駆け抜けた。

 男の動きを視ないまま、紗羅はそのまま床を強く蹴り上げる。放たれた躰はガラスの無い窓をあっさりと突き破る。

 落下。

 少女の姿をした人形が、数十メートル垂直を跳躍した。着地した地面が抉れる。

 その場所に膝をつく少女はその落下をものともしない。精々落下した衝撃を認識しただけだった。その衝撃で多少なりとも脚が傷んだことを知覚したが、立ち上がり脚を前後に動かし、地面を踏みしめるぶんには障りが無かった。ごく当たり前のようにしてそのまま見上げる。窓からは男と天使が顔を覗かせている。

「……何て化け物だよ、畜生」

 仕留め損なった男が地上に向けて吐き棄てる。

「生憎、人間じゃないのよね。あたしって」

 声が届く筈も無い距離で視線をしっかと交わしていた。

 天使はその口に食べかけの腕を一本くわえて、男の傍でその様を眺めていた。飛び降りて追いかけてくる様子が無いことを確認すると、紗羅は身を翻して夜の闇の中に消えていった。


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