天使の生まれた夜/1

 少女がひとりで出歩くには遅すぎる時刻であった。夜空は高く、欠け始めた月のまわりには星々が散らばっていた。生温い梅雨の夜風が少女の短い髪をささやかに撫でて、雲の切れ間から覗く星がその存在を思い出す。少女はそこに居た。

 水溜りの波紋が景色を揺らす。廃れた路地を歩く少女は、そのままその闇に溶けてしまいそうであった。その赤の瞳は星に似ていた。

 夜路に人影は無い。空き地と、明かりの消えた建物が少女を取り囲む。古び薄汚れた背の低いビル、管理されているのかも判然としない立体駐車場、くすんだネオン。

 動かせば、その細い脚は軋んだ。彼女は一歩ごとに太腿のひきつけを知覚する。肩の関節が、細く鋭く引っかかれるような音をたてている事を知る。歯車と骨が上手く噛みあわず音を刻む。

 カリカリカリ……チチチチ……。少女はその音から、自らの躰の状態を知る。外に漏れ聞こえるコトの有り得ない微かな異音。

 素足が水溜りを踏みつけて、撥ねた温い泥がふくらはぎを汚し砂が足の指の間に挟まる。

 夜は深く、蒼い。

 用水路には五本足の犬が音も無く浮いている。点滅する黄ばんだ街灯の上には潰れた豚のような貌をした塊が、猿のように行儀よく座っている。すれ違った少年は、時代を数十年遡ったかのような古びたシャツと短いズボンといった出で立ちをしている。ヒトの姿は果たしてヒトか、それとも姿が似ているだけか。どちらであるか、少女はさして気に留めてもいない。

 人間も、虫も、野良猫も、そうでないモノたちも。だれもが少女を知らない。そこに少女が居るのだと云う単純明快な事実を知らない。

すれ違った少年は潰れた豚貌を一度、二度、とだらりと手繰った。豚貌は、すっ、と、やたら綺麗に伸び上がった。街灯から飛び降りると、少年よりも背を高くしてその後ろをぽとぽととついていった。

 少女の姿も、夜、外を歩くときのものとしては普通とは形容し難かった。

 纏ったネグリジェは黒色、上品な薄手の生地に裾にはレースの飾りがあしらわれ、そして彼女の左手は大振りな刀を握っていた。蒼い月光に重ねられた薄布が透き通る。上品にしつらえたネグリジェとは対照的に、その凶器は黒塗りの鞘に収められ、飾りの一切は省かれている。彼女はそれ以外の物を身に着けていない。その白い素足に尖った小石が刺さろうと、泥水が撥ねかかろうと、足もとに目をやることさえしない。

 この人前に出るには適さない、無防備なまでの服装と携えられた明らかな凶器は、覚束無い足取りの非日常をこの夜の一角に歩かせている。

 少女を追いかけて泳いでいた五本足の犬が、底の泥と藻を掻き分けて潜り、彼女の視界の隅から消えた。街灯に照らされた人影には、その光を遮っている筈の人間そのものが居なかった。影だけが地面に映されている。

 この少女――紗羅――は、自らの状態を認識していながらも、自らが刀を携えている事実を知らない。紗羅と云う名以外に自らの情報も知らない。何故この夜路を歩いているかも知らない。いつから意識が覚醒したかすらも解らなかった。そして、それらの事実を特別なものと認識していない。躰の一部と同じようにして、或いはその躰以上に、その刀ごと、彼女に馴染んでいた。

 ゆくアテは無く、去るワケも知らず。

 ……何処から、来たのか。

 紗羅の口元が、熱に浮かされたようにして言葉を紡ぐ。彼女は、この路がかつて活気にあふれていた頃に、シンボルとなっていた時計台を前に立ち止まった。赤子のように丸い肉つきの天使の彫像が文字盤を飾る。彼女はその場で初めて、自らの目の前では無く、その少し上、時計台の針に向かって、その端正な顔をもたげた。

 真夜中の二時であった。時計塔は音無しの鐘を鳴らして夜の最も深い刻を告げる。

 彼女はその鐘に打たれたかのように駆け出した。素足に刺さった石は彼女を傷つけない。脚だけがいよいよ早回しになって動く。腕も口も、肩も胸も動かない。彼女は息をしていない。不格好な走りは静かである。その足取りは手繰られるが如き直線的で、常に最短距離を求める。紗羅は自ら駆けており、かつ駆けさせられている。路をひた走り、塀を乗り越え、空き地を横切る。求めた先には、いっそうヒトと異形の気配を色濃くしていた。

 ……何処へ、ゆくのか。

 紗羅は一心不乱に追い求める。其れが何ものであるかは知らないままに。その眼は瞬きひとつしなかったが、彼女は眼を瞑って走っているのと同じくらいに、現の景色を視てはいなかった。透明な走者をハイビームが照らしても、其処には彼女の姿は無かった――ように見えた。しかし、確かに彼女はその場に居て、寸でのところでハイビームの出所を躱したのであった。その事実を認識して尚、それが自らに差し迫った危機であったと知っても、その情報を不要なものと看破し次の一歩が地を蹴る時には捨て去っている。

 その赤の瞳が燦燦と生命らしい輝いたその刹那に、紗羅は、つぃ、と前のめりに立ち止まる。

 影の巨体が立ちはだかっていた。その影はとある病院の一棟である。規則正しく並んだ窓は何れにもカーテンが引かれ、四階建ての入院棟は静かな眠りにつきながらも、重厚な存在感を放っていた。紗羅はその駐車場の、疎らな灯の影に隠れるようにして、自らの立つ場所を知った。紗羅にとって此処は知らない場所であった。彼女から少し離れた別の病棟に掲げられた大きな看板には、赤い地味なネオンで「綾川病院」とあった。彼女は此処を目指して駆けたのだと思い返す。僅かに先行していた躰に対して思考がやっと追い付いたのであった。

 紗羅は息切れにも似た焦燥感を覚えていた。……早く――早く。でも何を? 夜の闇は応えない。誰も――ヒトは、いない。

 小気味良い音が左手の内側から響いた。刀の鯉口を切った音であった。

 思考は現実に対しやはり遅れていた。困惑していた。右脚が半歩前へ、睨むは夜空、棟の屋上、給水塔の上、猫の眼の形をした月。

 ……白い染みが。浮かんだ白い染みが動く。漂白され色素の抜け落ちた不自然な白。星では無く、月よりも白い。

 ソレはおどけたような所作で其の翼をはためかせ、徐々に病院へと近づいた。バランスの崩れた人間染みた姿形に羽根の無い両翼。やおら輝きを増した月が逆光になって、紗羅にはソレがはっきりとは認識出来なかった。その姿に対してだけ焦点が合わなかったのだった。しかし自らの右手が刀の柄に掛けられて、ソレに向けて今にも抜かれようとしていた。斬らねばならないと躰が囁くのである。全神経を、あの白い妖へ集中させねばならないと。

 屋上の手摺へ着地したソレは、その長い四肢で手摺の一点を掴む。紗羅の方に向いてぎこちなく首を傾げたまま静止した。風を忘れた湿気た空気が、粟立つ肌にべったりと纏わりつく。

 ――いつから睨み合っていたか。それとも見定めていたか。白いソレは微動だにせず、紗羅も動けなかった。

 始終、無言の対話であった。その内容は互いにさえ理解しなかったであろう。もしかすると言語化されないその対話は何処かで決定的なすれ違いを生じさせていたかもしれないが、それでも何事かが互いの視線に込められていた。

 此処では明らかに、紗羅が視られていたのであった。仮にも紗羅が背を向けたとすれば、ソレは音も無く――けれども、彼女にはその先が解らない。ソレに引き寄せられた訳では無かった。しかし、此処に紗羅は来なければならなかったのだ。もし此処に紗羅がいなければ、何か非常に良くない事が起こるのだとの強い予感が、彼女の伽藍洞な胸の裡にはあった。その予感は、紗羅の意識に埋め込まれた鈍色の金属球であった。

 其の白い姿はただ夜空を舞いこの場に降り立っただけであり、これまでに紗羅がすれ違った妖たちと同じ其処に唯居るのみであるのに、それ以上のものを彼女は感じ取っていた。

 瞬きもせず、羽虫一匹ですらその場には居なかった。蒼い夜は徹底して静かだった。

 夏至が過ぎたばかりの時期である。夜は短かった。紗羅が背負った夜空が赤紫色に変わってゆき星が消えつつある頃、そして月が病棟の向こう側へと沈んだ頃、紗羅がはたと気が付いたその時には、あの翼をもつ白い妖は掻き消えていた。それまで彼女は睨みつけ注視していたのだが、掻き消えていたコトは掻き消えてしまってから気が付くのであった。その妖が、白さを夜に滲ませるようにして消えたコトを、彼女はやっと理解したのである。朝日に消える星の光のようだった。

 跡には、刀に手を掛けたネグリジェ姿の少女が、寝静まる綾川病院を凝視していただけである。目的を失って、彼女はゆるゆると歩き去った。

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