微睡の白/14
誰も居ない静かになった1組の教室には、しっかりと鍵が掛けられていた。身ひとつで帰る事になったあたしは揺れる足もとのまま、右眼から美優に呼びかけようとした――けれど、真っ暗なイメージばかりが視界に広がっていて応えは無かった。
躰は軽すぎるくらい、それでも重苦しい。一歩前へ足を運ぶ事すら億劫だ。
帰りがけ、ちょうど校門を出たあたりで、顔くらいは覚えている生徒たちが賑やかに話していた。彼女たちは螺子の切れかけた絡繰人形のような歩き方をしながら、口だけが不釣り合いに壊れているみたいに忙しく動いていた。
「雅ってあんなに仲良かったっけ。ほら、神崎さんと」
通りがかったところで、不意にそんな言葉が聞こえてくる。
「さあ、必死なんじゃない? あの人、劇に書道部に打ち込んでるから。巻き込まれるとちょっと怖いよね。今日も居残りお疲れーってな」
クラスメイトの筈だけど、名前は知らない。真っ白な美術室から追い出されて以来、頭の中に、あのボウとした――重苦しい耳鳴りが残っていて、思考は胡乱なままだ。言葉の意味すらうまく理解出来なくなっているのに、それでもクラスメイトの言葉が不愉快なものなのだろうと云う事くらいは判った。向こうはあたしなんか気にも留めていなかった。
夕暮れを過ぎた空には黒ずんだ雲が千切れて漂い、蒼い霞がゆっくりと地へ落ちてくる。吸い付く肌寒い霊素の霞は、今日に限って優しくなかった。稀釈された檸檬のような香りが、今日の霞には紛れていた。あたしは躰を引き摺るようにして屋敷へと歩く。吊られた右腕の感覚が、肩のあたりまで無くなっていた。躰にぶら下がった不必要な重りのようだった。
今日ほど、屋敷が遠く感じたのは初めてかもしれない。距離で云うならば風宮よりもっと遠い場所にまで出向く事も少なくないのに。あたしは夜に向かって歩を進める。
「消耗、だけでは無いね、その疲れ方は」
やっとの思いで帰り着くと、あたしは長く青々とした雑草が茂る庭先で薫に出迎えられた。薫は、捨て置かれたかのような白く古い椅子に深く腰かけて長い脚を組んでいた。その左腕は何事も無かったみたいに肘掛に立てられ頬杖に使われていた。
「気疲れか。私の自信作なんだ、ハード面ではそう簡単に疲れたりはしない。尤も疲れそのものは精神面のものかもしれないけどさ」
飾り気の無いのは普段通り、それでも心なしやつれているかもしれない。片腕を無くす程の傷を負って寝込んでいたのだから。
「人間は……疲れるわ。五月蝿くて匂うのよ。それに比べあたしは、この躰は」
「この時期、この時間は良い風が吹く。洗われるような風だ」
あたしの言葉はすぐに遮られる。薫はその風を味わうかのように軽く空を見上げた。
……それに比べ、人間に比べ。そうして思い悩んだその比較の先に、あたしとそれ以外の人間以上の差異は無い。解りきっている事なのに。
薫の向かいにある、もう一つの古びた椅子に身を沈める。夕立を運んで来そうな風が伸び放題の雑草を揺らしていた。
「美優なら先に帰って寝ているよ。君のコトを心配していた」
あたしの心の裡を見透かしたかのように薫は云う。そう、とだけあたしは返事をした。それ以上に言葉を発する気力が、どこか躰に穴が開いてしまったみたいにして抜けてしまっていた。
「やれやれ。君がそんなに憔悴しているとこちらの調子も狂うね。そろそろ雨が降りそうだ、書斎まで歩けるか」
そう云って薫は立ち上がり、あたしに手を差し伸べる。左手だった。黙って握ったその手は、ほんのりと熱を帯びていて柔らかかった。
「こんな左腕だが私だって人間さ。この左腕の主だってあいつらみたいな人間は嫌いだね、私は学校なんてドロップアウトしているんだよ。本気で人間を辞めようとした莫迦も知っているくらいなんだ、どこからどこまでが人間かだなんて自分で決めれば良い」
あの朝、あたしが担ぎ上げた薫の軽い身体はこんなときだけ頼もしい。それが微妙に悔しくて、それでも――。
胡乱な頭ではそれ以上の思考が纏まらなかった。肩を貸してもらってあたしは書斎まで連れていかれ、この前まで薫が眠っていた場所に寝かされる。
眼だけを動かして見回した書斎はすっかり片付けられていた。朝はあんなにも汚らしく散らかり放題だったのに、そんな面影は残されていない。傷だらけの霊柩もきちんと太い鎖に絡められて天井から吊り下げられている。あるべき位置にあるべきモノが収まっていた。
右腕の包帯が解かれると、あの霊符が貼りつけられたグロテスクな傷が露わになった。夜の暗がりでの印象以上にその傷の具合は酷かった。義肢には血も体液も通っていないのに、くっきりと肘の周りが青黒く変色していた。
「ここまで悪くしていたなんてねぇ、不知火の一件で懲りてくれるかと期待したのが間違いだったか」
薫は慎重に霊符を剥がしてゆく。
「……この霊符は陰陽府のなかでも特別だ、やはり祗園のモノか」
「祗園? それってもしかして」
登校した初日に、あたしを1組の教室へ案内してくれたあの背の高いひと。
「祗園澪。風宮に通う祗園家の跡取り。眠りこけてすっかり惚けていたよ、やっと思い出せた」
「会ったわ、きっと。初めて学校に行った日に。そう……あのひとが……」
この傷を負った夜、あたしは掌に握り込んでいた霊義眼でそのひとを視た。ぼやけていた心象にピントが合って、その声とあの力強い声色とが一致する。風宮での祗園の颯爽とした背中と、夜に紛れていった、明らかに普通では無いあたしに動じる事も無く凛とした背中と重なった。
「……祗園、か。ふうん……」剥がした霊符をためつすがめつした後、薫はソレををひと思いに丸めて床に棄てる。
細いドライバーが傷口へ侵入して、あたしはその痛みに呻いた。霊符が剥がされてから急に、その傷口に熱を帯びた強い痛みがぶり返していた。
「痛みは……そうだな、気のせいだよ。その眼を取るワケにもいかないんだし」
「他人事だからって気安く云ってくれるわね」
顔をしかめながら薫を睨む。
「私だってついこの間、腕を失ったばかりだよ。痛い事は痛いだろうけれど、感じるだけ無駄と思った方が幾らかラクになれる。どうせ霊義眼を外したところで感覚は残るさ」
害の無い痛みだしね、と薫は付け加えた。害があっても無くても痛いものは痛いのに。
痛みを知るだけ、感じなければ良い。簡単な事なのに、出来なくなっている。
ねじ曲がった霊銀の骨が、球形をした関節から引き抜かれると、痛みは痺れに変わった。やがて感覚じたいが擦り減ってゆく。
「然し祗園はどうして君を助けたのだろう。奴らは身内以外にはひたすらシビアなんだけど」
薫は首を傾げる。その後、ひたすら厭そうな顔になって「君が元々、身内だったからか」と云った。
「それって、あたしが陰陽府に居たってコト?」
「さあ、そこまでは。少なくとも、陰陽師たちは自己犠牲の精神とは程遠い奴らと思ってくれて良いんだ、わざわざ霊符を持ち出して助けるあたり、思うところがあったんだろうね」
祗園の声が脳裏をよぎる――どうか、気を付けて――白羽、だったな、今の貴女は――。含みのある祗園の立ち居振る舞い。
「そうね、この躰以前のあたしを知っているみたいだった」
そう聞いて薫はげんなりしたみたいに溜息を吐く。
「……陰陽府はロクでも無い連中だが、一枚岩でも無い。探るにしても気を付けて。助けてくれたから味方とは限らないんだからね」
「ええ、そうするわ。でも……あたしね、きっと」
忠告された後、はたと気が付く。喉につっかえていた重苦しいものがせりあがってくるみたいに。今まで何故気が付かなかったのか不思議なくらいに。
「前のあたしのコトを嫌っているの。思い出せないんじゃない、自分の為に思い出さないんだって」
確たる根拠は無い。けれどぼんやりとそう感じる。躰の奥、この躰よりももっと奥のあたしがそう告げているのだった。
思い出したくない。誰かに自分の事を教えられたくない。このまま思い出せないまま、このままで居られればそれで良い。知ってしまえばきっと壊れてしまう。きっと壊されてしまう。やっとこうして手に入れられたのに。でも何を。あたしは何を恐れているの。
薫は拍子抜けしたように、あたしの腕の断面を探るピンセットの動きを止める。
「――そんなコト、とっくに知っていたよ」
エクリクルムの生白い肉だけになった右腕の肘先を、薫は大振りなナイフであっさりと切断した。自分の腕が目の前で千切れたのに、他人事みたいにあたしはソレを眺めていた。
この躰は偽物で、ホンモノの生身に成りたいのだとあたしは願う。なのに、生身の塊には嫌悪感がある。それでもこの不完全な義体に、醒めた反発を覚える。
断面に、新しい関節となる歯車が取り付けられる。あたしの二の腕に内蔵された骨の穴に螺子が差し込まれて、その歯車が固定された。手際よく、綺麗に磨かれた白銀の球が関節の位置に収められる。そしてその新しい関節に新しい骨がついたまっさらな右腕が差し込まれる。
矛盾した心象に挟まれたまま、右腕の傷が塞がれる。
あたしの腕が、付け替えられた。それをあたしは無感動に視つめている。
慣れた手つきで、薫は腕の断面を折れそうな程に細く頼りない針で縫合する。偽物の肉と肉とが湿った音と共に一本の腕として繋がった。
「まだ感覚は無いか」
ドライバーの先端が指先をつつく。
「そうね、全く解らないわ。視ていなければ腕がある事すら解らなくなりそう――これはあたしの腕なの? それとも別の誰かの腕?」
「正真正銘、君の腕に違いないよ。けれど暫くは動かないように。千切れたとしても、もう予備なんて無いんだからね」
実感を欲しがるクセに、実感から逃げ出したくなる。なんて都合の良い欲望なのだろうか。
「いつもの事だが、今度こそ動かさないで。数日もすればエクリクルムも同化して神経回路も機能するようになる。そうしたら抜糸。それまでは頼むから大人しくしてくれよ」
いいね、と念を押される。
腕と腕の繋ぎ目に、霊符にも似た赤黒い布がきつく巻き付けられた。その上を分厚い包帯が覆う。
「――でも、あたしの霊素……妖を狩りに行かないと」
云いながら、けれどもあたしは自分の躰が云うコトをきかないと自覚する。腕を弄られている間は明瞭だった意識が急激に混濁しているのだった。でも行かなければ。霊素が足りないのだから。
……そうだ、今は痛くない。さっきまでは酷く痛んでいたから、それで……それで、意識がはっきりとしていて……。
「霊符の文様は血で書かれる。それで初めて力を発揮するんだ。血と霊素の関連を証明出来る訳では無いのだけれど。昔から霊能者の血には特別な意味が見出されていたし、実際に血を扱ってきた事実だけは確かだ」
注射と同じような太い針が右肘に刺さった。針からは管が伸びていて、赤い液体が少しずつあたしへと染み込む。たぶん、血だ。
「偶には気を抜くのも良いかもしれないな、君は気を張り過ぎだ」
麻酔であれば遅すぎる。そも、あたしに麻酔が効く筈も無いのに。
「その血は、ねぇ薫……その血……」
誰のよ、その血は。覚えのあるその血の主は。
茶色がかった長い前髪に揺れる瞳が、いっとう愁いに満ちて此方を見下ろす。
「今は何も考えない方が良い。美優も健やかに眠っている。安心して。瞼を閉じて彼女と意識を通わせてごらん。その身であっても、眠ったように休めるから……きっとね」
このひとも、こんな人間らしい眼をするのね。初めて視たわ。
「抱え込んだ秘密のひとつやふたつ、誰にでもあるものさ。
――君は特別だ、たとえ失ったとしても取り戻せるのだから」
いつかと同じように意識の帳が堕ちてゆく。けれどあの時とは明確に違って、意識の纏まりが緩んで拡散するような、不安定な感覚では無かった。
真白の綿雲が漂い、羽根たちが雪のように優しく降り注ぐ。光に溢れた、安らかな薄紅の眩しさが躰を温めてくれる。生糸の繭が包んでくれて、あたしはその優しさに身を委ねた。
『おかえりなさい、紗羅ちゃん』
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