3.天使の生まれた夜

天使の生まれた夜/0

 焔が月を紅く染めていた。六月末の雨に、束の間の月明かりが滲んでいた。

 ――天を仰ぎ、ひとり。ないている。朱に彩られた刃を握りしめ。

 動く影はその焔のみ。十数台の車が燃える焔、或いは人間が燃える焔。撒き散らされた破片と手足と臓物。

 ちょうどU字に折れ曲がった人目につかないこの道は、数分前、一瞬にして地獄と化した。

 鬼が、妖が、この場に顕れて。それは必然か、はたまた偶然か。そしてこの道の上方では、更に大きな火の手があがっている。海に突きだした岸壁の頂上が燃える様は、遠くからでもよく見えるだろう。

 それならば必然には違いない。ここの地獄に居合わせた事は偶然でも、この地獄は必然だ。すると、誰かがつくりあげた必然の地獄なのだから、惨劇とでも呼称するのが相応しいかもしれない。


 果たして、此処は視えるだろうか。


 浮かんだ疑問が、潜めた吐息に沈み込む。現世から切り取られた常夜の空間。此処はヒトの居場所では無くなっている。身体を冷やす雨粒だけが現実との繋がりを確かめさせてくれる。事実として、何も出来ない。身を隠すことが出来ただけでも御の字だ。もし出来るコトがあったとすれば死ぬ事だけだろう。

 崖下へ一台の車が転がり落ちていった。黒々とした波をうねらせる海がそれを吸い込む。それを皮切りにして、崖そのものが斜め滑り始める。割れたアスファルトが、動かぬ鉄塊と有機物と焔とを平等に崖下へと運び去る。悲鳴は無い。一様に事切れている。木と岩が混ざった泥の奔流が、静かに、そして壮大に、崖を崩す。そこにあるものたちを消そうとばかりに押し潰し、流してゆく。止める事は出来ず。

 張り詰めた夜が解けてゆく。

 ――そのひとは立ち尽しているだけだった。


 だから私は、その冷たい手を引いて、此方へと駆けるしか無かったのだ。

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