焔紅月/5

 あたしは亜麻色をしたノースリーブトレンチを羽織って屋敷を出た。この左腕で楽に羽織れるとすると、これ――確か、雪が買ってくれたまま放置していた服たちのうちの一着――しか無かった。鏡に映ったあたしはいつものあたしとは何だか別人なように見えた。

 美優の好みはどうだったっけ。ああ、確かに聞いていたのに、思い出せない。あの時はきっと、気にも留めていなかったから。

 夕暮れの街を、何とは無しに歩いてみる。昨日と同じような景色だけれど、ほんの少し違って視える。そこかしこに見舞いの品を売っていそうな店があった。何を買うべきかはよくわからない。それでもせっかくなのだから美優に喜んでもらいたかった。

 記憶を探ると、あたしの白っぽい色をした脳がそのことを憶えていた。

「紗羅ちゃんの好きなものって何?」

「好きなもの……」

 何かしら、と思った。その問はごく当たり前にお互いを知ろうとするもので、それが普通のことなのだとは知っている。

 けれど、あたしはその問に応えるものを見つけられなかった。

「私は甘いものが好きかな。近所に素敵なお店があってね――」

 そんなあたしを気遣って、美優は少し頑張って話始めた。そんな気がした。このひとは、とても内気で控えめで、あまり話さない子なのだ、と。そんな雰囲気があった。

 ――あの時、夕陽のなかの自己紹介で美優はたくさん自分のことを放してくれた。

 精一杯に、ぎこちなく。あたしはこのひとのことを、とても優しい女の子なのだと感じた。そうして美優は私に、好きなものを見つけてくる宿題を出したのだった。

「好きなもの……甘いもの……」

 歩きながら呟いてみた。すれ違う誰もが気にしない、ささやかな空気の振動があたしの裡だけに木霊する。

 甘いものって何だろう。

「……喫茶店。……ケーキ、いいえ、確か……」

 そう云えば、その喫茶店の場所を聞いていない。美優の近所って何処だろうか。そんな話をした記憶は無い。確か喫茶店の名前は……。

 ふと、あたしの脚が止まった。

 何でだろう。その理由を知る前に、あたしは一軒の小さな洋菓子店を見とめていた。赤レンガ造りに見立てられた外観、入り口にはチョークアートが施された看板。

「シュークリーム」看板に書いてある今日のおススメを呟いてみて、ようやく当て嵌まった感じがした。

 涼しくて甘ったるい空気のその店でシュークリームを白い小箱に入れてもらった。もともと持っていた紙袋は左肩へかけ直して、小箱を右手に持つ。エクリクルムと一緒に持とうとなんて思えない。こんな有様だと万一あの妖を見つけてしまった時にはどうすべきなのかわからない。荷物があってはそれこそ抜刀すら出来ないのだし、けれどシュークリームを放置するのも気が引ける。

 ――ああ、もう。こんな丈の長い服じゃ動きにくいじゃない。

 空は朱色から深い藍色へと変わりつつあった。月の妖しげな蒼さが降り始める。微かに濃淡のある靄のようなモノが漂いはじめていく。あたしと美優と、あとは薫、そんな常人とは違う眼をしていないと認識出来ない霊素の流れが、月の光で浮き上がっているように視える。朝になればまた消えてしまうその靄のなかが一番、動きやすい。視界が霞んでいるように見えるのとは裏腹に、霊素の類を鮮明に視通せるようになる。何より呼吸が楽になるし節々に残っている気怠さから解放される。

 昨日と同じ道を、昨日より少し暗くなってから歩いていた。気温が高いらしい昼間よりも動きやすいからなのか、幾分人通りが増えている。けれど屍が歩くだなんてことは無かった。気配すらしない。あの焼け付くような焦げ臭さは何処にも漂っていない。

 出逢えば斬りたい。そして早く出逢いたい。

 どう云う訳かそんな風に心がはやる。見つけてしまえばそのまま躰が勝手に斬りかかってしまいそうなくらいに。でもシュークリームが無事では済まない。この服だってどうなるかもわからない。安物のパーカーとは勝手も違う。出逢いたいのに出逢いたくない、そんな不思議な気分。

 ……厭な気はしない。むしろもっと続いて欲しいような、そんな気すらする。

 いつもより歩幅を狭めてみた。それでも空はだんだんと暗くなっていく。夕陽の残り香も失せていく。曖昧な空の色が平坦な一色に染まっていく。

 何事も無いままに、綾川病院に着いた。

 閑散とした院内、緩めの空調。昨日より妖が少ない気がする。気味の悪い姿も、愛嬌があるらしいモフモフした姿も見当たらない。気配すら穏やか。

 病室では今日も、蒼色の暗がりのなか美優は身を起こして待ってくれていた。

「シュークリーム? ありがとう、紗羅ちゃん。覚えててくれたんだね」

 白い小箱の中身を見て、美優は嬉しそうにそう云った。覚えていたのとは違う気がしたけれど、そこに言及するのはやめておいた。云わなくてもわかっていそうな顔をしていたから。

「はい、半分」

 割られたシュークリームが差し出された。

「え、でも」「わ、早くとって、零れそう」

 カスタードが落ちないうちに、なんて器用にして、もう片方のシュークリームを美優は食べていく。行き場がひとつしかなさそうな片割れに、あたしは仕方なく手を伸ばす。味なんかわからない。食べる必要も無い。けれど食べられない訳でも無い。

 結局受け取った半分はあたしの手にカスタードを付けた。あの甘い匂いがほんの少し蘇る。――美味しい、と目の前のそのひとは微笑んだ。柔和な笑み、甘い匂い――。

 ……美味しい。

 それそのものを感じられているのかはわからない、けれどこれがきっと甘くて美味しいものなのだ。滑らかな舌触りと香ばしさと。味が、ほんの少しだけわかった気がする。なるべく私は自然に聞こえるように「美味しい」と呟いた。嘘では無いけれど本当にそうなのか確信が持てない。でも言葉の中身は空っぽではなくて。

「すっごく美味しかったよ。久しぶりのシュークリーム。どこのお店で買ったの?」

 食べ終わってから、果たしてどこで買ったのか不確かな自分の記憶に気が付いた。

「たぶん、薫の家の近くの……レンガっぽい壁の店だったかしら」

 次からは名前を確認しよう、と心に留める。

「それじゃあ、退院したら案内してくれないかな。私、病院を出たらそっちに住むんだ」

「えっ……? どう云う意味?」

「白羽さん――あ、ううん、薫さんが、せっかくだからうちに来ないかって」

 薫がそんなことを? 突拍子も無い話だった。

「私の家ってもうもぬけの殻なの、親戚筋って云っても殆ど顔を合わせたことの無い人ばっかり、それに思いっきり県外だし。高校辞めちゃうのも勿体無いし、一人暮らしは――」

 手が片方の眼に、包帯が巻かれた右眼に添えられる。

「この眼――霊眼、って云うんだっけ。このままじゃ良くないモノを引き寄せちゃう、でも薫さんの家に住めば紗羅ちゃんがいつも居るし、眼から溢れる霊素を――あれ、何だっけ、いつも変な話ばかりだからこんがらがってきちゃった」

 言葉を切る。確かに常識外れも良いところだ。霊眼、霊素、これだけでも意味が解らなくなる。説明するのは大変だけれど実際持ってしまった眼、視えてしまう世界なのだから信じる他に無い。そんな風な話は薫もしていた。

「片眼は無くなっちゃったし脚もまだ上手く動かないから、一人暮らしも難しいかなって。それに家に一人って何だか寂しいんだもん」

 健気な云い方だった。寄る辺を急に無くした姿に、あたしには思えた。ある日いきなり当たり前の生活が無くなってしまった少女の困惑。きっとあたしと同じ、唐突に住んでいる世界が変わってしまったような感覚なのかもしれない。

「そうね、それも良いかもしれない」

 どう伝えれば良いのかわからないまま返した応えは、何となく冷たい風にあたしに聴こえてすぐに後悔する。けれど掛けるべき言葉って何だろう。行くアテを失ったまま、しかも妙な世界に投げ出されたひとに対して云えることを、あたしは知らない。

「そっちに住んじゃえば面倒もしっかり見てもらえるし、紗羅ちゃんがいるから寂しくなんかないかなって」

 ……あ、そっか、一緒に住むことにもなるのか。凄く単純な話なのに云われるまで気が付かないなんて。

「……ええ、そうね。きっと気にいるわ、あの人の家って綺麗な洋館だもの。それこそ海外にでもあるような家、広すぎるくらいよ」

 もう美優は心に決めているように思えた。それならあとは、あたしもそれを後押しするだけだ。妖の世界に触れてしまうようになって一変した、今までとは違う常識外れの世界に生きるしかないのだから。

 どうにか生きていく為には、あたしやこれからの美優が薫の家に住むように、常識外れな先達に導いてもらうほうがずっと安心できる。

「これからもよろしくね、紗羅ちゃん」

 ひとりきりで投げ出されるよりずっと良い、そうあたしには思えた。こちらこそ、とあたしも云った。美優はベッドの背もたれに身を預けるようにして寄りかかった。退院は間近なことの筈だった。

 眠ってしまいたくなるような、そんな暖かさが今日の月にはあるような気がする。

 ……暖かさ。月明かりのなかの……。

 ――と。左腕に不快な感触が疼いた。

 ……ああ、そう。忘れさせてもくれないのね、忌々しい。

 声に出さない悪態は、けれど美優に訊かなければならないことをしっかりと定める。もう少し、せめてどんな暮らしをするのか話合える時間が欲しいのだけど、でも明らかな気配がどこか遠くから伝わってくるのだった。

「ねえ美優、こっちの紙袋のことなのだけど」

 床に置きっぱなしにしていたそれから、あの木箱を取り出す。美優は小首を傾げてそれを視る。

 手首に伝わるどこかの気配は、紛れもなく何かに火を放ちたくなるような、そんな強烈な衝動だった。

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