景色泡沫/夢幻・1

 闇の裡にあって、其処は春の陽だまりのように暖かく、夏の木陰のように涼やかな水底だった。それ以外には何も無く、それ以上には何も要らなかった。自分自身が際限無く拡散して、闇と一体になっているようですらあった。

 ――焔。紅い焔。降る雨が熱い、夜。

 昏闇に眩んだだけで、例え視えずとも其処にある。

 紅が一筋、尾を引いた。真水に垂らされた血のような紅だった。描かれる景色に閉じた瞳は逆らえない。紅が二筋、三筋と増えてゆく。描かれる。

 そんなモノは要らない。此処には必要無い。視たくない。

 必要なモノは充分に在った。何も無いコト。穏やかであるコト。暖かであるコト。

 静止。

 美優の血潮が躰に流れている。美優は此処に居る。だったら、これ以上何を望めば良いの。

 焼き付けられる夢には抗う術など無く。

 明らかになった紅の正体は焔。不知火に視た景色を思い出す。左眼を焼いたかの灰に視た、我が身が焔に巻かれる寸前の景色。

 この闇は総て幻。知っていた。視通せない筈も無かった。けれどもそうあって欲しくは無かったのだ。このままずっと安らかに、美優の裡に包まれていたかった。

 それなのにこの眼は、例え躰が眠っていたとしても、夜の正体を暴こうとする。

 ここは、果て?

 思考している。

 片方の眼が潰されているようだった。紅は血か、それとも焔か。痛みも熱も判らない。正に阿鼻叫喚の只中にあって、この身は無力そのものだった。

 潰れた頭。投げ出された四肢。まるで見知らぬひとのようになってしまった。動かない、ひとの身体。ほんの少しまで動いて、話して、笑っていた、肉の塊。

 やっとなのね。特別に見逃されて来たのだもの、これは仕方ないことなんだ。よく生きていけた方なんだ。

 これが果てなの?

 よく、生きていけた。そうなの。だから今度は。

 嘘。

 焔に巻かれ髪を振り乱し、やがて頭までも真っ赤にして倒れ伏す。血を振り撒く死体は、四肢を撒き散らしてヒトの形をしていない。頭が潰され、脳漿を晒した死体が眼前に転がっている。

 これが夢なら良かったのに。いや、夢かもしれない。身体は動かないから。眠っているから動かない。それでも身体はこんなに痛い。そんな気がするだけ。痛みは記憶がつくったまやかしで、血も、死体も、頭の中の妄想だ。

 潰れ、潰え、散らした命。死。屍。

 妖がそこら中に遊んでいた。焔に照らされて露わとなった具足蟲の化生。皮のくすんだ肌色を血飛沫が飾る。喰らうは屍か、それとも生きたままのヒトか、奔放に咀嚼されている。その向こうには、黒い布を細く引き伸ばしたような胴と幾本の手足をもつ、ヒトにも似た面の異形が、刃のような手足の先端を――獲物に――突き刺している。

 化け物、幽霊? そんなものいる筈が無い。だからこれは夢だ。妄想だ。

 暗転する景色。転がる。滑り落ちる。冷たい。痛い。熱い。注ぐ血は雨? 雨、暗い雨。冷たい雨。冷たい身体。

 そうだった。眠ってしまえば、いつもベッドの上で目覚めるのだから。

 残骸は等しく、雨に打たれ月に濡れる。

 闇へと落ちた意識に景色が再び広がった。火の手は幻の如く掻き消え、病室の中に居る。息を切らした身体は濡れそぼって、そのままにしていたら風邪を引いてしまいそう。まるで別の場所。

 目覚めた先はベッドでは無かった。全く違う景色の中に立って居る。痛みは消えていた。両眼も十全に機能しているようだった。

 中学生、いやそれよりも下か、恐らくはそれくらいだった。重くなった制服は冬服だった。病室は個室で、やつれきって枯草のような老人が横たわり、その傍では腰の曲がった老女がこちらに背を向け丸椅子に腰掛けていた。

 窓の外の雨粒だけが、細々と動いている。

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