景色泡沫/3

 静まり返った廊下を歩く。授業中の校内は、これから向かう場所と同じ匂いの空気に侵食されている。足音は殺された。

 絶海――絶界。そんな言葉が浮かぶ。

 幾ら黒雲が空を塞いでいようとも、あの桜の妖の姿は何処にも視えない。校舎よりも大きな図体の幻は、ただその場に植わっているだけで、朝日と共に姿を消した。

 アレはあたしを知っていた。あたし以前のあたしの事を。あたしはアレを知っている。アレはハヅキが描いた桜だ。それから……そう。

 どうして忘れていたのかしら。アレと対峙したのは昨夜、もしくは今日の未明。なのにその事実が記憶から抜け落ちていた。抜け落ちていた、では正確では無いかもしれない。塗り潰されていた。隠されていた。

 だからあたしはハヅキに会わなければいけなかった。朝、いの一番に旧校舎の美術室へ向かうべきだった。けれどあたしは、それがあたしの――あたし以前の記憶だと知らなかった。まるで他人の記憶、映像、知識。不知火に視た景色と同じレベルのイメージ。記憶を無くした事自体に自覚が薄いのだから当然だ。忘れた事すら解していない己の記憶は、赤の他人の記憶と区別が付かない。

 斬った時に視た景色は、妖のモノでは無かった。けれどもあたしは思い出したらしい。断片的なかつての記憶、知識、経験――のようなモノを。あたしが自覚する事は出来ないまま、あたしはかつてのあたしに、もしかするとあたしでは無い何ものかに、この意識の裏側へと潜り込まれているのかもしれない。

 逸る気持ちは、総て的外れな思い込みかもしれない。確かめる術があるとするならば、それはあたしを知るであろう他人に、或いはかつてのあたしを知っている他人に、この焦りを糺す他に無い――のかもしれない。少なくとも、今のあたしには。手掛かりは絵。

 ……引っかかり。違う? あたしは、ハヅキに何を問う。何の為。ハヅキに会いに行く。

 旧校舎に足を踏み入れても、その揺らぎは答えをくれなかった。

 夜、刃は確かに妖を捉えた。桜の幹は浮き出た血管じみた表皮に覆われていて、強く、その場で自らが生きているコトを主張していた。

 なのに、ソレは無抵抗だった。

 妖には違いない。真夜中にだけ現れる、化け物染みた桜の木。尋常ならざるモノであるコトは明白だ。

 斬った。傷付けられないまま、けれども斬ってしまった。

 元より刀一本で立ち向かうには巨大過ぎたのかもしれない。あたしの背丈などゆうに超えた巨木なのだ、何処を斬れば良いのかも解らない。

 太い幹を横一文字に斬りつけていた。刃は素直に通っていた。斬った手応えはあった。それなのに傷は失せていて。

 刀を振り抜いて桜を視上げれば、星屑が踊っていた。黒い空を彩った光の粒たち。

 眩い――刃が映した、衝突、激流。

 それはイメージ。とりとめの無い、複雑で乱雑なイメージだ。知らない言語の文字のように、あたしはそれに意味を見出すことも出来なかった。見えてはいるが認識出来ない、情報の奔流。知ったと同時に解せない、漠としたイメージ。何がそこにあるのか、はたまたそれは何なのか。そも、あるのかもしれないし、無いのかもしれない。

 手繰れたのはふたつだけ。

 ひとつは、屋内のイメージ。屋敷、に近いだろうか。薫の洋館では無くて純和風の古い屋敷。襖も天井も、年月を経て黒ずんでいる。天井近くの木の壁には彫刻が施してある和室。

 もうひとつは、既にあたしが知っているそれとよく似ていて――白い影、翼の異形、白無垢。けれども何かが違う。あたしの知っている白無垢とイメージの中のソレとは決定的に乖離しているような、齟齬があるような――けれどそれは霧を掴もうとしているかのように、するりと意識から逃げている。

 そんな、余りにも不確かなモノに頭を殴られた気がしたのだった。

 記憶だ。押し寄せた記憶にあたしは潰されかけたのだ、きっと。

 生のままの、原液の。言葉未満の混濁をあたしの頭が処理しない。――それでもその一部だけは認識した、のかもしれない。

 あのまま壊れてしまえば楽だった。違う、それは壊れているのでは無くて、もっと別の。

 キャパシティを超えて襲い掛かったそれを、あたしは咄嗟に叩き斬っていた。頭の中で、偽物の脳味噌が沸き立っているみたいだった――、嘘、熱。

 刀は幹から引き抜かれていた。桜は変わらず、傷ひとつ許さず、立派な体躯を脈動させながら煌々と咲き誇っていた。

 今日の廊下は長かった。向こうがら遠ざかっているかのようだ。

 ――シロツメグサを濡らす雨は、思いの外、冷たい。

 中庭は艶やかで、淑やかで。暫くはそこで雨に打たれていたいくらいだ。

 ガラスの扉を押し開けた先は、いつもよりも薄暗い。照明は一つも点いておらず、無人にすら思えた。

 彼女はこの場所で絵を描いている。相変わらず此方に背を向けて――丸い背、細い肩、セピアのカンバス、「――ハヅキ?」振り向こうと小刻みに震える首。

「……こんにちは」

 か細い声が、美術室であたしを出迎えた。ハヅキと同じ顔。けれど、彼女は。

「何の用」

 息を、呑む。

「葉月ちゃん、ね。きっと」

 自然とあたしは、葉月ちゃん、と呼んでいた。

「私を、知ってるの」

 一瞬だけ交差した視線は直ぐに躱される。疑問なのか確認なのか、抑揚の無い言い方だった。

「白羽……紗羅、さん」

「ええ、そうね。そう……」

 逸っていた気持ちが萎んでゆく。毒気が抜かれた、ような。

 一番近いのは美優だろうか。声音すらもハヅキとは別人のよう。もしこの子と別の場所ですれ違っていたとしたら、あたしはハヅキと同じ人間だとは気が付けなかっただろう。

 葉月は小動物じみた動きで頷くと、黙々と、淡々と、カンバスに向き直った。黒鉛が走る。

 伏し目がちの自信無さげな少女の姿をしているそのひとの顔かたちは、それでも疑いようも無く津川葉月その人だ。けれど今日の彼女は長袖の第一ボタンまできちんと留めて、行儀良くカンバスに向かっていた。少年の様なハヅキは居ない。

 ハヅキではない、葉月。ハヅキの知らない葉月。

 この子には、あたしに渦巻いている問をぶつけられない。そんな気がした。うっかりすると言葉だけでも簡単に砕けてしまいそう。

 カンバスに描かれているのは、窓際で外に視線を向ける少女の姿だ。短い髪、鋭い雰囲気。凡そ女子的に無いその姿は、女子らしい制服がまるで似合っていないところまでしっかと再現されている。

 あたしの肖像。鏡に映る姿よりも正しくあたしを映している。あたしとあたしの肖像が、新しく描かれるあたしの姿を見つめる。

 最後に会ったあの時、ハヅキはあたしの絵を見つけて驚いていた。慌てていたし、もっと別種の――恐れ、だろうか、そんな様子だった。その後、鬼気迫る表情であたしを追い出して。

 その絵とこの絵は違う。あたしを描いている一点は共通しているけれど、色味も構図も全く別の絵だ。あちらは、どちらかと云えば背筋を伸ばして座っていたし、もっと薄い筆致だった。

 ……あちらはどうしたのだろう。捨ててしまった?

 別に構わない。あたしがどうこう出来た事でも無い。なのに、もし捨てられているのなら、それは少し嫌だ。

 葉月は、まるであたしが此処に居ないかのように、淡々と描いていった。

 緊張気味な細い背中が、次第に堂々としていった。呼吸する音すら耳障りだった。彼女に、彼女では無い彼女の事を尋ねてはならないと強く感じた。ハヅキは葉月の事を知らなかったけれど……あまり好く思っていない風だった。葉月の背中は、ハヅキのそれよりも、他人を拒んでいた。

 遠くでチャイムが鳴った。彼女は黒鉛を置いた。

「どう……思った?」

 葉月の掠れた声が、折しも強まった雨音に消されてしまいそうになった。

「……わからないわ」

 あたしはこんな姿をしているのだろうか、それともこれはあたしの特徴を大袈裟に捉えたものなのだろうか。

「あたし自身に似ているとは思うのだけれど。描いてもらって、こんなときって喜ぶべきなのかしら。それとも恥ずかしがるのが普通?」

 葉月は足元に視線を落としたままだった。膝の上では、何をするでも無く、指がせわしなく動いている。段々と肩を落として、背中を丸めてゆく。

 ほんの僅かに頬が緩んだ、気がした。

「この絵、もし、描きあがったら、もらってください」

 相も変わらず目を合わせようとしない葉月だった。あんなに快活なハヅキだったのに、この葉月からはそんな気配は微塵にも感じられない。

 こちらの方が自然だ、津川葉月のイメージだ、そう直感した。あたしは――逡巡したけれど――ありがとう、嬉しいわ、と返していた。

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