景色泡沫/2
三日ぶりらしい教室では、あたしたちは意外なくらい心配されて、そして歓迎された。
当のあたしは三日も休んでいた事にすら実感が無い。あたしは眠って、そして起きた。でもたったそれだけで三日が経っていたらしい。時間が知らないうちに消えてしまったみたいだった。
私が三日間も眠っていたせいで美優まで屋敷から一歩も出られなかったそうだ。万一――と、薫からは聞かされた。
となると、あたしは美優に丸々三日も不自由を強いていた事になる。そうなのだけれど、その実感が無いから、どうにもその自覚が出来ない。あたしには罪悪感が伴わない。悪いとは思う。凡そ他人事程度には。なのにそのことそのものに罪悪感を覚えてしまう。抱くべき罪悪感は薄い膜の向こうに隔てられているような、そんな気がする。
美優も薫も揃って、そんなことは気にしなくて良いと云ってくれているのだけれど。
「身体はもう大丈夫? 右腕も」
教室に着けば、朝一番から雅にそう心配された。
「ええ。もうすっかり」
……雅は本当のコトを知らない。詐病が悪化したとでも思ってくれているのだろう。壊れる躰はあっても病むべき肉体は無いと云うのに。
躰は軽く、寧ろ調子が良い。細々とした「治療」も眠っている間に薫が施してくれていたらしい。鉛色の雲に吹き荒ぶ雨が陽の光を遮っていて、嵐の訪れを感じさせる空模様もあたしにとっては追い風だった。
「二人とも休むものだから心配したんだ。また長い休みになるんじゃないかって」
「心配してくれてありがとう、雅ちゃん」
美優はにこやかにそう云うと、あたしの方へちらと視線を飛ばす。
『紗羅ちゃん紗羅ちゃん、もうちょっと笑顔が良いよ?』
『こう? どうだって良いでしょう、そんな』
ふふ、と美優は軽く笑った。
『何よ』
「ん? 美優ちゃんどうかした?」
「ううん、ちょっと」
「なになに。気になるじゃんか」
「何でも無い。本当に」
「えー……ホント? あ、もしかして私の顔に何か着いてるとか」
声に出さなくても良いあたしたちの会話は、やはり雅には聞こえない。だから眼配せして笑んでいるようにしか思えなかったのだろう。
『心配してくれてるんだからちょっとくらい愛想良くしたって良いでしょ? 紗羅ちゃん可愛いんだから、笑顔じゃなきゃ損よ』
『あたしのつくり笑顔がおかしかったんでしょうに』
『だって、紗羅ちゃんってば』
……この場所のマナーは複雑怪奇だ。
「そだ、紗羅ちゃんってスマホ持ってる?」
「スマホ? 持ってないわ」
「マジで? ……いや、そんな気はしてた。してたけどさぁ……」
雅は頭を抱えた。恐らく殆どの高校生が持っているのだとは知っているし、風宮でも生徒達が薄っぺらいスマホを弄っている。薫も持っていたような気がする。
「ウチがどうこう云うのもアレだけど、無いと不便じゃん。白羽先生なら買ってくれるんじゃないかな」
「そうなのかしら。あたしは特に困っていないけれど」
「あー……うん、そんな感じしてる。してるね、うん。けどこのクラスで持ってない子はいないし、普通は必需品なんだよ。今日の時間割変更、知ってる?」
「え、何それ、雅ちゃん」
あたしが答えるより美優の方が早かった。美優が困惑した声を出すと雅は渋い顔になる。
「美優ちゃんも、これは友だちとして忠告するけど、スマホ持つくらいした方が良いよ。休んだりしたときに連絡取れないもん」
それに、と雅は云いかけて、けれども口を噤んだ。
「……そうだね、ありがとう。私も買おうかな、雪ちゃんにも勧められてたし」
「そうなの? 美優」
「その時は断っちゃったけどね。もう、要らないなんて言ってられないかなぁ」
仕方なさそうな云い方とは裏腹に美優の声は明るかった。雅の方は「どうしたら要らないなんて発想になっちゃうのか」なんて、不思議そうにぼやいていた。
授業が始まるまで、あたしたちは雅を中心に、真由美やら朱莉やらも交えて、クラスメイトたちと談笑していた。未だに名前を憶えていない女子も数人いて、実際には談笑と云うより、その様子を眺めているに等しい状態だった。あたしの立ち位置は三日前までと変わり映えはしなかったものの、けれども然程疲れた気にはならなかった。
美優の方は見違えた。見知らぬひとのようにも思えてくるくらいに。
滑らかに受け答えを――とまではいかない。でもそうしようとしているとは判る。美優は此処に居た人間、風宮の生徒。入院して此処に居られなかった時間、それを取り戻そうとしているみたい。
……あたしの知っていた美優と、今の美優。どっちが本当の彼女なのかなんて考えるだけ無駄なんだろう。薫ならそう云って一笑に付すに違いない。美優は美優。物静かに本を読んでいる病室の彼女と、ぎこちなくもクラスメイトと談笑する教室の彼女とは、紛れも無く同一人物の筈なんだろう。
こうして遠巻きに眺めているだけで幸せな光景だ。元々の美優はこうだったのだと知る。彼女は、穏やかな陽の光が似合う女の子。真昼に笑う、普通の女の子。その筈なのだ。それが正しいのだし、その為にもあたしは霊刀を握らなければならない。
あたしとは違う。違うべき。
それでも少し、息が詰まる。此処に居られないとか、そんな差し迫った息苦しさでは無い。もっと緩やかで穏やかな感じ。上滑りしているような、それとも靴の中に入ったひと粒の砂のような。
相変わらず、よく解らない授業を受ける。授業だけでは無くて、もっとこう、此処そのものがよくわからない。わからないが不快でも無い――きっと、慣れか、それとも――そう、なのかしら。
眺めているだけ。それだけで良いの、あたしは。此処に居るだけで。
四時間目の数学で、あの長井があたしを指名した。意識的になのか、これまで風宮では指名された事は無かった。
美優も知らないらしかった。
「解りません」
「まあまあ、ひとまずはお願いします、白羽さん。さ、前に」
うっすらとした嫌味な笑みだった。『途中までなら私も、一応……たぶん』おずおずと、美優はノートに数式を並べ始めた。
黒板を前にしてチョークを手に取る。共有された視界に沿って白い線が引かれた。数字と記号が上から下へと連なった。たった一行だけの数式が黒板の半分を占拠するまでに展開される。あたしの事を知っていて、長井は容赦無い仕打ちをしてくれる。この捻くれた問題と似ているかもしれない。ほんの少しの言葉数なのに中身を明らかにする為には手間と時間が係る。
途中式を半分記したところで、あれ、と思った。
美優の手は止まっている。あたしの手は動いている。美優の右眼から伝わる視界に、今あたしが記している数式は存在していない。
知っている? あたしはこの数式を理解している?
最後に解を記してチョークを置くと席に戻る。授業はそのまま進行した。初めて受ける筈の授業内容は、けれども既に知っている。既視感とはまた違う。見た事があるのでは無く、この解放そのものを当然のように解している。勉強した? そんな事は無い。あたしの記憶の限りでは、こんな数式の解法を予め習得しようとした事実は無い。宿題も何もかもを美優に頼り切りのあたしにとって、これはそもそも理解の及ばない域の問題だ。あたしが知らない筈の知識が、あたしに備わっている。知識として会得している。初めて眼にする記号をこの手は滑らかに書いている。
ならば、この知識は。
「――白羽さん」
呼ばれていた。
「白羽さん、聞いていますか、白羽さん」
長井があたしの名を呼んでいた。
「白羽さん――聞いていましたか。先程から俯いていていますが、もしや気分が優れませんか」
気分が、優れない。そうなのかもしれない。そのように見えていたのかもしれない。何度呼ばれていたのかも分からない。一度や二度では無さそうだった。
「そうね。少し休むわ」
『紗羅ちゃん』
美優が心配そうに割り込む。
『少し思い出した事があるのよ。心配はしなくて良いわ』
「そうですか。どうぞ、お大事に。付き添いは必要ですか」
席を立つ。控えめに注目された気がした。
『でも』
「いいえ、一人で結構よ」『すぐに戻るわ。確かめなくちゃいけないことがあるから』
長井も美優も、それ以上は追求してこなかった。
教室を出る。廊下は真っ直ぐでしっかりしている。歪んだり撓んだりしているようには感じられない。気分が悪いなんて、そんな筈が無い。躰の調子はすこぶる良いままのようだった。長井の授業は退屈だけれど、休みたいとまでは思わない。
けれども、あたしはどうしても知るべきなのだ。この意識が手繰った、この僅かな記憶のほつれを、今のあたしのものにする為に。
まるで知らない誰かと巡り会おうとしているみたいで、逸る気持ちがせりあがって足取りを急かしている。
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