景色泡沫/1
眼を開けると、窓から月が見えた。
静謐。蒼い月明かりだけ。流れる雲。瞬く星。夜、あたしの夜。窓に止まった蛾。いつもの硬い寝台。アンティークな置時計は午前二時を示す。誰もいない。皆寝静まっている。誰もいない、夜。あたしを招いているかのような、夜。
――静かな、夜。
霊刀を携えて外へ出た。涼やかな風がスカートの裾をくすぐる。風宮の制服のままだった。
右腕の傷も傷痕も残ってはいない。痛みすら消えてしなやかに動く。
月明かりが軽やかな躰を誘う。気分が好い――とても、快い。こんな夜はいつ以来だろう。足取りは軽やか、けれど密やか。冷たいアスファルトが気持ち良くて、そのことに気が付いた頃には屋敷から遠く離れた場所を歩いている。素足で夜を彷徨うのは、多分あの日以来だ。あたしが目覚めて、けれどもあたしがあたしであることすら曖昧だった、あの蒸し暑い夜以来。季節は巡って、今は秋の始まり。
とても静かな夜。霞も晴れた、蒼い月の夜。昼間のように明るい夜。
あの時も、こうして何かに憑かれたかのように彷徨い出ていた。けれどその自覚すら無かった。意思は判然とせず、あたしはひたむきに濡れたアスファルトの上を駆けていた。今のあたしはどうだろう。彷徨い出た事に意味は無いかもしれない。素足を汚すことに意味は無いかもしれない。でもそれで良い。あたしは夜のひと。元は知らない。でも今のあたしは夜のひとだ。誰もいない夜の道に歩くひとだ。街へ向かえばいざ知らず、こんな外れではすれ違うひともいない。夜風はしっとりとしていて、昼間の無遠慮な陽射しの下とはまるで違う世界を歩いている気分になる。とても静か――。
――静かな、夜?
視界が明滅した。いや、暗転? 束の間に閉ざされた視界。
こうも静かな夜があっただろうか。誰もいない。ヒトも、妖もいない。妖たちは滅多な音で騒いだりはしないし足音もさせないけれど、静かではない。音にならないだけ。眼にしているだけで賑やかだ。こんなに静かな夜はあるのだろうか……あり得るのだろうか。
気ままに歩いていた筈なのに、この脚は風宮へ向かう道を辿っている。この夜空を、この月明かりを愉しんで歩いていた。それなのにこの脚は何故。何処へも向かわない筈の彷徨い――いいえ、そんな事はあり得ない。あの時もそうだった。あたしはあの――白い妖――名前はそう、白無垢に手招かれるかのように。
――明滅。ボウ、と耳もとの空気が歪む。世界が傾ぐ。
静かな夜? そんなモノがある訳も無い。あたしにあるのは、異形たちの蠢く夜のみ。何を今さらそんな当然のコトを忘れようとしていたのだろう。
「きっと、あの夢のせい」
言葉だけが、この夜で確かなモノかもしれない。こうして言葉は空を震わせる。曖昧な思考にカタチが与えられる。
「起きろ、あたし」
やっと視えた。夜の騒がしさが。
丘の上で、満開の桜が輝いている。
季節は初秋。控えめに云っても既に晩夏。桜の季節とは程遠い。秋桜にしても早すぎる。
この桜には見覚えがある。
あの子の、ハヅキの絵に描かれた桜。
――気に入ったかい、その絵。
「気に入ったわ。実物に関してはそうね、お世辞にも綺麗とは云えないけれど」
――夢で見た景色なんだ。こんな桜が本当にあったら良いのにね。
「それとも、これは綺麗なのかしら。本物の桜? それともあたしは未だ夢現に揺蕩っているの? 本当のところなんて、あたしには解らないのかもしれないわ」
夜桜は答えない。花弁が舞っていた。上から下へ、そして下から上へ。落ちた花弁が舞い上がって再び花を咲かせている。桜はいよいよ咲き誇る。あたしの周りにも桜の花弁が舞っている。舞い上がって花となる。
肌が感じる。静けさの大元を、この肌が。桜色を帯びそうな肌が粟立つ。あたしはそれを引き留める。むず痒さを残して、でもそれ以上は許さない。花弁はそこら中から漂って、行き着く先は新たな花。
気を許せば、あたしまで花弁になって解けてしまいそう。
気配を感じて振り返った。明滅。意識しなければそれがそうと判別出来ない程に一瞬だけが視界から断絶している。気のせいと思うには充分過ぎるくらいに、ほんの一瞬の明滅だった。
蜃気楼未満の揺らめきが、街灯の下に残っている。
幽霊の正体見たり枯れ尾花。きっとそうなのだろう。見えなかったその一瞬の認識には、見慣れた人影が焼け付いている。
疑わなければ良かったのに。
そんな声が聞こえた気がした。それはあたしの声だったのか、それとも。夜風のそよぎにも満たない、桜のざわめきが、そうあたしに聞かせたのかもしれない。
あの夢に、この夜。お似合いかもしれない。あたしの寝覚めは最悪だ。いや、それとも或いは。
「幸運、なのかしらね」
刀の柄に手を掛ける。
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