景色泡沫/7

 机の周りを取り残して灯りの落とされた書斎で、薫の意識は微睡の中から引きあげられた。

 いつの間にやらうたた寝をしていたようだった。肩と腰、首には鈍い痛みがあった。椅子に座ったまま、無理な姿勢で眠っていた事の証左であろう。左右に首を捻ると固い音と共に関節が鳴った。机の上にはコーヒーカップが置かれているが、このところの無理が祟ったのか、どうやらカフェインの効き目も薄かったらしい。微妙な睡眠は、薫の疲労を逆にはっきりとさせていた。

 痛み気怠さによって抗議の声をあげる身体で、薫は僅かに自省する。特に左腕の感覚が酷かった。この左腕、無い筈なのにある。ある筈なのに無い。確かに左腕は思い通りの動作をしているが、その左腕は元々の彼女に備わっていた左腕では無い。最初は生身の左腕だった。けれどそれは失われた。けれど代わりの左腕があった。そしてその左腕が失われた。然し今は左腕がある。相反する感覚が衝突していて、ややもすると吐気すら催してしまっている。

 馴染が酷いせいだ。薫は重い身を起こす。急造品よりマシとは云え、代替の代替であることには違いない。骨まで失った左腕だ。そう簡単に元に戻るなどはあり得ないと、彼女はこれまでの経験から身を以て知っている。

 ……そうだ、骨だ。骨が悪い。この骨が。これまでの骨は佳かった。望むべくして備わったモノでは決して無かったが、それでも……。

 自室で眠り直そうと思って立ち上がり、数歩歩いたところで――不快感。身体のそれとは別の、もと内側に伝わる気持ち悪さ。奥底で蠢く吐気のようなモノを、薫は察知した。

 放置されていたコーヒーに口をつける。温く、苦いだけだったが、それでも思考が纏まり始める。身体の調子が悪いにしても、その不快感とは明確に異なる冷たい感触があった。それは内側にありながら、外側にある――左腕の混乱以上に、意識の外に追いやらねばならず、同時に知覚しなければならないモノ。

 眼を閉じた。

 ガリ、ギイ。軋みが耳を打つ。耳鳴りではなく、確かに屋敷の外から届いた音。腕の歯車の音でもない。庭、門。何かがいる。良くない――いや、かなり悪いモノだ。そう薫は判じた。屋敷全体の空気が淀み掛かっている。

 この不快感が意識を覚醒させたに違いない。悠長に休んでいる場合では無かった。

 薫の瞳の奥、視界では無く其の向こう側。其処に、おどろおどろしく濁った赤と灰色、そして――を視た。

 くすんだ色彩。其の渦。

 屋敷の正門を、招かれざる客がまさに侵そうとしている。

 開いた彼女の両の眼は、翠の光に飾られている。

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