景色泡沫/8(上)

 止まった景色に居た。

 空は晴れ渡って青く、遮るものは何も無い。木々のざわめきが涼やかだ。足もとには硬い感触。不揃いな飛び石が、整った緑の向こうへと続いていた。

「ふうん、こんな処なんだ」

 振り返れば、ハヅキが居る。

「何処なの、此処は」

 あたしは、問うた。

「君が来たいって場所さ。ボクだって知らないよ、此処が何処かなんて。ああ、でも、此処がある場所ならわかる。ボクの……あー、どう云えば伝わるかな……そう、ボクの場所だ」

「じゃあ、家ってコトかしら」

 葉月の背後には古びた平屋建てが見えている。雰囲気としては、整った日本家屋とその庭園。あたしたち以外にヒトの気配はしていなかったけれど。だから家だった。住んでいる気配のしない、けれど廃墟とも違う、家。ハヅキが棲んでいるとすればこんな場所だろうな、との予感があった。

 知らない、けれど知った景色だ。

「家。家か。いや、それとはまた違うかな。でも家って云った方が解りやすいのかもしれない。家なんかじゃないんんだけどね」

「じゃあ、どうして此処に居るの?」

「ボクかい? それとも、君?」

「……どちらもよ」

 迷って、あたしが此処に居るらしきことの不可解さを意識する。

 あたしはつい先ほどまで、夜の風宮で……祗園と向き合っていた筈だ。けれど太陽は高く、あたしがこんな場所に居る筈も無い。どうやって此処に来たのかも解らない。何かが足りず、何かが決定的なまでにおかしい。決定的なまでに、現実味を失わせてくれている。

 其処で視た場所だ。此処は。確信していた。

「弱ったな。どうしてだなんて、そんなもの、どうやって答えればいいんだ」

 ハヅキは頭を掻いた。

 ――と。

 ハヅキの後ろに、葉月が居る。ほんの僅か、焦点がずれたその瞬間に、葉月が居た。

「紗羅ちゃんは? あなたは、どうして此処に居るの?」

 同じ顔をして、同じ声を発したそれは、紛れも無く葉月そのひとだ。

 瓜二つどころか全く同じ顔、全く同じ身長をしている二つのヒトの姿。そう云えばハヅキを今の今までハヅキと断じているのはどうしてなのだろう。ボク、と自分を呼んでいるからか。

 葉月は、その声がするまで気配もしなかった。全く突然の出現だったけれど、なのにとてもナチュラルだった。

「あたしは――」

 いや、声があっても、姿があっても。今も尚、此処に居るらしい気配はしていない。

「耳を貸さなくて良い。アレは」

「此処に居るから、此処に居るの。此処にあなたがいるから、あなたは此処に居るの。あなたが、此処に居るから」

 掠れ声同士が混じり合う。

 ……今此処に葉月が居るとは思えない。明らかに此処に葉月は居るのに、此処に居るだけの存在感が伴っていない。

「意味が解らないわ」

「解らなくて良いわ。意味なんて無いもの。私たちが此処に居る意味なんて」

「煩いな」

 振り向きざまに、ハヅキは葉月の頬を払った。

「――、」

 何と、云ったか。あたしの喉から。

 ハヅキの手が当たるそばから――或いは当たる直前から、葉月の姿は風のように空に溶けていった。ハヅキの手の甲が葉月の頬を叩く音もしなかった。

 消えた葉月の周りには、淡い色をした、シャボン玉のようなパステルカラーの乱反射が漂う。それは水のようになってハヅキの手の甲に纏わりついたあと、光だけを残してやはり消えてゆく。

 葉月は液体だったのかしら、と感じた。そんな筈が無いのに。

「気がついたら出て来るんだ。邪魔でしょうがない」

「邪魔って、ハヅキ」

「気味が悪いだろう。ボクと同じ顔をしているんだよ、アレ。その癖してボクとはまるで違うんだ。一度や二度ならどうだって良いかもしれない。でもね、何度も何度も出て来るんだ。しかも訳が解らない事を自由に喋る。全身が総毛立つ心地だよ」

 もう、その声はしない。もしかするとあたしの後ろに居るかもしれないと見渡しても、もうひとつの姿は掻き消えたままだった。

 此処は、明らかに異常だ。

「それで、此処は何処なんだろう。君、知らないのか」

「知らないわ。でも」

 夢、と思考する。

「知っている……かもしれない。さっき、見たの」

「見た?」

「ええ。刃を滑らされながら、あのとき、此処を確かに」

 飛び石に招かれて歩き出す。確かに視た。けれどもどうして此処に居るのか分からない。断絶している。

 もしあたしも夢を見るとすれば、それはこんな景色なのだろう。

 よくよく近付いて見れば、この屋敷は相当古いものだと判る。木造の壁や柱はどれも黒ずんでいた。両端が見えないくらい大きい屋敷だった。あたしたちを中へ招いているように、玄関は広く開け放されていた。

 此処が夢と断じるには――比較対象が無くとも――余りに意識が明瞭だ。それにあたしは、この場所をまさに始めて知っている。

 靴は脱がなかった。ハヅキも土足のまま、あたしに行く先を委ねて斜め後ろに居る。古い家特有の匂いがしていた。これも開け放された無地の襖によって、玄関から真っ直ぐ続いた居間を見通す。広々とした畳の間が幾つか繋がって、より大きな空間を作っていた。棚やら机やらの家具は一切置かれていない。

「気分の良い処だな、此処は。大の字になって昼寝でもすれば、さぞ気持ち良さそうだが」

 飾り気どころか生活感の一切が伴わない、殺風景な場所。二人分の靴に着いた土がひと通り畳を汚してしまった後、奥の奥の間の、その床の間がやっと、あたしたちの歩を止めた。

 広間に調度品はこれひとつ。

 飾り物としては些か物騒だ。凛とし過ぎて、吹き込んだ風すら寄り付かない。

 刀掛けには、大小一揃いの刀。

 近付く間でも無く、見慣れた刀と悟っていた。

 ……いや、それより綺麗かもしれない。特別乱暴に扱っている気はしないものの、普段から振り回していれば瑕のひとつやふたつは仕方無い。これにはそれが無かった。

 鞘から抜くと、これも見慣れた波紋だった。馴染具合からして、この刀がいつもの刀であることは明白だった。

「これって、あたしの刀よ」

「刀? 君の?」

「そうだわ。此処は……あたしの、家だった場所よ」

 然しもう一振りに憶えは無い。拵えからして、この刀の対になっているのだろうけれど。

 同時に違和感の正体も知る。今の今まで思い至らなかったのがおかしいくらい、それは根本的な違和感で――刀を持っていない。いつも手元にある筈の霊刀が無い。それが眼前に置かれていた。

「此処が、あたしの家だったの。此処があたしの――」

「それは違うよ、紗羅ちゃん。此処は」

 声に遮られる。か細い声音。ハヅキと葉月の間にある差異は、この声音の強弱か。

 ともかく葉月が現れていた。今度はあたしのすぐ前に居た。手を伸ばせば自然と触れられるくらい近かった。相変わらず気配はしない。だからなのか、驚こうとも思わない。

「また」

「待って、ハヅキ」

 振り上げた手を静止する。ハヅキはすぐにでも葉月を払って消しそうだった。

「何が違うの?」

「此処は、あなたの家とは別の……」

 葉月はそのまま云い淀んだ。ぶるぶると繰り返し頭を振る。

「……違うの。違う……」

 それだけを繰り返して、今度はフェードアウトするかのように葉月は消えてゆく。光の飛沫は残されなかった。

「自分から消えるか。あれではまるで幽霊だ。そうは思わないかな」

「……ええ、そうね」

 ハヅキはぶらぶらと手首を振っていた。

 刀を手に、あたしたちは玄関まで戻ると元来た飛び石を辿った。これ程に大きな屋敷なのに、他の襖も、廊下を遮る引き戸も開きそうになかった。庭に出て正門まで向かう。植え込みに隠れたその場所に辿り着くのに、一、二分ではきかなかった。無闇矢鱈に広かった。

 正門は、これもこの邸宅に似合って立派だった。重々しく暗い焦げ茶色をした木造で、所々には飾りが彫り込まれていた。あたしとハヅキが並んで通ってもまだ余裕があった。こうも大きいと、神社か寺の門にでも張り合える。

「『國久』……」

「やや、白羽ではないのか」

「……表札よね、これが。あたしの、名字、かもしれない……」

 正門を気にしたのは、この表札を目当てにしていたから。こんな屋敷だから、普通はあるべき表札なんて無いかもしれないと思っていたけれど、果たして、あたしが期待した通りにそれは正門の脇に掲げられていた。

『國久』。これが、この屋敷の主の名字。住んでいた筈の、あたしの姓かもしれないもの。

 葉月は云っていた。此処は、あたしの家では無いと。ならばこの表札も、あたしの名前を表している訳では無いのだろうか。

 少なくとも、実感は湧かなかった。

 ――そして。

 正門の先、外が、無い。

 断崖だった。地面は正門の先へと少し続いて失せている。蒼い空の下は白っぽい、これも色彩の底。基調になった白に薄い水色やら紅やら黄緑やらが浮かんで流れている。霧か雲のようになって立ち込めていた。

「先は無しか。然しこれは凄い家、いや、邸宅だな。こんな場所が自分の家だって云うのに、忘れていたのかい」

「そうね」

「やれ、理由を訊いても?」

「……あたし、記憶が無いのよ。あたし以前のあたしの記憶が」

 俯いた先は幻覚染みている。然しそれが本質だ。この場所、この、陽の温かみから逃げた真昼のこの場所の真実だ。

「でもさっき思い出したわ。あたしが此処を知っている、此処と同じ景色の場所に居たんだって。まだわからないことだらけだけど、此処に居たことだけは確かだわ。

 訊き方が悪かったのね。此処が何処かは誰も知らなくても、あたしもあたしで此処が何処なのか、この家が何処の家なのか知らないから結局何も知らないけれど、これが何処なのかは、ハヅキ、知っているのね」

 ハヅキは断崖の手前にしゃがみ込んだ。足元に咲いた水色の野花をひとつ摘むと、断崖の底に向けて手を離す。パステル調の自然な色味が、微かに空に散っている。野花の行方は追えなかった。

 そうだね、とハヅキは頷いた。

「もう気がついているだろう。此処はどうも、いつもボクらがいる場所とは違う場所らしいんだ。旧校舎、美術室……準備室の奥の奥。それが此処のある場所だよ」

 左腕を手繰られる。

「行こう」

 そうする以外に続く先が無いコトを、あたしは理解していたか。

 色彩の断崖を――蹴っていた。

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