逢魔の瞳と人形少女/2

 その三日前の午後のこと。

 白羽薫は、無機質な、冷たいドアをノックした。

 返事はない。

 薫は小さく溜息を吐いた。慣れていても、病院は余り好きにはなれない。広さの割に狭苦しく、人の数の割にはもの寂しい。しかも些細な事で張り詰める。退屈だというのに、怯えている。

 病室のドアを静かに開けた。

 そこには一人の少女が眠っている。随所に巻かれた包帯が、彼女の負った傷の重さをうかがわせる。右眼のあたりも、ガーゼと包帯が隠していた。意識は戻ったと薫に連絡があったものの、患者本人は夢とうつつの狭間を、未だ、彷徨い続けているらしかった。

 実際にはこの少女、薄く取り戻した意識で、来客の気配を感じ取っていたのだったが。

 薫はしばらくの間、眠る少女を眺め続けた。薫の眼つきが悪くなる。見えないものを視ようとしているからだ。瞳が翠色を帯びても、陽の明るさに隠されて輝かない。

 六月末のことである。嵐の夜、海沿いの国道で、大規模な崖崩れがあった。幅数百メートルにわたって崩壊した崖は、折しも追突事故を起こして渋滞中だった車列を巻き込みながら、国道諸共、荒れた夜の海に呑み込まれた。発生から半日経って、一人の少女が意識不明の状態で救出された。それが彼女、神崎美優である。死者・行方不明者合わせて四九名。

 ――ということになっている。

 崖の上のとある邸宅が、未曽有の土砂災害の直前に火に包まれていたことも、犠牲者の大半が崖崩れに巻き込まれる前に死亡していたことも、一部始終を見ていた目撃者の存在も、崩壊したその場所の意味も、世間は知らない。まして、その災害が、ヒトと、ヒトならざるモノによって引き起こされた、いわば惨劇であったことなど知る由もなかった。

 数分かかって、薫は視界の中心に目当てのモノを捉えた。

 美優の心臓のあたり、蒼みがかったゆらめきがある。ソレは炎のようでもあり、そよ風に形を変える木陰のようでもあった。

 薫が眼を凝らしてやっと捉えたその蒼は、真水の中に垂らされた濃い塩水のように、細かなさざ波となって美優の周りに流れ出し、浸透している。薄く広く病室を満たし、外へと漂っている。

 勿論、これも常人のあずかり知るところではなかった。そもこれが視えるのは、尋常ならざるモノを映す眼の中でも更に異端の、薫のような霊能者に限られる。

 少女が、塞がれていない左眼を開けた。

 沈黙のままの凝視に、彼女は来客が静かに部屋を後にしたとばかり思っていたのだったが、果たして二人の視線がすれ違う。

 神崎美優の視たモノは――、

「と、り……?」

 鮮やかな緑色をした小鳥たちだった。

 雀くらいの大きさで、丸みを帯びた形をしている。頭の上を二羽が軽やかに旋回しており、もう一羽は来客の肩に留まっていた。

 美優は、自分が外にいるのだと錯覚しかけて、ベッドの温さと白い天井を認識する。自然に、ふと動かそうとした腕と脚は重く、固まっていた。遅れて、それが痛みだと理解し、自分のおかれた状況を思い出す。

 それでも、病室に小鳥たちはいた。相変わらず二羽が舞い、一羽は留まっている。

「やや、起こしてしまったか。失礼」

 薫は眼の力を緩めた。初対面なのに怖い顔をして睨みつけてしまっては失礼だと思いながら。

「気が付いたと聞いて来てみたんだけど、うん、良かった」

 そう云いながら薫は窓際に寄る。首に掛けていたネックレスを外すと、そこに置いた。細い金色のチェーンの通されたサイコロのようなそれには、各面に菱形の孔が空いている。

「外はもう真夏だね。今年はどこまで暑くなるのかな。聞いた話だと七月いっぱいはここにいるんだってね。大変だ」

 窓の外を確めると駐車場だった。病院の大きさ相応の広さがあり、ここまで乗って来た薫のミニワゴンもある。

 美優は、病室の中を自由に飛び回っている小鳥たちと、当たり前の顔をして喋くる見知らぬ来客の双方、交互に視線を向けていた。

「しかし顔色も良さそうで安心したよ、本当に――と、医者でもないのに適当なことを云うのは迂闊だったかな。でも安心したのは本当だからね。神崎美優ちゃん」

 薫の肩からもう一羽が飛び立った。ゆったりとしたペースで羽ばたきながら滑空し、床に舞い降りる。薫は全く意に介さない。

 出来るだけ柔和な口調を心がけて、薫は見舞いの言葉を口にする。

「さぞ辛かったろう。想像するに余りある。私も実は似たような経験をしたコトがあってね、まさに九死に一生を得たようなものだった。でも運が良かったのだろうね。学友の件は残念だったが、君は助かって、それだけは本当に良いことなんだ」

 最後は自分に言い聞かせるような口ぶりに変わっていた。薫は窓際から離れ、ベッドの上の少女へと向き直る。

「命あることは、手放しで良かったと云えることなんだから。学業の方も心配かもしれないけれど、四月からむこう、忙しかったろう。ひと月早い夏休みと思ってゆっくり休むと良い」 

 窓際のネックレスを薫の指がつつくと、緑の小鳥たちがその周りへと集まった。美優の方は黙ったまま、この奇妙な女の一挙一投足を観察していた。小鳥たちとは違って、女の方はしっかり現実味があるからだった。そうでなくては、ついつい小鳥たちを眼で追ってしまう。視界に収めるだけでも、美優の気分は悪くなりそうだった。

「じゃあ、私はこれで。また明日も来るから、何かあったら遠慮なく話して欲しい。力になれると思うからね」

 美優が黙ったままなのは、とある諦観によるものか、はたまた応えずとも一方的に喋り続けられたがための自然な成り行きだったか、最低限すら会話をする意思さえ彼女にはなかった。今の彼女にとって意識があることは痛みがあることと同義であり、己が身の上に降りかかった事象を思えば、誰かと関わろうとする気概すら失くす程に気落ちするのも当然だろう。

 帰り際、薫は、ああそうだ、とドアの前で振り返った。

「君、さっきから変なモノを視ていないかな。例えば、翠の小鳥とかね」

 至極たわいもない挨拶と同じような気軽さのまま、付け加えるようにして尋ねられて、美優は思わず起き上がろうと身体を揺する。しかし身体は思うように動かない。

「視ないフリをしてもいなくならないよ。だって、そこにいるんだから」

 驚きに固まる美優に見送られながら、薫はそのまま、それじゃあ、と病室から出て行った。


 病室に取り残された美優は、冴えてしまった眼のまま、瞼を閉じようとした。

 ――閉じようとしても、居心地は悪いままだった。

 ……あの女は、何と云っただろう。

 やむなく、美優は起きていた。意識を失くせない自身に苛立ちを覚えながら。

 緑色の小鳥は、消えるどころか、寧ろ数を増やしていた。窓際の小さな椢から、新たに二羽が顔を出したのである。結果として、病室には合わせて五羽の小鳥が羽ばたいていた。他にすることもなく、美優は小鳥たちを眼で追っていた。

 小鳥たちはさえずることも、微かな羽音もさせずに、気ままに病室を飛んでいる。その存在だけで異常だというのに、飛び方も異常だった。壁をすり抜けるのだ。壁に限らず、ベッドも、テーブルも。しばらく飛び回った後は、窓際の椢の、自分よりも小さな孔へと姿を消すのだった。

 巣箱のようだ、と美優は思った。奇妙な小鳥の、奇妙な巣箱。

 あの女について検温に来た看護師に美優が尋ねても、曖昧な答えしか返ってこなかった。看護師たちはあの女――白羽薫――を見ておらず、窓際のネックレスも見えていないようだった。小鳥たちに至っては、鼻先を掠めても知らない顔である。美優が伝えようにも、首を傾げるばかりである。

 ネックレスを手に取って確かめようにも届く範囲になく、けれどもそれら一連の存在を伝えようとするだけ無駄だと判断して、美優は、そのままに放置しておくことにした。飛び回る小鳥たちはやや落ち着きがないが、放っておいても悪さをしている訳ではなさそうだったからだった。ただ、そこにいるだけで。

 陽が落ちる頃には、既に美優の注意は小鳥たちに向けられていなかった。

 代わりに、この病室へ見舞いに訪れたらしい女について、彼女は考えていた――その女は、本当に実在しているのか、と。

 夢に見ただけだったのかもしれない、と。


 果たして、その夜は静かだった。神崎美優が意識を取り戻す前と同じように。

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