景色泡沫/6

 冷たい雨が降っていた。今日の雨は特別に冷たい。木陰に立って居てもフードは濡れて、髪と頬が冷たくなった。

 昼間はあんなに騒がしかった学校も、夜になれば、死んだように横たわる影でしか無い。此処に来た最初の日もそんな景色を垣間視た気がしたけれど、実際に見るとよりいっそう寂しく感じられる。

 冷たい雨はあまり好きではなさそうだ。いや、嫌いだ。この躰は冷えたところで問題無く、調子を悪くする訳でも無さそうだけれど、あたしそのものがこの冷たさをあまり得意としていないようだった。

 苦手、なのかもしれない。

 ……多分、思い出したからだ。

 頬を雨が伝う。重くなった服。

 ……葉月と会った日も、こんな冷たい雨だった。

 背負った刃の冷たさ。

 ……微睡のなかで視た景色でも、いつだって冷たい雨が降っていた。

 爪先にまで染みた、夜。

 思い出したから、思い出す。上書きされた記憶の中にあるから、それと似た刺激を受けるとそれを連想する。だから思い出す。だから苦手。

 あたしが求めていた、あたしが嫌っている過去。記憶。あたしだったものが持っていた記憶。息苦しい。首を絞められているかのよう。頭の中を探れば探る程、躰の立った地面が揺れる。雨音が反響する。一滴の雨粒がアスファルトにぶつかる音、ひと粒ひと粒が頭の中で喚きたてる。

 ……初めて、この刀を振った夜も、雨が降っていた。

 死した、生者――お前は何者だ。問い。喉が跳ねた。己は誰だ。答え。

 あたしが護るべきは、腕のなかで感じられたあのぬくもり、あの柔らかさ。

 闇に溶け込んだ無為の微睡ではあり得ない。蘇れば容赦無く頭の中で暴れ回る景色たちを、あの暴力的な悪夢たちを、何故あたしは求めようとする。

 冷たい雨、此処に有るのはたったそれだけ。

 夜になれば、息苦しさから解放される筈なのに。陽の熱なら失せてしまった方が、居心地好い筈なのに。

「どうして」

 なのにどうして、此処で待って居る。

 ありもしない左眼の傷痕をなぞって認識した。不知火のくれた景色とは違う。あたしは、この記憶を嫌悪している。これが、以前のあたしだったものだからだ。

 ――見上げれば、雲間から支えきれなかった月明かりと、

 ――冴えた頭が痛む。粟立つ肌は不吉な感触を纏う――

 ひとひらの、桃色の雨粒。

 密な気配。甘過ぎる花のにおい。左手の感触を確かめた。触れた雨粒が音を立てて蒸発する。冷たいのは嫌いだ。だから。

 斬れないなら焼き払うまで。今度こそ。

 だって、――たくて、堪らない。

「何故、逸る」

 瞬いた声。一瞬の明滅の裡に、背後の景色は反転していた。

 其の輝きは異物。静かな夜とは対照的。

 降りしきる桜の雨の中で、そのひとはあたしを待っていた。

「生きる為か。それとも護る為か。いいや、或いは」

 果たして其の場に、彼女は佇んでいた。

 蒼色の月明かりが、尋常ならざる輝きを煌々と放つ、かの夜桜を冷たく散らしている。花弁は地に落ちる前に空で霞と消えてゆく。

 声音は知っている。此処に居るのはこのひとしか在り得ない。どうしたものか袴姿である。暗闇に紛れて仔細には視えなかったけれど、恐らくは濃い藍色の。そして腰には一振りの太刀。長い髪は後ろで一つに束ねられていた。

 まさに、凛々しい、と形容するに相応しい立ち姿。

「そこで視ていろ」

 祗園はゆっくりと刀を抜く。しなやかに、流れるように。腰を落とし、上段に構えた。僅かに切っ先が傾ぐと、一歩。斜め上から振り下ろされた太刀が、再び一歩、翻って斬り上げられる。

 認識が追い付かなかった。斬った、と認識する前に桜の幹を斬っていた。たったひとつの引っ掛かりも残さず、呼吸をするのと同じくらい自然に、彼女は手にした刀を扱っていた。

 彼女と刀が一体になっている。いや、寧ろ、刀の延長に彼女があった。

 裂かれた桜の幹から赤色が噴き出した。動脈を斬られた生き物みたいに。けれども赤は躰を濡らさない。一滴の染みをも残さず消え失せる。まるで、最初からそんな赤は無かったみたいに。

 祗園の瞳が白く瞬いた気がした。いけない。その眼を視ては。そう思うより先に、視てしまった。

 ……動かない。

 止められている。あたしはこの場に立ちつくしたまま、止められている。

 そうだ、前にもこんなコトはあった。アレは……そう、いつだったか……そう、その筈。あった筈。なのに、記憶が逃げている。上手く思い出していない。あった気がする、のに、何があったのか具体的に思い起こせない。

 動けたところで何をしようとしているのだろう。ここから動いて、この霊刀で、この左手で、一体何をしようと云うのだろう。

 あの時はどうしたっけ。あの時? いつ。

 ――胡乱な――煙、霧、靄、霞、雨……暗くなる世界、体温を失くして……紅、朱、赤。己が白に映った赤。

 鮮やかな赤の只中に在って、彼女は見蕩れる程に優雅だった。

 それは、そう――紛う事の無いくらいにきまっていて――この場に居るこのひとが女のひとだとは思えないくらい、記憶にある彼女とは様変わりしていたのだ。ただ視ている場合では無かった。眺めるだけの為にこの場で待ち惚けていたので無いのだから。なのにあたしが動かず、ただじいっとその太刀筋に魅入っていたのは、きっとこの……暗示めいた躰と意識のズレのみに由来してはいなかった。

 動かない。動けないと意識するよりも先に、あたしはあたしが動かない事を選んでいた。それは意識する間も与えらず、息を潜めるように。

 だから、この呪縛めいた状態をどうにか脱しようと確かに思った時には、もう夜桜からの出血――のように視えてしまう、霊素の――ああ、どうして、これは、あたしは何を思って――枯れようとしていた、輝きは失せつつあった。彼女はあたしの喉元に刀の切っ先を突き付けている。

 あたしは棒立ちになっていた。

「思い出せ」

 淀みは無い。真っ直ぐに、あたしへ。

「お前は誰だ。思い出せ、お前は誰だ。思い出せ」

 刃は薄く、ほんの少しだけ、あたしに沈んだ。あたしの表面を、薄く、薄く、滑って沈む。首から胸元へ。か細い痛みは、けれど躰に打ち付ける雨よりも些細だ。

 ――白。生白い肌。つくりものめいた肌。黒。描かれた黒。流れる血。

「思い出せ。意識しろ。お前が、お前だけが思い出せ」

 流れ込み、あたしの認識を上書きしたそれは、平坦な意識だった。漂白されて無味無臭になった、空っぽ。声が響いていた。子供の声。無邪気な笑い声。

 ……遠い音。隔たった向こう側。薄く張られた透明な膜。カーテンのような。視線は重ならない。声は伝わらない。彼等は此方を見ていない。此方から彼等を見ているだけ。本当に見えているのだろうか。見ていることは確かなのか。

 回転した。高い陽。乾いた風。海の音。高台から眺めていた。

 ひとの眼。

 淡泊なまま、それらは総て空白染みていた。

 祗園の声は熱を帯びつつあった。

「ここでお前を殺したい。父も母も、何もかも総て奪っていった貴女を。お前では無い。お前では無い、貴女を」

 既に吐息がかかる程。自分の躰と思えないくらい、感覚が薄い。

 凪いでいる。変わるのは景色だけ。陽が沈む。星の瞬き。上った朝の光。広がる雲。雨。積もらない雪。広い庭だった。明るくなり、暗くなった。大人たちが数人いたけれど、それだけ。嵐の日が好きだった。風と雨が整った庭を引っ掻き回してくれるから。

 そんな事だけが、些細な楽しみだったのだ。

「だから云っている。思い出せ!」

 躰は眠っているかのように力を無くす。彼女は、これがニンゲンであるとはっきり知覚させられてしまうくらいの距離にまで迫っていた。

「だから視ている。だから助けている。だからお前は殺さない。死なせない。お前を殺せば、今度こそ総てを失くしてしまう」

 其の夜、月は確かに蒼かった。

「忘れさせてなるものか。思い出せ、思い出せ、思い出せ」

 蒼い夜は増えていた。月は蒼いモノらしい。今まではそう視えていなかっただけで、あのひとたちには悟られたくなかったけれど、余りにキレイだったから。

 刃はより深く、胸元を。

「お前は誰だ。貴女は何者だった。お前が犯した罪を知れ。与えられるべき其の罰を視ろ」

 呼び声と気が付いたのは、それの存在を知って暫くが経っていたのだった。

「宿した魂の正体を知れ。お前は誰だ!」

 めくるめく景色に世界が沈む。瞳に映った、それは。

「紗羅」

 色彩が、弾けた。


 ――紗羅。

 名前が告げられる。答えたのは紗羅ではない。その名前は、果たして、真っ当な意識を失いつつあったそのひとを、辛うじて白羽紗羅として現実に繋ぎ止めていた。

 澪の手元が狂う。理由は二つあった。ひとつは驚愕から。そしてもうひとつは、

「離れるんだ」

 澪の意思に反して動く彼女自身の身体によるものである。云われるがままに彼女は引き下がると、今まで紗羅へと突き付けていた刀を手から落とした。驚愕が戸惑いに変わり、すぐさま確信に変わる。自らが意識していない行動を、自らの身体がとっている。他者に操られている、と。

 糸が切れた人形のように崩れ落ちそうになった紗羅は、後ろから抱き留められた。

「どうして」

 澪の、やっとのことで口にした疑問がそれだった。

「どうして、此処に居られる」

 尋ねられた側は、腕の中で未だ意識の危うい紗羅の様子を第一に気に掛けながら、けれど涼やかに答えた。

「此処に居るからさ」

 津川葉月そのひとが、妖し光を瞳に宿してそこに居る――。

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