焔紅月/4


 薫が出て行くと、紗羅はひとり雑然とした書斎に残された。机の上の地図もそのままに、鞄ひとつを抱えて手早く仕事場へ行く彼女の様子は、何処かせわしない小鳥を思わせた。バイクの大きなエンジン音が地を這うと、すぐさま遠ざかっていく。さして騒がしくしていたわけでもないのに、屋敷のなかが虚ろなまでに静かになったようだった。庭の木にとまったクマゼミの声がけたたましく響いていた。頼まれた訳でも無く、紗羅は効きすぎた冷房を切った。

 ……夏の暑さは解る。けれど、暑さを感じない。

 袖口の焦げたパーカーは脱ぎ捨てられて作業台の上に放っておかれた。紗羅は半袖の、薄手で黒一色のシャツ姿になっていた。

 気怠い心持ちになって、彼女は固い寝台の上に寝ころんだ。この部屋でいちばん陽射しから遠い場所だった。強い陽はつくりモノの義体には眩しすぎる。眩暈のように感じられて苦手だった。

 ……薫曰く、気のせい、らしいけれど。

 生白い細腕を額の上に置いて瞼を閉じる。けれども、闇を確かなモノに感じない。落ち着きのない光が、暗いはずの視界の端々に瞬いている。

 応急処置として、ひと先ずは手首の関節とそれに連なる霊銀の骨とを、新しいそれに付け替えていた。そのぶんナイフは手首から掌へ、腕の内側へと滑って中身を切り開いていった。駄目になった骨を取り外し、新しい骨を埋め込む。白いシリコンのようなエクリクルムがそれまでの肉体と繋ぎ合わされて、切り開いた箇所と黒くなった皮膚には新しい皮膚が貼りつけられた。仕上げに、骨よりも太い金属の添え木と一緒に包帯が腕から掌かけてにきつく巻きつけられて、一週間は左腕を激しく使わないように、と薫は紗羅に厳命した。

 巻かれた包帯が、紗羅にはどことなく美優の顔に巻かれたそれと似通っているように思えた。

 それが口約束に終わるであろうことは、両者にとっての暗黙の了解だった。

「美優ならその霊素の持ち主の行方を辿れるかもしれない――ほら、今日も見舞いに行くんだろう、ならついでに持っていきなさいな」

 薫はそう云って、焦げ付いたエクリクルムを木の小箱に納めたのだった。

 頼りないのね、と紗羅が返すと、薫は含んだ笑みを浮かべて、

「ここに置いておくから、忘れないように」

 と小箱を紙袋に仕舞って霊刀の横に置いたのだった。そして、そのまま書斎を後にしている。その背中に投げられた「薫が持って行けば良いのに」との紗羅の言葉は、ドアを閉める音に遮られた。

 手首からは新しい金属とプラスチックのような、人工物のかすかな匂いがしている。それは血の匂いにも似ていながら、しかも、何か得体の知れない――何か新しい機械の類についてくる独特の匂いだった。今までとは違う部屋に入ったときに一瞬だけ感じる、何かそれまでとは違う空気の匂いと似ていた。

 屋敷は古く、広い。庭園付の洋館だが体積に比して少なすぎる住人では手入れが行き届かない。書斎にしてもそうだが、他の放置されたままになっている部屋には埃が積もり古めかしい黴の匂いがしていて、その散々たる様を呈している。庭の草花は何とは無しに季節感を持つ色合いも視えるものの、石の敷かれた路以外には雑草が生え放題になっている。洋館の壁は黒ずんでいてところどころ蔦に覆われ、洒落た窓は半分以上曇ったままになっている。

 二人と一体が住むには大袈裟すぎる、と紗羅は思った。二階の殆どは放置されるか薫の妖しげな物置と化しているし、雪――家事全般を押し付けられている薫の妹――の手の届く処も限られている。その雪にしても、朝早くには仕事へ行ってしまう。

 紗羅が棲むようになって、およそひと月。昼間には誰もいない。近くの家々もまた古びていて、ヒトの気配は疎らだった。桜庭市街から見離された郊外で、この屋敷はボウと建っている。――この屋敷もまた、認識が――視るヒトの認識が歪められて注目されないように出来ている。其処にあることは確かなのだが、確かにあるのだと意識しないと此処に在ると認識できない。そんな風に出来ている。紗羅と同じ、人形のような家なのだった。

 古時計が重苦しい音色を十二、打つ。

 相も変わらず蝉は騒がしい。陽は高く鋭い。紗羅は身動きすること無く、仰向けになって目を閉じたまま。

 ……誰も居ない夏の昼が過ぎていく。ドールハウス、だなんて呟いてみた。

 

 呟きが、彼女の拡散した意識を裡へと引き戻していく――。

 

 ……あたしは重苦しい躰の裡から、天井の模様を眺めている。

 退屈だけれど動けないものは仕方ない。陽が高くなればなるほど、躰の重みは増していく。陽射しを浴びるだなんてもってのほか、眩暈のせいで立っていられない。

 夕暮刻にでもなれば、また美優のお見舞いに行こう。昨日は見逃したけれど、あの部屋からの夕陽だけは、鮮烈なクセして柔らかい。

「紗羅ちゃんって云うんだ。可愛い名前だね」

 初めて言葉を交わした時も、夕暮刻だった。

 柔和な笑顔だった。可愛い、とあたしは美優と同じ音を口にした。その意味を知らないままに。

 ……いいえ、意味はわかっていた。けれどサラと云うあたしを示す単なる標識と、カワイイと云う音が頭のなかで繋がらない。単なる社交辞令と知っていても、それが解らない。

 自己紹介は美優が一方的に自分のことを話すだけで終わった。あたしを無視して美優が喋り続けたのではない。そんな無神経とは逆だった。あたしが何も話せなかったのだ。白羽紗羅だ、と名乗る以上に紹介する自己が無い。

 あたしは自然、聴き手に回る。初対面のときからそうだった。

「次にお見舞いに来るまでに、趣味、見つけてみたらどう? きっと毎日が楽しくなるよ」

 好きなものも趣味も無い、と困り顔のあたしに、美優はそんな宿題を出した。あたしはもっと困り顔になって尋ねた。どうして? と。

「だって――」

 だって、何だか哀しそうに視えたから。

 澄んだ声は優しかった。そのとき初めて、あたしは優しいと云う意味を感じたのだった。

「哀しい?」あたしはあたしの声を聞く。同じ言葉のはずなのに優しい感じはしなかった。むしろその逆に何も無いこと、虚ろなものを含んでいるように感じた。

 美優は、昨日も哀しいと云った。同じように澄んだ声で、優しく。あたしには真似の出来ない声色で。

 常に焼かれているようだった。望む望まざるにかかわらず、それ以外に知らないように思えた。もしかすると火を放つことも、それ以外何も持たないあの妖なりの世界との接しかたなのかもしれない。

 声も言葉も持たないソレが持つ、唯一のもの。それがあの熱。あの炎。

 哀しい。それはなんて哀しいことのように思えてしまうのだろう。

 けれど……けれど、それは……。

 あたしは寝台から身を起こした。喉の奥に何か詰まっているような気分だった。

 あの妖を狩りたい。斬りたい。絶対に。美優に哀しいと云わせるならば、あたしはあれを斬り捨てたい。

 ――とっくに。あの妖はあの熱で以てその意志をあたしに伝えていたのだ。

 ふと窓の外を見ると、陽射しが傾きかけていた。躰も軽くなっている。

 身を起こしてみる。気分が悪くなることも無かった。

 ……袖口の焦げたパーカーをもう一度着ようとも思えない。左腕に巻き付いた包帯と新しく埋め込まれた肉体――エクリクルム――に固められた左腕はやたらと動きにくい。無理に動かせば手首が折れてしまいそうだ。――いや、そもそも力がうまく入らない。

 左腕は重力に従うままにだらりとさせておくことにした。

「あのヤブ医者……」

 吐き捨てた抗議は、薫の耳に入ることも無い。もし本人の目の前で云ったところで開き直られるに決まっている。これでは霊刀も満足に抜けそうもなかった。腰に差すには長すぎるそれを持ち運ぶには、片手で直に持つか背負うかしか選択肢が無い。

 早く、斬りたい。今夜のうちにでも。

 霊刀は背負うだけ背負って、もし抜刀するならば無理矢理、左腕を働かせることにした。壊れたところで仕方がない、直し方が悪いのだから。

 上着を羽織るにも添木が邪魔をする。別にワケも無いのに、シャツ一枚で外に出ることには何となく抵抗があった。誰からも認識されないようにするにしても。

 霊刀を背負って、その隣に置いてあった紙袋を手に取った時、その中に可愛らしいデザインの財布があることに気が付いた。焦げたエクリクルムが納められた木箱の上に、ファンタジーな黒猫のデザインがあしらわれた財布。……きっと、薫のものでは無くて雪の趣味だ。一緒に入っている紙切れ――何の飾り気も無いメモ用紙には、荒っぽい字が書かれていた。

『偶には見舞いの品でも買ってやれ』

「……何なのかしら、まったく」

 何を買えば良いのかなんて知らない。けれど、不思議とくすぐったい心地がした。

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