焔紅月/3

 紗羅が帰るとその邸宅の家主は冷房の効いた散らかった書斎のなかで、化粧っ気の無いスーツ姿になり姿映しの鏡の前でダークブラウンの髪を束ねている最中だった。書類上、白羽紗羅とこの家主――白羽薫は親類、紗羅にとっての従姉と云うことになっている。

 紗羅の意識は、ほんの二ヶ月程前にこの書斎の固い寝台の上で覚醒した。白羽薫こそ、彼女をつくりモノの義体の裡に存在を押し込めた張本人である。この女性は、その意味では紗羅にとって母親のような存在とも云えるかもしれなかった。しかし母と云うには年齢的にも若すぎる。紗羅にとっては歳の離れた姉のような存在に思えていた。

「おかえり。どうした、顔色が優れないな」

 薫はそっけない態度で紗羅を出迎えた。顔色と云う割に、彼女は紗羅のほうをちらりと一瞥しただけに過ぎなかった。

「ちょっと――ね。妖を斬って来たの」

 紗羅は背負った霊刀を、書斎の真ん中に陣取る作業台の上に置いた。そしてその縁に腰掛ける。

 直接的な感覚を知覚以上のそれと認識出来ない紗羅には、この書斎以前の記憶が無い。紗羅と云う名前も自ら付けたものに過ぎなかった。自分が何者であるのか、そのことを紗羅も薫も知らないのである。紗羅には、確かに生身の人間であったという実感がある。そのせいで自らの身体の不完全さに不満を持っていたし、その感情はその身体をつくった薫との関係にも如実にあらわれていた。

「ふうん。その妖、余程不味かったようね。ちょうど出勤まで時間もあるし、聞こうか」

 不肖、紗羅はその妖のことを話した。面倒そうにしながらも事細かに伝えていく。その仔細を薫は自らの仕事机の向こうに腰かけ、腕組みをして聞いていた。

「君、随分と霊素が満ち足りていると思ったら……。相手の一部を取りこんだだけで、ゆうに三体分の霊素を補充しているなんて。

 ……なるほどね、君が遭遇したのは確かに放火魔の類なんじゃないか?」

 薫は事も無げにそう云って書類や小物で散乱した机の上を片付け始める。ちょっとした手悪さのようなものだった。

 生き延びる為に、斬る。紗羅が妖を狩りに行く大元の目的はそれだった。不完全な義体から漏れ出してしまう、生命力、即ち霊素の補充。物質では無いモノ。魂の原動力。生命は霊素を肉体に宿していて、妖は霊素そのものが絡まったモノ。紗羅は薫にそう教えられている。

「放火魔、ね。もうその人間は死んでしまっていたけれど、まだ続きそうよ」

 紗羅には、あの妖が腕を斬られたくらいで大人しくなるようには思えなかった。何となくそんな厭な感じを、闇に紛れていくあの焼死体のなかに視てとったのだった。

「この際人間はどうでも良いよ。気にすべきは放火魔の本質、君の腕を焦がした妖の方」

「どうでも良いって、薄情ね」

「そうじゃないとやってられないもの。何、歩いていた時から屍だったなら君が気に病むこともないじゃないか。

 しかし、妙だね」

 薫は書斎机の引き出しを開けて長い筒状に巻かれた紙を取り出す。

「妙?」

「君がその屍を見つけたのは、大通りのなかだったんだろう?」

 そう云いながら、その紙を机いっぱいに広げた。それは紗羅たちの住む桜庭市の詳細な地図だった。手近な本を地図の四隅に乗せて重石替わりにしていく。

「ええ、そうだったわ」

「ならどうして、その時に発火しなかったのか? どうしてそんな人の居ない処にまで出向く必要があった?」

「そんなこと」

「……そんなこと、とは君もなかなか薄情じゃないか。その放火魔こと妖が火を放つのは今夜の未遂を含めてきっと7件目だ。連続放火魔なんて世間じゃ煩く云われているが、魔もここに極まれり。しかしどれも死人が出ていない。倉庫やら廃屋やら、決まって無人の処ばかり」

「それがどうしたの?」

 不敵な笑み得意気に浮かべる薫を、紗羅は疎ましく思った。自分だけが気が付いた、と云わんばかりに光る目が苦手だった。学者然としていながら悪戯好きな少年のようなあどけなさの混じる不思議な女である。

「火遊びをしたい放火魔がヒトだったなら理由は単純明快。殺人と放火では罪の重さが違ってくるからね。他人の居なさそうな処を狙い、火をつけるところを見られないように行動する。まあ、大抵この手合いはいずれ死人を出してしまうのだけど。

 ところが妖の場合は、そんなヒトの決めた法なんかに縛られる必要も無い。憑依されている肉体の方が捕えられても、新しい憑依先を見つければ良いだけの話なんだから。そも、その肉体は既に死んでいるときた。なら、なおさら罪の重さなどその妖には無関係な筈よ?」

 ほら、と紗羅は薫に手招きされる。広げられた地図の上には赤色の蛍光ペンで小さくバツ印が幾つか付けられていた。その印は今まで薫が確認できた不審火の位置を示していた。

「人を殺さない妖、ね。でも死体は出ているのでしょう」

 妖は何処かへ消えたように思わせることが出来るが、人間の場合そうはいかない。現に紗羅に斬りかかられた青年の身体は、例え生命活動を停止していようとその場に残り続けているはずなのだった。死ねばその場から屍体は動かない。何ものかに動かされない限り。

「死体と云っても自殺体。しかも死因は焼死じゃなくて、薬物に首吊りに一酸化炭素中毒やら。薬物自殺ならまだしも、屋外で一酸化炭素中毒なんて一体どうするのか、って不思議がられてるだろうね。

 まあ今日ので放火の方法が分かったんだし、一歩前進だ」

 彼女たちは人死に対してドライな態度を崩さない。いちいち崩していては身が持たない、と云い訳するもその実、他人がどのようにして死んでいようと同情することは無い。

「死体か、その影に憑依してそれを操る。目的地に着いたら火を放つ。憑依先の霊素が無くなるか肉体として機能しなくなれば、他に憑依する。

 この繰り返しね。――吐気がするほど外道だわ」

 けれども、その姿勢は一貫して真っ直ぐである。紗羅の表情に僅かな険がさした。

「外道、ね。ヒトでは無いんだからその意識は無いと思うけど」

 楽し気な笑みを浮かべ続けている薫だったが、その声の抑揚は自然ときつくなっていた。

「でもやっている事は外道のそれよ」

「とも云うね」

「明日から追ってみるわ。まだその妖は生きているだろうから」

「……そうだなぁ、どのみち依頼は来ていたし。私で対処出来る相手でも無さそうだ。君が手こずる化け物なんか私には荷が重すぎる」

 何しろ、妖を狩ることそのものこそが彼女たちの生業である。最も表向きは、霊能者は霊能者を名乗らない。薫はごく普通な義肢のデザインと製作を実業にしていた。

「あら、来ていたの?」

 そうだったのなら先に云って欲しいと紗羅は思った。そして薫がこの手の話を必要以上に明かさないことも知っている。依頼が無くとも狩るはずだったことも。

「手に負えないから何とかしてくれ、なんて今朝がた電話が、ね」

「そう、なら丁度良かったじゃない。さっさと片づけるわ」

「あまり無茶して欲しくないんだけどな、消し炭になったら幾ら頑丈な君の義体でも死ぬんだからね」

「本望よ」

 吐き捨てるようにして、紗羅は云った。半ば本心だった。焼け死ぬくらいの熱に蠱惑的な魅力を感じずにはいられなかった。それは、うっすらと覚えている夢の続きに思いを巡らせるふわりとした気持と似ていた。

 薫はため息をついて、腕を直してあげる、と布団の無い長い机のようになっている寝台を示した。紗羅は素直にその云うことを聞いて横になると、パーカーから左腕だけを脱いで差し出した。それを診た薫は顔を歪めて舌打ちをする。

「何コレ」

「掴まれたって云ったでしょう」

 傍らの作業台から取り出された銀のナイフが、義体の手首をゆっくりと正確に切り開いていく。薫はこの焼け具合を視た時、最初から表面そのもの以上に内部の損傷が酷くなっていることを察知していた。左手首から先の動きがぎこちなく、紗羅が無意識のうちに傷を庇っていることを見抜いていたのだった。

「掴まれた、って……外のエクリクルムどころか中身の霊銀まで溶けてるじゃないか。一歩間違えれば芯まで焼かれていたぞ」

 手首のなかを視て薫はぼやく。霊義肢の皮膚と肉の代わりとなる物質『エクリクルム』は悉く炭になり、骨の代わりになる霊銀は融けて生身の肉体のような組織を侵食していた。

 さながら、生肉と金属の融合体。その正体は人工的な物質と、あらゆるモノに宿る魂、霊素が物質化したモノとの構築である。

「それくらいの加減はあたしがするわ」

「この死にたがり。熱いもの触れればすぐ引っ込めるのが普通だろうに……ほら見なさい、中の組織も神経までぐずぐずに……」

「お生憎様ね、エクリクルムとか云う紛いモノの身体だからそんなこと知らないのよ」

「よくもまぁ他人事みたいに、まったく。辛うじて動くか動かないか、その瀬戸際まで焼かれているんだけど」

「でも動いたわ」

 痛みを真っ当なそれとして感じない紗羅は、眉ひとつ動かさないままに自分の手首の内側を見据える。

「無理矢理なら動くことも、そりゃあ出来るのだろうけれど……このまま放置すれば明日にでも君の左腕は焼け落ちるだろうな」

 その手首の内側で僅かにまだ火が燻っているのを薫は見た。真っ当な火では無く霊素を火種とするそれは未だに消えていないのだった。取り除かない限り、周囲の霊素を際限無く燃やし続ける妖の火。疑似的に肉体となっている霊義肢内の器官もその本質は霊素に過ぎない。放置し続ければ紗羅は内側から焼かれて灰になっていただろうと薫は推測しながら、燻る器官――肉片の「ような」モノ、それを支え動くようにするための金属の骨とその部品――を、細いドライバーとナイフ、ピンセットを駆使して器用に取り除いていく。

「また付けてくれるのでしょう?」

「簡単に云うな、莫迦。その身体は貴重品の塊なんだから……代えがいつも効くわけが無いと良く覚えておきなさい」

「ええ。きっと、ね」

 薫は呆れた様子で、これではどちらが外道か解らない、とぼやいた。それに応える気は紗羅に起きなかった。

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