焔紅月/2
本来の目的地である綾川病院に白羽紗羅が着いたのは、夜の八時も回ったところだった。一通りの科が揃い入院患者も三桁を下らないこの大きな病院も、平日の夜遅くとなるとやはり人気が失せている。診療時間もとっくに過ぎているから、ロビーも廊下も最低限の明かりしか点っていない。院内は静謐と昏闇に包まれている。
特に受付を済ませる訳でもなく、誰からも引き止められることもないまま、紗羅は静かにB棟の、三二六号室を目指した。その間にすれ違う人はいなかったが、紗羅の瞳には幾体かの異形――
その『妖』と呼ばれる異形は、通常、ヒトの目には映らないモノである。
気味は悪いが害意を持つ妖はいない、とその赤色の瞳で感じ取った紗羅は、特に気に留めることも無く目的の病室へ歩を進めた。病院には妖が集まりやすい。けれど妖が病人に悪さをすることは滅多に無い。
さっきのアレは特別に凶悪だった、と彼女は思考を巡らす。何しろ、屍体が歩かされているから跡をつけてみると「当たり」だったのだから。屍体に憑りついていたモノの害意なら、数メートル離れていてもはっきりと認識することができた。アレは、何かを燃やそうとしている。恐らくは最近続く不審火の元凶。そう察した。燃やすことそのものに手慣れている感じを受けたのだった。ともあれ、何がどうなってあの妖にその害意が宿っているのか、あの焼死体は何者なのか、と云うところまでは見当もつかない。ヒトのカタチをしているだけなのか、そもそもヒトなのか。
……誰にも悟られることの無いまま、突如として火の手のあがる怪現象。発火現象に限らず、およそこの手の騒ぎの原因は妖にある。屍を動かすこともある。憑依して精神を操り、錯乱させる妖もいる。しかしそのような悪意をもつ妖は少数派だ。多くは誰にも気が付かれることなく、ただ其処に居て、そしていつの間にか消えていく……。
目当ての病室のドアの向こうも明かりは無く暗かった。その中、ひとりの少女がその長い黒髪に青白い月光を流し、ベッドに座って窓の外を眺めている。
「今日は来てくれないんだと思ってた」
振り返らないまま、澄み渡った声で、その少女は紗羅を出迎えた。
「ええ。遅くなってごめんなさい、美優。少し寄り道をしていたから」
紗羅は応えながらその傍の椅子に腰かける。その少女には顔の右半分、右眼のあたりに包帯が巻かれていた。左眼も閉じている。彼女は何も見てはいない。ただ『視て』――認識して――そこに居る。紗羅のことも当たり前のように視ることが出来る。
彼女もまた紗羅と同じ、霊能者である。
腰かけた途端、美優と呼ばれた少女がほんの少しだけ跳ね上がるようにして振り向いた。
「紗羅ちゃん、その腕――!」
紗羅の左手首の傷を視て、美優はその痛ましさに絶句する。
「……あら、やっぱり気にしちゃうかしら」
その傷を負った当の本人はそう云って肩をすくめた。少しも気に留めていない風に平気な顔をしている。
「どうしたの、それ」
「ちょっと、ね」
「酷い怪我してるじゃない……。ちょっと、じゃないよ」
「怪我じゃないわ。ちょっと壊れてしまっただけ」
生身じゃないんだから、なんて言葉を云いかけて紗羅は堪える。彼女の自らを省みない振る舞いに大抵、美優は酷く心配する。生身かどうかなんて関係無いと何度も美優は紗羅に云っていた。
事実、白羽紗羅は生身の人間では無かった。ヒトの形をしたヒトならざるモノ。元々はヒトだったモノ。
彼女は人工的に創られた身体で生きている。さながら自分の意思を持った人形のように。容姿は紗羅自身が自らに投影した人としての姿に過ぎない。ちょうど、誰もが服を纏ってその身体を着飾るように。
「それでも、そんな」
「良いの。あたしは頑丈に出来てるんだから。帰ったら薫に直してもらうわ。それにこんなの、焦げてるだけよ」
彼女は少女の姿を纏う人形である。或る霊能者によって創られた身体に魂を宿した、精工で緻密なヒトそのものの形『全身霊義肢』。傷を負えば「直す」。例え手首を焦がされようと彼女はその傷に苦しまない。
「でも、それって」
ただ痛いだけ、たったそれだけのこと……。そう思って人形は微笑みながら肩をすくめて視せた。動きも細やかな表情も人形のそれとはわからないまま、周囲のひとたちは見る。そう認識させておけば人形も人間も変わらないのだった。
美優は口をつぐむ。
「これだけは訊かせて――何と遭ったの」
紗羅は事の顛末をかいつまんで美優に話した。ただし、わざと左腕を掴ませたことは云わないでおいた。左腕くらいなら別に良い、くれてやるからその代わりに本体を丸ごと引っ張りだしてやろう、だなんて考えは美優を余計に心配させるだけだと紗羅には思えた。
美優は始終、口を挟むこと無くその話を聞いた。屍が歩いて火を着けると云う突飛でおぞましい話も彼女たちにとっては至極真っ当でありふれた話だった。
「何だろう、哀しい、ね。その妖は」
美優は少し考えてからそう返した。
「哀しい……?」
「うん。何となくなんだけど。だって」
また美優は言葉を切る。いつの間にか彼女の瞳に薄い水色が燈っていた。その瞳は尋常ならざるモノを映す『霊眼』――妖を、そしてそれ以上の何かをも捉えてしまう瞳。僅かな霊素からでも、その持ち主を探り当てる眼。紗羅の左手をとって両手で優しく包んだ。妖が焼き焦がしたその傷から、その妖をより確かなものとして視るために。
吐息すら許されない静寂。
紗羅の瞳の赤さが揺らいだ。その赤さこそ、紗羅の霊眼である。
足をつける床が傾いだ――気がした。
自分の手を握る少女の輪郭がぼやけた――気がした。
……熱い。
月の光はとても冷たいのに、触れる手はとても暖かいのに。
熱を帯びないあたしの身体が、芯から熱い。
ここはとても暗いのに、眩しい、酷く、酷く眩しい。
眼を開けていられない、空気は何処にも無い。
その赤色が狂おしい、この熱が愛しい。
もっと熱く、もっと確かに熱く熱く。
「――紗羅ちゃん!」
……あたしは。
「紗羅ちゃん!」
――揺さぶられている。
ずっと止めていた息を、思い出したかのように紗羅は吸い込む。熱は両肩にあてがわれた美優の手以外を彼女は感じ得なかった。
「紗羅ちゃんっ!」
彼女の焦点が、心配そうにのぞき込む美優の顔にぴたりと合った。その瞳の水色は既に消えていた。
「あ……」
声が出ることを確かめてから、紗羅は今自分の居る場所を思い出した。急に冷えるような感じに襲われて身を震わせようとして、うまく身体が動かなかった。ようやくといった風にして彼女は美優の腕をゆっくりと引き離した。
美優もまた大きく息を吐いて目を伏せた。
「ごめんね、紗羅ちゃん。いつの間にか良くない何かを視せてしまっていたみたい」
「大丈夫よ。ちょっと驚いてしまっただけだから」
妖につけられた傷に触れられて幻を視た時間はゆうに数十秒に及んでいた。その間、紗羅は身じろぎひとつすることなく茫然自失としていたのである。その傷に触れた美優も同じような幻を視たような気がしていたが、しかしそれが今の自分の居る場所ではないとはっきりとわかっていた。夢のなかで自分が今眠っていて夢をみているのだと認識しているかのようにして、その熱さと赤さを感じていた。
けれど紗羅は夢とうつつの区別が曖昧になっていた。
「あたしは……何を視たの」
紗羅は吐気を催すほどのおぞましさに身震いが止まらなかった。それ程に彼女の恐怖に訴えかける幻だった。彼女独りでは到底感じ得ない、実感を伴う五感とそれに追随する感情は、彼女の乾ききった心に突如として押し寄せた大きな波に、そして濁流となってその心を呑み込んだのだった。
その様子を見て美優は、自らの視ようとしたモノが彼女を酷く恐れさせ苦しめたことそれ自体を苦しく思った。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。私にも、うまく理解出来なかったの……」
余りにも混乱した幻だった。膨大な意志の流れが無理矢理、頭のなかに入り込んで掻き乱していった為に、直ちに理解出来なかった。それはヒト一人分がもつそれを上回るくらいの意志の塊だった。
「とても――暑かった気がしたわ。いいえ、実際に暑かった。とても」
一言ずつ紡ぐようにして紗羅は云った。美優はうなずいて返した。
「まるで焼かれているかのような……そんな感じだったよね」
「ええ、火の中にいるみたいだった」
「――苦しかった?」
「……そうね。とても苦しくて、怖かった」
「酷いことしちゃった……私……」
否定されようとも、確かに苦しかったのだと云う確信を美優は持っている。それでも訊かずにはいられなかった。霊眼を使って妖の痕跡を探ると云うことは、手探りで暗闇のなかを進むことと似ていた。
「良いのよ、悪意があってしたわけじゃないのだから。
でも、幸せも感じたの。焼かれながら幸せだなんて不思議だけど」
そう云って紗羅は少しだけ顔をほころばせる。
それは矛盾している感情にも思えたが、けれどそれ以外の言葉を見つけられなかったのだった。美優も全く同じことを感じていた。
「きっとあれが今日、紗羅ちゃんの腕を焼いた妖の内側。
……常にあの苦しみの中に身を委ねている妖」
「だから、哀しい、なんて」
「そう……。私にはその苦しみを抱えて、そのままでしかいられないこと、例え幸せでもそれは苦痛で、それ以外の選択肢が無いことそのものが哀しいと思えて……」
左手首は今も少しだけ焦げ続けている。それは決して消えることの無い苦悶の烙印だった。
その後、二人は途切れ途切れに話続けた。その妖の話から拡散して、美優は紗羅に今日見かけた妖について話した。毛むくじゃらな小動物の姿をしたその妖は、いつもの看護師に憑いてこの部屋に入ってきた。サッカーボールくらいの大きさのソレは人の足もとを飛び跳ねていて、眼のようなものをその長くて赤茶けた体毛から見え隠れさせていた。その様子を、さながらとても可愛いペットを見かけたかのようにして、ぽつりぽつりと紗羅に聞かせるのだった。紗羅には妖を可愛いと積極的に思ったことは無いが、美優の語る妖の憎めなさに、少しだけこわばった心がほぐれされていった。美優はやがて口数を減らしていき、その言葉は静かな寝息に代わった。
紗羅は、眠る必要が無かった。から恐ろしい幻を視て疲れていたけれども、彼女は眠ることが出来なかった。眠ることで疲れと苦しみから逃げることが、その生身の人ならざる義体では出来なかったのだった。そして、そのことには既に慣れてしまっている。何事も忘れることが出来ないと云うこと、風化しないと云うこと、即ちあらゆる事象が常に連なっている現実の記録――その、認識の巨大な質量を内包して、現実の恒常性の延長に存在するつくりモノの身体に、気が付けば生きていたのだから。
青白い闇に照らされた病室のなか、紗羅は美優の人形のような真っ白に整いきった顔立ちを見守った。人形のようではあったが、その身体は紛れもなく生身のそれで、彼女はゆったりと眠っていた。美優の顔の右半分を覆う痛々しい包帯も、それが紗羅の受けた黒焦げの傷より生々しい傷痕を隠していると云うのに、それすらも美しく紗羅には感じられた。
窓の外、空が薄紅に染まりはじめた頃、紗羅は音もなく病室を後にした。
その夜明けの妖は大人しいものだった。どの妖もさほど、何を思うこともなく只揺蕩っているだけだった。毛むくじゃらな小動物の姿は見えないまま、紗羅は病院を後にした。
人の居ない、閑散とした明け方の街を歩く。屍体が歩いている気配はしない。もしソレの気配とすれ違っていれば、紗羅は一息つくこともないままに背負った霊刀を抜いていただろう。彼女にとって、その妖に何の悲しみがあれどそれを気に病むことは無かった。……ただ、狩れば……狩れば良いだけ、斬れば。そう思う度に、あの熱さが不意に蘇っては不快になった。
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