妖月 -アヤカシヅキ-

四葉美亜

1.焔紅月

焔紅月/1

 朱の陽が、真っ白な少女の肌を照らした。

 分厚い黒雲の切れ間から現れた夕陽が、息苦しいほど湿気を帯びたビルの合間に容赦無く照り付ける。

 風は無い。真夏のはじまりを告げる、七月最後の暑い夕暮れだった。

 けれど、その鮮烈な陽射しが少女を焼くことは無い。その朱は彼女にとって優しい朱だった。眼を細めることも、汗のひとつを流すことも知らない。

 少女――白羽紗羅は黒一色のパーカーとスキニーに身を包んでフードを被り、黒い鞘に納めた日本刀を左肩から右腰にかけて背負っている。長さは背丈の三分の二ほどあった。

 道行く人たちは、誰も彼女に注目しない。見向きもしない。同じくらいの年恰好をした制服姿の高校生たちがすれ違う。自転車に乗った買い物帰りの女性が彼女を追い越していく。近くに止まったタクシーからは、やつれた老人が出てくる。

 抜き身でなくとも日本刀。そんなものを背負っているのだから、その真贋は問わずしても少しばかりは視線を集めそうなものなのに、誰ひとりとしてその刀に気を止めることは無い。そして、それを背負う少女にも。

 見えてはいる。足音もしている。すれ違ってもいるし追い越してもいる。影も黒々と伸びている。白羽紗羅は確かに其処に存在している。

 しかし、“視え”ないのだった。

 少女は、自らの周囲の認識を歪めて、其処に在る。誰の注目も受けることも、何の目に留まることも無いように、夏の夕暮れの喧騒に紛れ込んでいるのである。

 彼女のような存在は霊能者と呼ばれる。なかでもひと際、紗羅は異様な性質を持っている。

 ――誰そ彼は。

 ビルとビルとの合間、鋼鉄の狭間で、影はその色をより濃くしていく。コツ、コツ、と少女の小さな靴音が甲高く響く。ひとつふたつと路地に入るたびに人通りも消えていく。夏の陽の暑さが消えて、濁った水溜りがそこかしこに残っている。

 少女は、とある影をひとつ追っている。少しだけ距離をとりながら。その影の歩みは、踏み出すごとにかすかに揺らぐ。その影の持ち主は少女のように異様なものではない。何処にでもいそうな青年である。しかし、少女の眼は彼の影を捉えて離さない。

 やがて陽が落ちる。再び、黒雲が重く空を覆った。夜の帳が落ちて、伸びていた二つの影が、周囲の暗がりに溶け込んでいく。幾本も細い路地を抜けた先には、彼女たち以外に誰もいない。少しだけ視界の開けた、空き地と廃ビル、それから古びたアパート、くすんだショーウインドウに佇むマネキンたち。人家の明かりは無く、ただ黄ばんだ街灯がちらちらと瞬いているだけ。

 青年はふと思い出したようにしてその不確かな歩みを止めた。その眼は虚ろに、錆と泥とで薄汚れた鉄筋コンクリートの廃屋を映した。

 彼の影がひとりでに揺らめいた。

 ――紗羅は背負った鞘を左手で握る。

 ――影が、一歩を踏み出す。ソレに釣られるようにして青年が廃屋の錆び付いた扉を押す。影が先に動き、その後にヒトが動く。ほんの僅かなズレ、揺らめき。その影からもうひとつ、うっすらと人影が起き上がって――。

 その刹那、紗羅は地を蹴った。その一歩は真っ直ぐな跳躍。風圧で脱げたフードが、短い黒髪と赤い瞳を露わにする。

 抜刀。

 白刃が、音も無く影の首を斬り抜けた。

 青年が風に吹かれたかのように崩れ落ちる。刃は影のみを捉え、彼に傷は無い。青年はそこに立っていられなくなっただけだった。歩いていた、扉を押して廃屋へ入ろうとした、そしてその場に立っている理由すら失って倒れ伏したのである。

 既に彼は死体だった。歩いている時からずっと。影に歩かされていた死体。

 斬り裂かれた影の首が薄靄のようになって霧散する。その妖しげな靄は、今し方斬り抜けた紗羅の刀にまとわりついて消えていく。紗羅はソレを斬りはらうかのようにして、刀で空を斬る。

 首から上を無くした影は、それでも紗羅の背後に佇んでいた。そして、影の胸のあたりから、黒々として細長いモノが突き出る。影のように揺らめくこともないソレは、真っ黒な腕。影よりも黒い、焼け焦げた腕――。

 その腕が、背後から紗羅の左手首を掴んだ。途端、掴まれた手首が尋常では無い熱を帯びる。黒い腕がところどころ、ひび割れるかのようにして赤熱する。掴まれた少女の手首に、その赤色が燃え移った。

 しかし少女は冷静だった。

 自然発火する程の熱を帯びて焼ける左手首の感触を無視して、思い切り左腕を振り上げる。影から伸びた黒い腕が引き伸ばされた。その腕に引き摺られるようにして揺らめく影から腕が伸び、同じく焼け焦げた肩が、続いて頭が現れる。そのまま、掴んでいるその腕の肘から先を、刀で容易く断ち斬った。

 そのまま紗羅は身を翻して、素早くその焼死体に斬りつける。その刃は醜い頭部を僅かに逸れて、腕を付け根から斬り落とした。腕を断ち斬られたソレは落ち窪んだ眼底を彼女に向けながら、既にその形を失いつつある影の裡へと素早く溶け込んでいく。

 彼女は無表情のまま刀を両手で握り直すと、踏み込みながらその影へと鋭く突きを放つ――が、手応えは無い。

 影は夕闇に混ざるように消えていった。切断されて転がった黒い腕も、手首を掴んだままの黒い左手も、もともとはそこに無かったかのようにして霧散していく。一度目よりも黒ずんだその靄は焼け付いた灰のようになって、彼女の握る刀へと消えていく。

 寂れた廃屋の前に残ったのは、左手首を焦がした少女と、既に瞳孔が開いたままになっている青年だけだった。

 紗羅は刀を背負った鞘に納めると、フードを被り直してほんの少しだけ舌打ちをした。

 ――逃げられた。せっかく左腕を掴ませてやったと云うのに。

 焼かれて表面が炭化した左手首からは煙が出ている。パーカーの袖口も焼け焦げてしまっていた。焼けた肉とも金属ともプラスチックともつかない、得体の知れない不快で甘い臭いが漂っていた。そのまま左手を閉じて開く動作を何度か繰り返した。ごく自然な手の動きをしている。

 そうして彼女は、この服気に入っていたのにな、と呟く。どこか寂し気で物憂げな顔をして、彼女は元来た道をとって返した。

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