2.微睡の白

微睡の白/1

 今夜の月はやけに眩しかった。

 半月も少し欠けてきたくらいのかたちをしていた。その月が中天も過ぎようとした辺りになって、あたしはいつもと同じように立ち上がる。

 美優は静かな寝息をたてていた。ここに見舞いにくるのも今日で最後。そう思うと微妙に、この味気ない白い病室も名残惜しく思えてくるから不思議だ。誰も望んで入院するはずもないし、そもそも見舞いなんて最初からする必要がないほうが良いに決まっているのに、暫く月日を経てしまうとその分の時間が、こんな病室にも積み重なっているみたい。

 ――今夜で、最後。

 夜の変化を偽の肌が鋭敏に感じ取る。月の光は優しく霊素に満ち満ちている。空気は密に吸いついてくるようで、それでいて爽やかだ。

 視界が、一日の内で最もクリアになる刻。

「……来たのね」

 わざわざ大きく息を吸い込む。窓から見下ろす駐車場では、蒼い霊素の靄が絡み合って一つの異形が生じつつあった。蠍……だろうか、形は。けれど大きさは車と同じくらいある。赤茶けた外骨格が少しずつ露わになってゆく。何かに憑依しているような様子はない。

 ソレはいつも通りにやってきた。あたしはいつも通りの対処するだけだ。

 相変わらず、気味の悪い姿をしていて――美優の霊素目当てで来る妖は決まって、視ているだけで不愉快にさせてくれる。

 音を立てないよう、部屋を出る。寝静まった病棟の廊下は、けれど騒がしい。妖たちが盛んに漂ったり歩き回ったりしていて、時折不自然な音も聞こえてくる。音のする方を視ると、ひとりでに病室のドアがのんびりと開閉を繰り返している。窓の外から視線を感じるけれど、そもそもこの廊下は三階にある。エントランスまで来るとエレベーターの扉が勝手に開いた。明々としたエレベーターの中には誰も居ない。ありがたく使うことにして、一階まで降りる。

 丑三つ刻。

多くの人間たちが眠るこの時間帯は、妖たちにとって最も冴え冴えする一時だ。

 病院の外には誰も――ヒトは――いなかった。温い夏の夜風、時間にそぐわない蝉の声。そんななか、あたしは蠍のような異形に向かって、背中の霊刀を抜いて対峙する。すっかりそこら中の霊素を取りこんでしまったのか、どことなく膨れて視えてしまう。小さな目は、けれど蟹と云うより蜘蛛のそれだ。一対ではなく、ちいさな粒のような目が、あたしを見据えている。

 ……まるで、待ち受けていたかのよう。美優では無くあたし自身を。

 そう思わせる程に、この妖は動じていない。あたしに対して無関心な妖は数多いが、それは大体美優の方に惹きつけられているからだ。あたしが斬りつけてようやくこちらに注意を向ける、その程度の存在なのだ、このあたしは。

 なのに、この蠍は最初からこちらを見つめている。

 ……考えすぎかしら。それとも。

 そう思うのとどちらが早かったか、次の瞬間あたしの躰は横に飛んでいる。先ほどまで立っていた場所に蠍の長い尾が突き立っていた。地面を抉っているように視えて、その実、駐車場には傷ひとつついていない。憑依しているわけでも無い妖は概ね、霊素にのみ干渉する。物質では無く、いわば魂の方を傷つける。

 さしずめ、魂を貫く銛のような……そんなイメージ。認識するよりも早く、その銛があたしの居た場所を抉るあたり、この妖もまた認識の歪みの中に潜んでいるのだろう。

 よくもまあ、こんなに飢えた妖もいるものだ。毎晩毎晩、カタチは違えど闇から出で来る異形たち。揃いも揃って――猛っている。

 続けざまに、着地したあたしめがけて大振りの爪が襲い掛かってくる。真正面から来たソレを、あたしは必要最低限、受け流すような動きで躱す。あたしの細い胴体程度ならゆうに切断してしまえそうなその爪に向けて、握った刀を滑らせる。ぬるりとした感触が、妖を斬ったことを右腕に伝える。

 ……違う、斬ってはいない。むしろ斬らされた。

 斬り落とされた妖の爪が、霊素の霧のようになって霊刀にまとわりつく。同時に、ぐらあ、と地面が傾いだ。傾いではいない。傾いだように感じてしまっただけだ。

 ――斬られた妖と、眼が遭う。

 あたしは射すくめられたように、その場から動けなくなる。そんな気に襲われる。

 ――動けない、そもそも動いてはならない。動く必要も無い。この場から動くことができない。

 ……認識が歪められたのね、動けないわけが無いのに。

 意識と認識が酷く乖離してしまっている。脚は俊敏に動くし、跳ねまわることも出来る。知覚できる空間もあたしが動くに充分すぎる程の広さがある。あたしの動きを制約するモノは無い。

 認識と現実との間に、どうしようも無い程の断絶がある。

 ――動けない、だからその場に立ちすくむしか無い。脚の裏と地面が一体となって離さない。そうだ、先の一撃であたしの脚は貫かれたのだ。だから動くだけの能力を失って――。

 現実と思考との隔たりは大きくなる一方だ。そしてそんな二つの認識を同時に抱いてしまえるあたり、あたしは本当に不気味な存在なのだろう。

 嘘の現実、暗示の妄想。そんなモノがあたしの認識を侵食することも無かった。

 アスファルトをぐい、と力を込めて蹴り上げる。

 ――動けなくなったあたしを地面に縫い止めようと、妖の尾が高々と掲げられる。

 動けないなら、それも良い。動かないのと動けないの、そのどちらでも別に構わない。妖は眼前の獲物めがけてその鋭い尾を突き立てた――ように認識した。

 其処には既に、あたしは居ない。嘘だと解っている認識に、あたしが嘘を上書きして送り返しただけに過ぎない。

 本当のあたしは、妖の頭部に霊刀を振り下ろしているところだった。間近で視ると蠍は何とも間の抜けた貌つきをしているように思えた。頭部を縦一直線に斬り裂くと、妖の眼が漸く、すぐ眼の前にいるあたしを捉えた。捉えようと既に手遅れだと云うのに。

 再度跳躍して妖の認識の外に逃げたあたしは、のたうち回る蠍の妖を斬り刻んでいく。しゃにむに振り回される尾を斬り落とし、残る爪も両断する。ほどけた妖の霊素が霊刀を通してあたしの躰に吸収されていくのがわかった。世界がぐらり、ゆらり、と大波に浚われていく。地を蹴る脚は、地面に対して六〇度程の傾斜がついてしまっている。

 けれどその認識は、ただの幻覚だ。

 霊素を取りこめば取り込むほど、その幻覚が、さながら酔いの回るようにしてあたしの認識を揺さぶってくる。その認識は全て嘘、認識に干渉する毒。

 しつこく蠢く蠍の背に飛び掛かると、霊刀を突き立てて左手に力を込める。

「――燃えろ」

 左手首が熱されたかのように赤味を帯びると、霊刀に鈍い朱が差した。血では無く、かつてあたしを焦がしたことのある焔の色そのものだ。左手で直接触れながら突き刺した霊刀を引き抜いて飛び退く。

 焼いてしまえば、霊素を自らの躰に取りこむことも出来ない。けれどこんな、認識を狂わせる毒のような霊素ならもうたくさんだ。後は焼けてしまえば良い。殊、相手を完全に消し去ってしまうことに関して、この方法より優れたモノもない。

 音も無く、蒼白い焔が妖の刀傷から噴き出した。霊素のみを焦がす妖の焔。煙も、一点の焦げ付きも許さない、静かで烈しい焔が妖を包んで蕩けさせてゆく。

 あたしは霊刀を鞘に納めた。焔に包まれた蠍の妖は、すぐにその躰を崩して消え去ってゆく。世界の傾きが徐々に正常なそれに戻っていった。

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