景色泡沫/5

当日は、想像以上に騒がしい。階下から時折悲鳴と笑い声が聞こえて来る。

 屋上、こっそり出来た日陰に座っていた。真由美と朱莉と、美優、連れて来られたあたし。騒ぎの苦手な四人が、ほんのちょっとした隙間の特等席へ避難してお昼にしている。

 階下の一組の教室には暗幕が張られている。造られた暗闇の中で、人工的に飾られた幽霊たちが待ち受けているのだ。幽霊の類を怖がっておきながら、あえて真昼から夜の異形たちを求めるなんて趣味、あたしには良く解らない。

「誰が云い出したの?」

 美優から貰ったミニトマトが、口の中で酸っぱく弾ける。

 何をどう間違えたのか、浜風祭一年一組の出し物はお化け屋敷だった。いつもの教室は今日限りのアトラクションと化している。

「誰だったかな、朱莉が賛成したのは確かだったけど」

 云いながら、真由美は玉子サンドを頬張った。

「私だけじゃないよ。真由っちも手を挙げた……気がする」

 話を振られた朱莉は必死に口を尖らせる。

「うっせ。あたしが賛成しなくても同じだったろ。ホラーとか苦手なんだがなあ」

「私は良いと思うよ、お化け屋敷。昨日入れてもらって楽しかったし。ね、紗羅ちゃん」

 美優から同意を求められる。

「そう、ね」

 微妙、と云うのがあたしの偽らざる感想なのだけれど、この場には必要無いんだろう。

 一組の生徒でありながら、殆ど関わっていられなかったあたしたち――少なくとも美優は『観客』としてはぴったりだった。

 真っ暗な廃屋の中を懐中電灯を頼りにして慎重に進む――と云うのが基本的なコンセプトらしい。暗闇には慣れ過ぎたあたしにとっては、大体どんな仕掛けがあるのか、黒子やらお化けの仮装をした人が何処で待ち受けているのか、なんてのは手に取るように把握出来てしまうから大して驚きもしなかったけれど、美優はきゃあきゃあ悲鳴を上げながらあたしの腕にしがみついて、なのに楽しめていたらしい。

「白羽、さんもお化け苦手……」

 尋ねているのか断定しているのか、朱莉の口調は片言めいていて今一つ要領を得ない。

「あんたねぇ、もごもごしてて滑舌悪いんだからせめてはっきり喋んなよ。ほら口開けて。開いてないぞ」

「えぇでも……」

「そうかもしれないわ。中には美優みたいな物好きもいるかもしれないけれど、お化けは誰だって苦手でしょう」

 斬りたいくらいに、とまでは云わないでおく。

「えー、私ってそんな物好きかなあ。人気あると思うんだけどなあ、お化け屋敷」

「まあ普通の範疇だと思うよ、美優ちゃんのは」

「でしょ? 程々に怖いの好き。スリル、って云えば良いのかな」

「あーそうそう。そっちは好きだな、あたしも」

 ……いつの間にやら、真由美は美優の事を下の名前で呼ぶようになっている。

 妖とお化けは違うとは云え、怪異の括りに入るコトは間違い無い。紛い物たちに混じって無害なホンモノが幾らか持ち込まれているあたり、風宮らしかった。その意味ではお化け屋敷として楽しめそうだと思えなくも無い。

 そこで、何かに気が付いたような真由美が、ポケットからスマホを取り出した。13時ぴったり。

「雅から。始まるぞ」

 真由美が立ち上がって手すりにもたれかかるのと同じくして、ピアノの鍵盤を叩きつけるような澄んだ音色が、この屋上の下から響き始めた。

 午後の部開始の合図、らしい。

 見下ろした先、新校舎に囲まれた方の小綺麗な中庭。石畳に敷かれたブルーシートに、これも規格外なくらい大きい真っ白な半紙が広げられていた。その上に立って、見知った少女が一礼する。傍らには彼女の背丈程はあろう巨大な筆。

 ナレーションも無しに、決めた時間に始まるオープンエアのステージ。勿論、これだけの準備をするのにも時間は係っただろうから、それなりに注目は集めていたのだろう。でも、本当に突然始めてしまった。

 雅だった。スピーカーから流れる曲調がテンポを上げると同時に、雅は動きだす。大筆を墨に浸し、黒い雫を滴らせながら一画目に入る。筆を払うと穂先から墨が飛び散って弧を描いた。文字を地面に刻み込んでいるかのように、雅は全身の力を込めて次々に筆を走らせてゆく。

 息を呑まされる。

 半紙の右上に勢い良く書かれた『彼』の字は、この屋上から全体を見下ろしているかのように整っていて、ざわめきを総て攫ってしまうくらい力強かった。

 その動きは、単に文字を書くだけに留まらない。観客など関係無し、四方からの視線に気も留めず、少女は髪を振り乱す。素足が半紙の上を駆ける度、中庭が熱で隔てられる。蜃気楼に包まれているみたいに、演者は強く揺らいで見えた。

「ありゃーもうライブだわ、ロックだロック」

 呆気に取られながら、真由美はぼやく。

「真由ちゃんも初めて見るの?」

 くら、と床が傾く。違う、あたしが傾いている筈だ。

「ん。練習は見てたが本番は初めてだな……いや、汗だくになってたのは知ってたし結構本気なのも知ってたけど、あの小さい身体の何処にあんなパワーがあんだろうね」

 あそこに居る少女は、いつもの雅とは違う、研ぎ澄まされたもの。

 この場で書く為だけに研ぎ澄まされたもの。雅が雅を正しく使っている。そんな風にすら思える書きっぷり。ロックと表されたのは何も激しさを増すBGMだけでは無いのだろう。

 ……き、き、き。頭の奥に埋め込まれた歯車が共鳴している感じ。

「そんなの云ってたら老けるよ、真由っち……」

「まー少なくともウチら二人合わせても敵わんわな。もう昨日までので肩とか腕とか痛いのなんの」

 ブラウスの背中にまで散らした墨で黒く染めながら、豪快に、奔放に、全身を使ったパフォーマンス。そこだけ陽射しが強くなっていると錯覚する。

 ピアノの音が、それからざわめきが、途切れる。陽の光が焼け付いている。

 筆が縦横に走っていた。続けて次々に書かれた文字たち。『方』『へ』。

「彼方へ、かあ」

 大勢の前、雅はたったひとりでそこに居る。

『風』――その後に、少しだけ小さ目に書かれた文字は――宮、だろうか――半紙の白に視界が眩みそうになっていて、上手く読み取れない――。

『願』。音が溢れている。昼間の街中よりもずっと統一的に。

「あの子らへ、って事かな。雅……」

 タン、背中が重力に捕まっていた。

 黒。真っ黒な飛沫。固まった血。死んだ色。めくるめく景色は安定しない。灰。炎。煙。影――これは夏の、あの不知火の。線。引かれる黒に混じった朱。響く……悲鳴? それとも笑い声。

 温かい。床を失いかけたあたしの背中を、美優が受け止めていてくれた。

「紗羅ちゃん?」

 さらりとした感触が頬を掠める。

「……ええ。何でも」

 心配そうな眼だった。その眼を覗き込むと、今まで乱れに乱れていたあたしの意識のピントが現実に戻る。

「何でも無いわ。ごめんなさい、疲れたみたいね」

 喧騒に中てられて、それでも前後不覚とまではならなかっただけ進歩している。

「ちょっと、紗羅ちゃん?」

「気にしないで。少し休むだけよ」

 屋上のドアを押し退ける。背中で騒がしさを閉じた。下へ続く階段はひんやりしていて薄暗い。出し物からあまり関係の無い動線は、思いの外、人が少ない。それでも聞こえて来る手拍子の音から離れたくて、あたしの足は喧騒の外側を求める。

 合わせる事は、まあ別に、不可能では無いように思う。

 尤も、あたしが彼女らの思考に対してあまりに鈍感かもしれないと云う可能性もあり得る訳で、本当はあたしが思っている以上にあたしはあの輪に溶け込めていないのかもしれない。けれど、少なくとも表面上は穏やかだ。

 それでも、此方では無いな、と思う。此処は、あたしの居るべき場所からどうしたってずれている。

 ……ああもう、どうして薫はこんな所に。あの人にはそんな事、解りきっていた筈でしょう。だから薫は。

 いちいち理由を問い直さなくても知っている。どうしてこんな無茶をさせているのかくらい。それならあたしが引き受ける以外に手段が無いのだと理解している。どうせ何処かで綻ぶのだ、ならば少しでも頑丈な方がマシなのだろう。

 人の居ない場所。音と熱とは隔たった新たな避難場所。行き着いた先は矢張り旧校舎の美術室。

 ハヅキは居なかった。葉月も。以前この場所に居たのかすらあやふやにさせてくれるくらい、ハヅキたちの気配は薄まっている。

 そこかしこで騒がしくする人間たちに悪意は無いし、あたしと云う性質がここに馴染みきれないのも仕方が無い。これでもあの眩暈のような――吐気、傾いでしまう、そぐわない――違和感は緩くなった方だ。

 天窓を見上げれば、空が午後の太陽に強く照らされている。

 ……眩しい、のかもしれない。

 共有出来るか否かその以前に、あたしには彼女たちが眩し過ぎるのかもしれない。だって昼そのもの。同じ空気を吸っていても、住んでいる世界がまるきり違っている。

 彼女たちの月はあんな蒼色に輝かない。桜も、知らない。

 ふらふら、ゆらゆら、彷徨うだけ。誰の眼にも留まらない。誰もあたしに気を向けない。この学校の背景に溶け込む。擬態してゆく。秋らしく変わりつつある緩い陽射しがいっとう楽だ。

 きっと、ゆっくり、ゆっくり、空の青にも染まってしまえる。そう期待するのも悪く無い。

 美術室のドアが開いた。ざらりとした風。

「や、転入生」

 開け方からして美優でもハヅキでも無かった。だって乱暴過ぎる。

「貴女は」

 明るい茶髪が印象的な女子だった。やたら短いスカートに崩されたブラウス。それこそ不良染みているその子は、無遠慮に寄って来ると、あたしの前の机に腰掛けた。いつだったか、ハヅキが座っていた場所だ。風宮の生徒なのだろうけれど、薄い笑みを含んだ眼差しには既に常人とはかけ離れた雰囲気が宿っている。

「強いて云うなら……迷子? なんてね。そんな眼で見ないでよ、お人形サン」

 彼女は天窓を見上げ、それから物珍しそうに教室全体を見渡す。おどけているかのような口振りだった。

 わざとらしい『お人形サン』からして、このひとは恐らく霊能者。比喩では無く、あたしのコトをそのまま人形として認識している。

「何にも無いよね? ここ。てかこっち立ち入り禁止だし。どーして入っちゃってんだろうねえ、だって誰も居ないじゃん、こんなとこ。キレーな場所だけどさ。つかこんなとこ初めて入った。美術室? ここ。

 今日だってだあれも旧校舎に入ったりしてないしな。こっちって地味だし、ホントひっそり残されてる感じ。用のひとつもあるわけ無いし……聞いてる? おーい。やっぱ不審者っぽいかなあ、ウチ」

 ……敵意だ、これは。或いは嘲りか挑発か、この人の表情には滲んでいるのだ。だから応える気にもならないのだ。

「五月蝿いよねぇ、此処の文化祭って。何を勘違いしてるんだか、切り替えみたいなのが大事だーとか云って、結局ぎゃーぎゃー大騒ぎしたいだけじゃん。んなモンに便乗して他校だろーがご近所だろーが縁も所縁も無ぇよーな奴等も大歓迎ときた。宣伝とかには持ってこい、こいつで一般受けとか狙ってんのが見え見えなんだよなあ。そう思わない? 余所者のお人形サン」

「……別に」

「あっそ」

 彼女は急に鼻白んで立ち上がる。

「こっちだって仲良く出来るとは思って無かったけど、そうも露骨かよ――澪の事探してたよなあ。あいつ、今夜、此処に来るよ。理由は解るだろ」

 わざとなのか足音が高く響く。作られた笑みが消えた後に残ったのは、あたしを侮蔑しているかのような、露骨なまでに冷たい顔つきだった。

 澪。祗園、澪。

「け、物好きな奴等。無理なモンは無理なんだがな、そうも足掻きたいモンかね。ま、伝えろって云われた事は伝えた。来たいなら来い。じゃあな、転入生」

 美術室から出て行く茶髪の向こう側には美優の姿があった。駆け込み気味な美優が茶髪と丁度ドアの所で入れ違いになる。茶髪は美優を突き飛ばしそうなくらい強引で、美優はその後ろ姿を怪訝そうに見送っていた。

「さっきの人って……知り合い?」

「いいえ。知らないひと」「そうなの?」「ええ」「……そっか?」

 何と云うか、それこそぎらぎらしていた。ひたすら人工的に、反自然的に。祗園が纏っている雰囲気とは似ても似つかない。

「誰も来ないと思ったのだけれど」

 云ってしまってから失敗だったと悟る。

「一人の方が、良い?」

 逸らされた視線は少し寂しそうだった。

「……美優の事じゃないわ。でも良いの? あの二人といなくても。それに雅だって」

「あの二人なら別に良いよ。雅ちゃんも今度は別の出し物があるからって」

「なら、そっちに行った方が――」

「あーもう!」

 唐突に両肩を掴まれる。美優にしては大きな声だった。

「私は紗羅ちゃんと一緒にいたいの。紗羅ちゃんと過ごしたいの。あんな風にどっか行っちゃったら心配する!」

 余りに必死に云うから、それがとてもあたたかくて――嬉しくて。

 ひゃ、と耳元で小さな悲鳴があがった。

「――ありがとう、美優」

 抱き寄せたか細い肩は弱々しかった。ほんの僅かに躊躇いもあったけれど、それでも離れようとはしなかった。

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