微睡の白/12

 どうしたものかと首を傾げる。読んでも読んでもまともに解釈出来ない。先生や生徒の云っている事が何を意味しているのかも解らない。

『これが日本語だったものなの?』

『日本語だよ。それにここって夏でやったとこの復習だよ』

 霊眼を通して行われる会話に合わせて、前の席に座った美優の肩が残念そうに落とされる。白紙に近いあたしのノートに比べて、美優のノートには整った文字がびっしりと埋められていて、しかもカラフルに纏められている。予め書いておいたらしい教科書の写しに、授業が進むごとに何事かが書き加えられてゆく。

 まるで異世界。この教室は、あたしの知っている常識とはまるで違うルールに統制されている。

 短い白髪のおばさんが、耳障りな甲高い声で喚いていた。餌食になった男子生徒が立たされて悠に五分は過ぎている。

「だいたいあなたは予習をやっていないし宿題も出さない。ねえ和泉君、あなたはこの学校で何を学ぼうとしているの?」

『菅先生の野球部嫌いが発動してるねー……』

 和泉と呼ばれた坊主頭が、机に手をついて俯き、ひ弱で中身の無い返事ばかり機械的に繰り返す。菅のヒステリックな剣幕に、教室全体が陰鬱な空気に沈んでいる。あたしですらこれで三回目になる。古文の授業がある度に誰かがこうして怒られていた。

「あなたねぇ、そうやって謝ってるけど本当に反省してますか? ここ先生教えたよね? 一昨日も散々繰り返したんだけどあなたどうしてたの? そこで寝てたのかなあ」

 あたしの記憶の限り、この坊主頭はまともに顔を前に向けていない。それを見越した嫌味に、和泉は曖昧な返事しか出来ないようだった。するとその煮え切らない態度に菅の忍耐の限界を迎えたらしい。

「もう良いです! 座りなさい!

 はい、では霧島さん!」

 それとも、諦めだろうか。古文もだけれど、この先生の感性が全く解らない。

 この先生の厄介なところは、いつ誰に質問が飛んでくるのか予想出来ないことにあった。流石にあたしにはある程度配慮してくれているらしく、指名された事は無い。気持ち悪い程にこやかに「白羽さんね。解らないところがあったらいつでも聞きに来てね」なんて、それこそ「うふふ」とか「おほほ」なんて上品な笑みを浮かべて声を掛けて来た始末だったけれど。

 とばっちりの如く鋭い指名を受けた雅が、緊張気味に腰を上げる。

「はい。『まかる』は『どこそこへ行く』の謙譲語を意味していて、四段活用終止形の動詞で、この『べき』は可能の助動詞べきの連体形になって。従って、ここの箇所は、それまでの訳と繋げると……『今こそ心安らかに黄泉の旅へ』……えっと『赴く事が出来る』となります」

 ……雅の回答は、いつも意味不明だ。けれど菅はこの回答に満足したらしい。

「ふん、まずは合格としましょう。座ってよろしい。ですが霧島さんにしては物足りないところがありますね。『まかる』を『赴く』と訳したのは何故ですか?」

「……『行く』だけでは足りない気がして」

 雅はそう云い淀んだけれど、菅はあくまでにこやかなままだった。

「そこを説明出来るようにならなければなりませんよ。さっきの訳は八十点、まあ正解かな、とハネはしませんが。『行く』をそのまま謙譲語に直すと『参る』になりますね。従って『参ることが出来る』が直訳になります。

 が、もっと自然な云い方に直してみましょう――吉野さん」

 吉野……朱莉。教室の後ろの方でガタガタと騒がしく音を立ててやっと立つ。

「え、あ、はい。『ようやく死ねる』ですか」

「は? ……はあ……それは……それではピンですね。元の意味が保たれていません」

「けど先生、『やっとこれで死ねる』では……」

「そちらの方が近いですが、三角です。まず直訳をしてから意訳をする、この順序を守る事が基礎基本になりますよ、吉野さん。読解が出来ても基礎がなっていないようではいけません、蟻のように小さな視点を持つ事も大切ですからね。

 しかし、ここからは次の授業に回しましょうか、既に終わったつもりになっている人も居るようですし?」

 菅は、ちらと横目で和泉の方を見た。さっき怒られたばかりなのに、もう姿勢を崩して教科書を閉じている。嫌味を云う菅の性格も悪いが、怠ける方もいい加減にすれば良いのにと思う。ややもすればわざとらしく慌てながら和泉は座り直した。

 いつかあたしもあんな風に当てられてどぎまぎする事になるんだろうか。美優に訊いても答えられないときは、答えても間違っていたとすれば、その時はどうすれば。ああもう、面倒な相手。

 号令がかけれて礼をすると、そんなあたしを見透かしたみたいに菅が目を合わせてきて、ふわりと微笑む。解りやすく作り物の表情で気持ち悪かった。菅が教室を出て行って、凝り固まった空気がほぐされる。ボリュームをゆっくりあげるみたいにして。

「次のホームルーム、準備お願いねー! もう時間無いから今からやるで、机後ろに運んで!」

 隣で威勢よく、教室全体に向けて雅が呼びかける。

 あたしはやおら活気づいた教室から抜け出すコトにする。うっかり手を背に回してフードを被る仕草をして空振ってしまった。周りの認識を歪めて注目を集めないように気配を殺す。授業とは名ばかり、余所者に放課後まで続けられる喧騒が始まる。

「あれ、美優ちゃん、紗羅ちゃんは?」

「あれ、いない、お手洗いかな」

「んー、いつの間にか消えてるな、あの子」

 机と机の隙間をそっと抜け出して菅が閉めたばかりのドアに手を掛けたところで、後ろから雅と美優の話声が聞こえた。

 ……一度、混じってみたけれど。どうにもあたしは馴染めない。水の中に浮いた油みたいにして、外から眺めているだけなのだ。頭が割れそうになる感覚を味わうだけ。夏の昼間のあの陽射しにも似ている。

『何処に行くの?』

『ちょっと、外の空気を吸いに行ってくるわ。片腕じゃあ手伝う事も無いでしょう』

『そう……』

 美優も抜け出せば良いのに、と伝えかけて止めた。あたしの背中を心配そうに視ているから。こんな風に自分の姿を美優を通して視ると、あたしはあたしの正体を自ずと知ってしまう。ニンゲンらしさの無い渇いた背中がすっと伸びていて、皺も汚れも無いブラウス。どうしても美優と同じでは居られないときもあるのだと、あたしは風宮に来て知った。

 四十人近く詰め込まれた教室には、あたしにはあり得ない匂いに満ちている。あの輪の中に入るには、あたしはあまりに人間らしさを欠いている……。

 階段を下りて、いりくんだ一階の廊下を速足で進む。だんだんと生徒の声が遠くなる。四つ目の角を曲がった先には、下へと続く狭くて埃っぽい階段がある。そこを更に下りれば、一階より下にある階なのに窓から外が見える階に出る。

 ぐらぁ――と足下が傾ぐ。自分の足音と低い耳鳴りが頭の中で反響する。

 坂を下った先、校舎と接続された旧校舎の一階。どちらが一階なのか曖昧なつくりになっている。正面玄関から見たときの一階が、反対から見たときの二階になる。

 行くアテは一ヵ所しか残っていない。

「や、また来たんだ」

 旧校舎から秘密の花園めいた中庭にを横切って、白い箱のような美術室へ入ると、昨日の昼休みに聞いた声に出迎えられる。

「居場所も無くて、ね」

 カンバスに齧りつくように向き合うハヅキは、一瞬だけ此方へ視線を投げかけただけだった。

「浜風祭か。ボクなんかもそうだが、君もそっか。何か事情があるのかい」

「ええ。この夏からようやく登校出来るようになったの」

「ふうん、それは災難だ。大方、夏休みの間に準備も出来ているんだろう、急な余所者に居場所が無いのも道理か」

 浜風祭。夏休みが明けるとすぐに始まる何やら大掛かりなイベントらしかった。ハヅキの云う通り、既にグループも役割も決まっていてあたしのような余所者が飛び入り参加するには遅すぎた。

 ハヅキは昨日と同じようにひたすら平坦に云う。広くて綺麗な空間なのに、此処にはあたしとハヅキ以外が居ない、居た気配すら感じさせない。あの教室と同じ学校の敷地内にあるとは到底思えないくらいだった。

「そうね。だからかしら、此処に避難してきたの。落ち着くわ、此処」

「そうだな、此処は落ち着く」

「……こんなに綺麗なのに、まるで廃墟ね」

 ハヅキの筆が止まった。

「廃墟かあ。他の学校なら、もしかすると不良たちの溜まり場になっていて、煙草の吸殻が落ちていたりするのかな」

 ふと、薫の言葉を思い出す。人的資源生産工場――。

「……あたしたちがこの学校の不良よ、きっとね」

 そんな言葉が、半ば口をついて出ていた。今日も天窓からの陽射しがおぼろげな白色を美術室に滲ませていた。変わってるだけさ――そう肩をすくめるハヅキの右眼が、夕立前の曖昧な雲のような薄紫に輝いていた。

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