微睡の白/10
「べたべたと――何だ、浮気でもしてきたの」
書斎を開けて照明を点けるといきなり、寝台で眠たげに頬杖をついてうつ伏せになっている薫がいた。雪が用意していた毛布は床で惨めに丸まっていた。肘から先を無くした左腕には白い包帯が巻かれている。雪の調達してきた点滴はキャスターごと突き放された位置で申し訳なさそうに立っていた。
「あら、起きてたの」
一週間も眠り続けていたとは思えない当たり前の顔だった。「さっき起きた。何日、今日」「一日……いえ、もう二日かしら」八月のまま日焼けしたカレンダーを捲った。「九月になったのか」大して気にしていない様子だった。
「浮気って何の言いがかりかしら」
止まりっぱなしだった時間が動き出したかのように、使い道の無くなった八月をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てる。おかえりともおはようとも、心配をかけてすまなかったとも云われないまま突然浮気を疑われていて、これなら様子を見に来るんじゃなかったと後悔した。
「その右腕の事よ。それ、レイフでしょうが。どこからそんなモノを持ってきたの」
「レイフ? この気持ち悪いお札みたいなやつかしら」
それだよ、と薫は不満気に頷く。
あたしの右腕にはスケール感の狂った絆創膏みたいなモノが貼りつけられていて、傷口を塞いでいる。読めるようで読めない文字のようで記号のような怪しげな文様が、朱色で描かれていた。
「何処からそんな何枚も調達してきた。どうやって使った、いや、誰に使われた? ……それ以上にどうしてそんな傷になったの。君、もうボロボロになってるじゃない」
「気が付けばこうなっていたの。知らないわ」
息つく間も無く矢継ぎ早に質問を投げられても、知らないものは知らない。この傷の説明くらいは出来るけれども、寝起きで苛立っている薫に教えたところで文句を付け足されるだけだろうから黙っておく。
あたしは寝台の端に浅く腰掛ける。
「――霊に符号と書いてレイフ。霊刀と同じ系列のモノでねぇ、旧くから伝わっているモノなのだけど、いや、隠していたワケじゃないんだ。ただタイミングがね。使える霊能者は限られているし、私だって使わない。けどこっちじゃメジャーだからいずれは視るコトになるとは思っていたが、それにしても早い」
「さっさと云って。はぐらかすくらいならもう云わないでよ」
「せっかちね。陰陽師が使う護符なのさ。そも、霊能者は一般化された名称で……日本伝統の霊能者たち、つまり陰陽師はやたらと独特で閉鎖的なんだよねぇ。私たちとは別種の霊能者。風宮の運営母体のひとつでもあって……君、もう何かやらかして来たのか」
「あたしは何も――」
陰陽師。いつだったか薫がぽろりと口にしていた気がする。いつの話だったか、意識も定かでは無い記憶のこと。
「ヒトが寝ている間にまたそんな壊して。どうせ陰陽師の連中とも遭遇すると思ってたけどねぇ、なんだろうな、知らないうちに弄られているのは気分が悪いんだよね」
「助けてもらったのよ。あたしが壊れたのも人助け」
自分の為に目についた妖を狩ったらそのまま人助けになった、偶然の結果だけれど。
「人助けにしても自分を大事にしろ。いい加減、壊れきって死んでしまっても知らないよ」
「起き抜けからキッツいわね。こっちはあなたのせいで大変なのよ、知ってる? これでも今日まで自重していたの」
「私のせいで大変って、学校? 少しは他人に合わせる事を学んで欲しいって親心、解ってくれないかな」
「親、ね。あなたの娘になった気は無いわ」
「どちらでも結構、私がつくった義体だ。私以外に弄られるなんて考えただけでも虫唾が走る。とりあえず直す……う、そうだった。左腕……」
いたたたた、と身を捩って起きようとする。いつもは身軽な薫があまりにぎこちなく呻くものだから、壊れていない左肩を貸す事にした。寝台に座り直すだけでも、数日寝たきりになっていた人間にとっては重労働にもなるらしい。かつて目覚めた時この躰がまるで動かなかったことを思い出した。
「そうだ、そうだった。風宮には優秀な跡継ぎが居たね……名前は何だっけな」
「……コレ、さっき壊してきたの。風宮は関係無いわ」
「いや、そうでは無くてね。確かそんな霊符を使っていた高校生が居たような。名前が思い出せない。ああ、寝起きはこれだから嫌だ」
薫が首を傾げると、こりこりと音がした。いつの間にか独り言になっていた。
当の霊符はすっかりあたしの右腕の皮膚のようになっている。自分の躰の奇妙さもさることながら、目覚めて以来妙なモノは尽きない。骨まで折れて大穴が開いたかと思えば、すぐにくっついて直っている。傷の具合は、躰がどう反応するかでしか測れない。痛みにしても、霊義眼を外してしまえば感覚から情報へ劣化する。そんな悪魔のような眼球を戻しても、止められた痛みはもう何処にも無くなっている。
「出所を探るのは後、君の腕を直すのは後回しだ。まず私に充分に動く両手が無い事には何も始まらないからねぇ。悪いけど何か甘い物を持ってきてくれないかな。腕を直すにも、とにかく身体を動かすエネルギーが欲しい」
身体の自由が効かなくてね、と薫はふてぶてしく云ってのける。右腕には感覚が無く他人の腕がぶら下げられているみたいだった。痛みを含めて感覚が一切無い。薫もそうだが、動かないのはあたしも同じだ。
さっさと直してと訴えたいのも山々、文句の多いこのひとに頼むのも気が進まない。この右腕を盾にして学校を休んでしまおうかとも思う。それなのに美優が気になって言い出せない。もどかしいまま薫の身体を気遣う自分が腹立たしかった。
「そっちだって重傷だけど私の方がもっと酷いのさ。その傷は閉じられているから霊素が漏れ出す心配も無い。対して私は何日眠っていたかも解らない生身だぞ。親切にしてくれたって良いと思うんだけどな」
薫はそんな不満を口にして、あたしに追い打ちをかける。もしあの時この腕を勝手に直そうとしてくれた何者かが居なかったら今頃あたしがどうなっていたかもわからないのに。人形みたいに、あたしは適当に相槌を打つ。
「ニンゲンは大変ね。不便と云った方が良いのかしら。朝になったら雪に感謝しなさいよ」
皮肉ったところで薫は懲りもせずに、云われるまでも無い、なんてぼやいていた。口が良く動いているのだからそれなりに平気なのだと見切りをつけて、あたしはキッチンへと向かう。チョコレートをたんまり持ってきてくれと追加で注文されて、適当にあたしは返事しておいた。
キッチンのドアは開け放されていて、明かりが点いていた。煌々とした白い電燈では無い、暗めの黄の光だった。
それはランプの光だった。テーブルの上に置かれた人形が掲げる弱々しい光。そして頼りない背中が机に伏せっている。
「美優……?」
寝巻姿の美優。こんなところで寝ていたとも思えない。まるで、這ってでもこの机にさばりついたかのような。
「紗羅……ちゃん」
仄暗い机にはティーカップが。冷たい水が半分くらい入っていた。腕が床に向かってだらりとしていて、息も不安定だ。
「どうしたの」美優は玉のような汗を額に浮かべていた。酷く苦しんでいたようだった。
「痛かった。腕。捻じられて、折られたみたい。とても痛かったの」
捻じられて、折られた腕。はっとして自分の右腕を視る。大丈夫なのか訊こうとして、その資格があたしには無いのだとすぐに察した。仄暗いなかでも美優の右腕には何の異常も無い。そして美優が何を訴えようとしているかも、同じように理解した。
異常があるのは、あたしの右腕の方だ。腕の激痛もあたしのものだ。美優のものでは無い、のに。
美優はそのコトを口にしなかった。何日も寝たきりになっていた薫なんかよりも、こちらの方が幾らも痛々しい。
「紗羅ちゃん、腕大丈夫……?」
「――大丈夫よ」
「そう……良かった、本当……」
「でも、美優は』
「私は……うん。辛い。痛かった」
左手で、小刻みに震えている背中を摩る。せめて安心して欲しかった。
美優に傷は無い。傷を負ったのはあたしの方なのに。お前のせいだ、とだれかが云った気がした。
「私ね、夢を視ていたんだ……気味の悪い……花の妖……」
息を整えた美優の潤んだ右眼に、不気味な赤みが混じる。義眼の筈なのに、その眼は生の眼と変わらない瞳を宿している。
「私は斬っていたの。不思議だったけれど間違いなく私だった。何人も木で首を吊っていて、その中心に鮮やかすぎる花が咲いていて。それで……腕を、私は、私の、紗羅ちゃんの腕を」
「まさか全部視ていたの……? あたしが視たモノ全部」
美優が寝入ったのを確認してから、ひっそり屋敷を出た。美優がこちらを視ていることにすら気が付いていなかった。美優の瞼の裏側なんて外に居る間中視えていなかった。視られていたコトをあたしは知らない。
「夢だから痛くなんて無かったよ。私自身なのに、私は紗羅ちゃんだったの。でも、何も視えなくなった瞬間に……」
ランプの光が美優の頬を照らす。涙の伝った筋が幾つも流れていた。
「痛くて眼が覚めた。紗羅ちゃん、ほんとうに右腕は大丈夫なの……」
あたしの右手に美優がそっと触れる。あたしの右手は美優の手の柔らかさを認識出来なかった。
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