微睡の白/5

 歩いて数分、丘の上の白い建物が見えてくる。ひと昔前の古さを漂わせる寂し気な街並みとは違って、その場所だけ真新しかった。

「あれだよ、風宮って。二ヶ月ぶりかあ」

 指さす美優はいつもより明るい。朝早くにあんなコトがあったとは云っても、暫くの間遠ざかっていた普通の日常に戻って来られて嬉しそうだった。

 あの事故で残った顔の傷はあの右眼ごと、伸ばした前髪で隠されている。登校日が近づくにしたがって、しきりに鏡の前で傷痕を気にしていた美優に、生身の肉体は不便なものだな、と思う。

 病院でも学校の話は聞いていた。苦労して受かった憧れの高校、授業の内容が難しいこと、静かで落ち着いて過ごせること、今までの学校とは比べ物にならないくらい大きな図書館があること。

 凛とした佇まいは、その本質を覆い隠す為だろうか。

「でも羨ましいなぁ、紗羅ちゃん。受験も何にもしないで風宮でしょ」

「そう?」

「だってここ、毎年すっごい倍率なんだよ。去年大変だったんだから」

「ふぅん……」

 今一つピンと来ない。薫が勝手に編入させただけで、あたしは何の苦労も無しに美優と同じ場所に通う。これから苦労する事になるのかもしれないが、それはまた別の苦労かもしれない。普通の高校生の苦労とはまた別の苦労。

 それに、美優はどこまで風宮を知っているのだろう。ついぞその口から、薫から聞かされたような妙な内容は出てこなかった。

「褪めてるなー、毎年何人落ちてるのかわかんないくらいなんだよ?」

 美優は口を尖らせる。

「あたしは……どうなのでしょうね、風宮の生徒だったのかしら」

 もしかすると、と云う可能性だけれど。校舎に見覚えも無いし、美優のように勉強した記憶もまるで無い。あった筈の過去が空白のままだ。

「ん、どうだろ。学年違うと棟も違うし、でも雰囲気は風宮っぽくもあるような。俗っぽさの無い人って多いから」

 俗っぽさね、と反芻する。病院への道のりで高校生とすれ違う事は多かったけれど、今あたしたちと同じ向きに歩いている高校生とはどことなく纏っている空気が違う気がするのは確かだった。立ち居振る舞いの端々、歩き方が落ち着いているように見える。

「私も良くは知らないんだけどね。入学してちょっとしたらあの事故だったから」

 雰囲気から俗世に離れた……常人と少し乖離しているような印象だけれど、霊能者なのかどうなのかは判然としない。少なくとも、美優が違和感を抱くような人間は今のところいないらしいし、あたしみたいな人形も歩いていない。

 あたしもあんな感じに見えるのだろうか。

「……紗羅ちゃん? どうしたの、さっきから」

「ううん、何でも無いわ。新鮮で物珍しいの、あたしにとってね」

 通った気がしない、高校と云う場所。

 人並みに陽のあたる日常に溶け込んでゆけると云う不思議な感覚が沸いてくる。もしかすると、あたしだってこの風宮に憧れていたのかもしれない。胡散臭さもそこそこに、どうしてこうも快い気配を期待するのだろう。

 雲間から陽射しが差し込んできて、眩しさに眼を細める。今日も暑くなりそうだねー、と美優が云った。そうね、きっと今日もまた暑くなるわ。

 雨上がりの空気は透き通っている。

 いつもより軽い背中も、動きにくい服も、案外悪くないものだ。

 丘の下から見えていた白塗りの校舎に入ると一気に涼しくなった。丘の上は陽当りが良過ぎるくらいでありながら、同時に風を良く通していた。それでいて校舎の中は緩めの冷房が効いている。他にも幾つかの建物が見えた。この建物がいわゆる本館にあたる棟らしかった。たちまちにこの空気に溶け込んでしまいそうで――。

 ……ボウ、と、下駄箱で靴を履き替えた瞬間、耳元の空気が歪む。神経を尖らせていないと気が付かない程の不快感。

 顔を上げても、明るい空気の中に落とされる一滴の不快感は視えない。

 美優は何も気が付いていないようだった。坂道の途中からすっかり暑くなったからか、校舎に入ると生き返った心地になるらしい。生徒たちの声で溢れている。学期始めの朝から、この学校は活発に動いていた。これ程までに元気の良い場所があるのかと思うくらいに。

 なのに、それでいて、全く真逆の景色が浮かんでくる。誰一人としていない夜の風宮のイメージ。溢れんばかりの生命力とは無縁の昏闇。

 美優が案内してくれて、職員室へ通される。長井と名乗る地味で眼鏡を掛けた若い男の教師があたしたちを出迎えた。その人に促されて美優は一人、自分の教室へと向かって行った。

「白羽紗羅さんですね。話は聞いています。白羽先生にはいつもお世話になっております――ああ、薫先生と云った方がよろしいですね、この場合は」

 薫センセイ、とあたしは反芻する。彼は自分の机の上の書類を手に取って何事かを書き加えた。

「ええ、その節にはよくして頂いて……よろしくお伝えくださいね。僕は一組の副担任をしていますので、紗羅さんもどうぞよろしく」

 柔和な会釈をされる。あたしが曖昧に頷くと彼は目を細めた。

「薫の知り合いなの?」

 真っ直ぐ聞き返したあたしに長井は困り顔で席を立つ。

「知り合い……知り合い、そうとも云いますね。僕は白羽先生、いや、薫先生に、とにかくちょっとした借りがあるのですよ。

 しかし先生もなかなか大胆だ、ウチに編入させようだなんて。でも、その心配は僕の役目じゃあ無いね。さ、君には新しい居場所を用意させているから、自由にすればよろしい。何事も穏便に済ませて頂ければ僕としても嬉しいですが」

 概ね、察しのつく内容だった。こうもあからさまに明かされるとは思っていなかったけれど、そもそも隠す気も無いらしい。長井……先生は、霊能者絡みの人間で、薫ともそのあたりに繋がりがあるようだった。

 祗園君、と先生が声をあげた。決して大きい訳でも無いのに、その声はよく通った。

「ちょうど良かった、教室に案内してあげてください。1年1組、件の新しい生徒です」

 呼びとめられた女子生徒にそう告げて、あたしに出口の近くにいる彼女の方へ行くように手で示した。長い髪に鋭い眼差しは、凛としたこの風宮の印象をより濃くしたかのような人だった。全くの無表情のままのその人が、あたしの案内役に充てられたらしい。

 祗園と呼ばれた案内役はあたしをねめつけると、無言で歩き始める。……ついてこい、と云うことらしい。すらりと伸ばされた背筋が、廊下に流れる人波を裂く。背中には無い刀のコトを思い起させる動きだった。向こうから歩いてくる生徒は皆、祗園の行く先をそっと躱す。ごく当たり前の動作で、そこに怯えの色は視えない。道は譲られる事を当然として、彼女は颯爽と歩く。あたしはその後ろをついてゆく。

 何だか、自分が小さくなった気がした。……いいえ、これは気のせい。これもきっと、下駄箱で感じたあの、ボウとした不快感と同じ……。

 ああ、高いのだ。祗園はあたしより背が高い。こんな背の高いひとは……。

「ここが貴女の教室。ようこそ、風宮へ」

 はっ、と顔をあげると背中を向けられたままに声を掛けられていた。低い、はっきりとした声。1年1組。多くの生徒に混じって、教室の中には美優も居た。

 確かに――こんな中に美優を一人通わせるのは危ないのでしょうね。そうなのでしょう? 薫。たったこれだけでも、微妙に歪んでいるのだもの。

「特別扱いもここまでよ。ここから先は――どうか気を付けて、白羽、紗羅さん」

 教室へ一歩入る時、あえて眼を合わせなかった祗園から、これまでとは違う声色を聴いた――気がした。振り返っても、彼女の姿は何処にも無かった。

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