景色泡沫/4

 書斎の時計が午前一時の鐘を打った。

「はあ――記憶が、ね」

 薫は腕を組みじっと自分の書斎机に腰掛けて、寝台に座ったあたしと向き合っていた。天井の照明は落とされていて、書斎机に置かれたランプだけが柔らかな明かりを放っていた。嵐の今夜は外からの月明かりも無い。

「てっきり祗園にでも当たったかと思った。いやこれは意外、桜の妖か」

 妖由来と知って急に食い付きが良くなるあたり、随分と勝手な人だ。尤も、あたしだって薫の事を云えたものでは無いのだけれど。

 雨の美術室でもう一人の葉月と会って数日が経っていた。あの後も空き時間を見つけては旧校舎へと足を運んでいたけれど、あれ以来、二人の葉月が姿を現す事は無かった。ならばと祗園を探そうとしても、そも彼女が何年何組なのか知らないのだから手間取った上、どうもここ最近は登校すらしていないようだった。

 薫は書斎机に置かれたマグカップを手に取り、コーヒーを啜る。

「一つだけはっきりさせておこう。それは本当に君の記憶なのかな」

 ……唯一残った頼みの綱のこの薫は、こっちの気も知らず待てど暮らせど屋敷に帰って来なかった。やっと帰って来たのが今日の、もしくは昨日の深夜。何処をほっつき歩いていたんだろうか。

「さあ。あたしはそう思っているのだけどね」

「ふうむ。確信を持っている訳では無いのか」

「さあ、ね」

 ここまで宙ぶらりんにしてくれた原因の一端くらいは、少なくとも薫にあるのだけど。

「でも美優と話していて気が付いた事もあったわ。この記憶――イメージ、景色――について口にする度に、あたし、喉を絞められているような気分になるの。だからこれはあたしの記憶なのよ、きっと」

 始末の悪い事に、この症状は日増しに悪化している。

「白無垢のせいか。ああ、いや、解らないな、原因が何かは。戻ったのだと仮定しても情報量が少な過ぎる。重要かもしれないし、些事かもしれない。手掛かりくらいにはなるかもしれないが……」

 ……顔色一つ変えずに話を淡々と聴いている薫も、少しは他人の心配が出来るらしい。

「薫は自分の記憶を疑ったりはしないの?」

「疑うよ」

 あっさりと断言される。

「ただでさえ都合の良いように書き替えられたり忘れたりするものなんだ、こんな狂った界隈なら記憶の一つや二つくらい何処かで掛け違えていてもおかしくない。記憶なんて案外そんなもの、だけどいちいち気にしていてはキリが無いからね。普通は意識しないでしょう」

 自嘲気味に唇の端が吊り上がる。この躰なら忘れる事そのものが無いから気にする必要の無い記憶も、生身ならば別なのだろう。

 それなら、かつてのあたしの記憶も果たして正しいと言い切れるのだろうか。

「それで、何か分かったりしない?」

「随分と性急だね。少しは私を労わってくれても良いと思うんだけど――白無垢、どうもそいつとは因縁があるようだ」

 あの、白い天使の姿をした妖。

「仮にかつての君の記憶だと仮定すれば、君は白無垢を視ていた事になるだろう? かつての君はアレを視るだけの霊眼の持ち主でありつつ、出遭っても生き永らえるだけの経験があった――順当な結論だと思うが――ああ、まあ、あくまで仮定の話ね、仮定」

 途中で薫は言葉を濁す。どうにもあたしはあの妖が苦手で、然もそれが表情に出やすいらしかった。

「……そうね。折角の手掛かりがあんな悪魔みたいな奴なのは気に食わないけれど」

「後はそうだね、君が美優よりも歳上かもしれないって事も想像出来る。知らない筈の答えを思い出せるあたり、既に知っていたんだろうから」

「でも、知識くらいどうにでもなるわ」

「あくまで想像のレベルかな、このあたりは。妙な所も多いしね、君には。どうにも世情、人情、常識が欠けているようだし」

「薫だってそうでしょう」

「そうじゃなきゃ夜更けにこんな話してないさ」

 肩を竦め、薫は声だけで軽く笑う。何だか散々な云われ方をしたような気がしなくも無い。只の記憶喪失とは質が違い過ぎていて、そもそも常識では測れそうも無いコトだから仕方が無かった。

「あたしも、アレをもう一度斬ればはっきりするのかもしれないわね。生憎、視つけられないのだけど」

 当然再びあの妖、桜を斬ろうとも考えた。けれど既にあの場所には居なかったのだ。巨体は忽然と消えて、それなのに厭に静かな夜だけが続いている。

「それはどうだろう。仮にもその妖を狩りきったところで君の記憶が総て蘇る保証も無ければ、それが君の記憶で正しいのかも解らない。曖昧なままイメージばかり追い駆けても自分を見失うだけかもしれない」

「心配要らないわ。――何故かしらね。あたし、矢張りかつてのあたしを嫌って……拒んでいるみたいだもの」

 躰の内側がざわつく。頭を中から引っ掻かれているような不快感。腕に爪を立ててかなぐりたくなる。

 窓の外を見遣った。頃合いね、とだれかがあたしの裡で囁いた気がして、寝台から立ち上がった。

「出掛けるのか」

「ええ、探しに行くわ。どうして桜の木なのに移動したのかしらね」

「場所が場所だからね。木に足が生えても驚かないさ」

「場所……風宮だから?」

 聞き返すと、マグカップを傾けようとした薫の動きが止まった。

「――おかしいな、どうしてそんな大層なモノが風宮に。私も疲れ過ぎだな、こんな事にも気が付けないとは。放っておかれる訳が無い……既に片付けられたか」

 語尾につれて声音に暗さが混じる。そのまま眉をひそめて舌打ちまでしていた。

「その割には妖が少ないとは思わない?」

「さて、どうだろう。その原因は他にあるのかもしれない」

「心当たりでもあるの?」

「一応は。然しその場合、既に君が……ふむ、仕方無い。私も調べよう」

 ……嫌な予感しかしない。あたしに同行しようと云い出さないだけまだマシだ。

 一瞬だけ雲の隙間から滲んだ月は、いつもと同じ蒼色。今はまだ飢えや渇きを感じてはいない。この躰に今流れている霊素はしっかと馴染んでいるようで、だから狩るべき相手を視付けられなくとも別に構わなかった。今は、まだ。

 霊刀を背負ってドアへ向かう。。

「なあ紗羅」

 低い声だった。

「どうして過去を望むんだ。嫌っているのに、どうしてその正体を知ろうとする。そも、正体不明のものをどうして嫌える。聞き流してくれて良いのだけどね、そんな過去なんかに拘る理由なんてあるんだろうか」

 一旦ドアノブを握った自分の手が緩んだ。その声には、今まで薫から聞いた事の無いような――眩暈を引き起こさせるには充分な――いや、一度だけ聞いた事のある――虚ろ、のようなものが込められているようで。

 考えあぐねているうちに、薫は「ああそうだ」と、いつもの調子に戻っていた。

「学校はどうなんだ。問題無さそうかな」

 ……ドアノブを回す。書斎の外の空気は蒸していた。

「特に」

「そうか。君の事だからね、この前だって疲れ切っていたし、馴染めるか心配していたが。最近は新しく友だちも出来たらしいじゃないか」

「そうなの?」

「……そう、聞いたよ。雪からは」

「雪から?」

「……雪は美優から聞いたらしいが」

「そ」

「……全く。真昼に手持無沙汰なまま暇を持て余すよりはマシでしょうに。美優も居るんだ、何方にせよ行って無駄にはならないさ」

「どう云う意味よ」

「美優をよろしく頼むよ、あの子にとってもかけがえのない日々になるだろうから」

「そうね。そこは、ええ」

 学校と美優で、ふと思い出して振り返る。

「スマホだったかしら? あれ、買って」

 書斎の扉を閉める前に見た薫は、狐につままれたみたいな、今夜一番の不思議な表情を浮かべて首を傾げていた。

 

 今夜も桜は居なかった。妖たちも。

 なのに――ぞわり、肌が粟立つ――溶かされそうな不吉な予感だけが、吹き荒ぶ夜風に混じっている。

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