焔紅月/7
朝焼けが迫る頃、紗羅は薫の屋敷にようやく辿り着いた。
焼け爛れた左眼の視界が戻ることは無い。彼女は全身にはしる鋭利な感覚に、酷く冷たい熱を感じていた。それは相反する冷たさと熱さであったが、風邪をひいて熱を出した時のそれとも似ているのだった。
……風邪。そういえば、そんなこともあったのね、きっと。前の身体のあたしには。
引き摺る脚。トレンチの上着も、もとの色が判らないくらいに煤に塗れて襤褸切れになっている。霊刀を背負う左肩が軋み、指先にかけては全く動かない。偽物の躰でも、特別その部分だけが他人めいて感じられるのだった。
さながら火事場から焼け出されたかのような有様の少女に、けれど気を留める者は居ない。まばらな視線が飛び交う未明の街にも、彼女の存在は闇と同じに溶け込んでいた。帰り道、紗羅は数台の消防車が落ち着いた様子で追い抜かして行くのを片目で見た。
屋敷の前、薫が門に背を預けて紗羅を待っていた。
「派手にやられたのねぇ、お疲れさま」
さして驚きもしない様子で、其の人形を出迎える。薫はその焼け焦げた姿を視て、今回の依頼が如何に無茶なモノだったのかを察した。察したうえで、自分の要求した対価が安すぎたことに後悔した。だからその姿に驚くことも、諫めることもしなかった。
「――よく、帰ったね」
諦めたように告げる。決してねぎらうような口ぶりでは無かった。
「帰って来なかったほうが良かったかしら? 聞いた話より、よっぽど危なっかしい相手だったわ」
「口だけはまともに動くなんて、君らしく無いな」
よろめく紗羅に、初めて助けの手が差し伸べられる。紗羅は渋々、その手をとった。肩を貸してもらって屋敷の内へと向かう。
「お生憎様、外側ばかり焼かれて中身は無事なのよ」
紗羅の意識は明瞭そのものだった。単に躰が思い通りに動かない、それだけのことに過ぎなかった。冷たさも熱さも、その意識を侵食することは無い。完全に切り離されたものだった。けれど、紗羅は同時にそれを自分のことだとはっきり知覚している。
雑然とした書斎に、二人は入る。冷房を効かせ過ぎだと紗羅は思った。霊刀を外すとあの固い寝台の上に横たえられる。薫はナイフを取り出して、そこでどこから手をつけたものかと少し戸惑った。幾らエクリクルムを継ぎはぎにしようとも、左腕と左眼の具合が戻るとも思えなかった。
「何がしたかったんだろうね、不知火は。君をここまで焼くなんて。」
「――シラヌイ?」
聞き慣れない言葉に、紗羅が聞き返す。薫はため息まじりに応えた。
「あ、放火魔の名前よ。知らずの火、なんて変な名前付けるよねぇ、依頼人」
「……そう、シラヌイ、と云うのね」
昨夜は酷い大火事を起こしたらしいのに、火を知らないだなんておかしいと思わない、と薫は云う。けれども紗羅にはおかしいとは思えなかった。そこまで単純な感覚ではないけれど、直にその不知火に触れ合ってしまった紗羅にはその名前が皮肉で悪趣味なものに思えるくらいだった。
……火、それだけしか知らなかったのでしょうね、不知火は。
対峙した相手の名前を知った紗羅は右眼を閉じる。穏やかな暗闇に視界が包まれた。眠っているような感じがして気分が安らぐようだった。明瞭だった意識が少しずつ拡散してゆく。左眼――だったモノ――に冷たい刃が突きあたるのが微妙に解った。最早何も映さず僅かな痛みを伝えることもないまま、紗羅の左眼がその眼窩から取り外されていく。
「きっと、不器用だっただけよ」
誰の声だろう、といぶかしんだ彼女が、それを自らの発した自然な言葉であったことに気が付くまでには然程時間はかからなかった。
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