焔紅月/8
喫茶<BIRD>。薫行きつけの喫茶店である。それは街外れの住宅街の一角、少し奥まったところで、木立に紛れるようにしてひっそりと佇んでいた。生垣に囲まれ黒い光沢を放つ古びた壁と、ステンドグラスのはめ込まれた窓。西洋風の小さな家屋といった風情その店の庭には鮮やかな花々が咲き、屋根の上には芝生とシロツメグサが飾られている。炎天下、然しそこに漂う空気だけは不自然な程に涼やかである。
薫は、“CLOSED”の札の掛けられたドアを開けて店内に入る。仄明るい、清涼感のある空気が満ちていた。客は誰もいない。カウンターの向こうでグラスを拭いていた壮年の男が、静かな会釈で迎えた。
彼女がテーブルにつくと、ウェイトレスがアイスティーを出した。ラン、と氷と氷のぶつかる音色がした。注文の応答も一切ないままの静かな店内のなかで薫は紅茶に口をつけて一息つく。
まもなくして、長身の女が来店した。金髪にサングラスが印象的な彼女は真っ直ぐに薫の前に座る。
「お待たせ、薫ちゃん」
明るい声色だった。サングラスを外すとその青い目が明らかになる。顔立ちも日本人のそれとは遠く肌の色素もまた薄い。
「今日は特別暑いね。こんな日が得意な君が羨ましいよ、エマ」
エマと呼ばれた金髪の彼女は汗ひとつかいていない。対して薫はと云うと、この暑さのなかバイクを飛ばしてきたせいで身体が火照って仕方なかった。
エマの前に薫と同じアイスティーが置かれた。ウェイトレスは同様に無言のまま、エマだけがこの空間に不釣り合いな騒がしさと快活さを持っていた。
「不知火なんてネーミング、悪趣味だってさ」
「あっはは、私は依頼人の呼び方を引き継いだだけですー。私の趣味なんかじゃありませんー」
薫からしてみれば、エマがこの件の依頼人に過ぎなった。その裏側で何が依頼していようと特別、興味も無い。概ね察しのつく範囲ではあったが、不知火と云う古典的で日本的な呼称をわざわざあて嵌めるあたり、エマにとっての依頼人が何者であるかは検討が付いた。
「私もこればっかりは紗羅に同感。ニュアンスは大体解るけどさ、何でそんな俗っぽい呼称に落とし込むのさ」
俗っぽい、と云う表現は薫では無く紗羅の口から飛び出したものだった。新しい腕が馴染んで動くようになるまで寝台の上から動かないようにと厳命した薫だったが、その分、紗羅は口ばかりを動かしていたのである。
「……ニュアンス?」
エマは大きな眼できょとんと薫を見つめる。
「あー、エマにはわかんないか、うんうん」
「何それ、薫ちゃんウザい」
シニカルな笑みを浮かべて頷く薫にその真意を応える気は全く無かった。エマが幾ら口を尖らせようとも、彼女から受けた依頼は妖の討伐であって調査では無かった以上、不知火が何の目的で火を放って回っていたかなど仕事の範疇では無いのだった。
ちょっとしたイレギュラーで知ってしまった説話のような代物に、薫には思えていた。
「ありがとう、これでもオブラートには包んだんだ」
その上、もとからこの二人の対話はこの調子なのだった。エマもおどけて見せているだけで薫の云わんとしていることのだいたいは理解しているのが常である。
「……報酬はきっちり払いますので、約束通りで良いのよね?」
訊きだすことを諦めて、エマは薫に確認をとる。旧くからの友人でありながらも、仕事上の関係となると何処となくよそよそしさがあった。
「ああ、うん。紗羅の戸籍、帰属、生存の保障」
「生存――?」
「生存」
「存在の保障ではなく?」
「勿論。紗羅はひとりの人間だからね」
丁寧に敬語を使うエマとは違って、薫は自分のペースを崩さない。生き物とそうでないモノとのあいだにある筈の違いは実際、曖昧なものなのだろうと紅茶を口に含みながら考える。他とは違う霊義肢のカラダであっても人間のように思える、それだけのことで薫は紗羅を人間扱いすると決めている。
「――R型が、ねぇ。ま、どっちでも良いや。私たちは監視し続けますので、そのつもりで」
「勝手にどうぞ。云っておくけれど、あんな跳ねっ返り、手懐けようだなんて思わないほうが良いよ」
「わかってる。でも参考にはする。ほら、何とかは飼い主に似るとか」
「あのな、私は飼い主ではなくて、創り手なんだけど」
「似たようなものよー、たぶん……だからR型ってトコだけはデータ取らせて、ね?」
素っ気ない風でいて、薫はエマを少し睨む。エマはそんな厳しい視線など意に介さないふりをして笑顔のまま手を合わせて頼み込む。
「ほら」
根負けして、薫はUSBメモリを一つ、机の上に置いた。
「わあ薫ちゃん優しい大好き!」
「ああ、うん。じゃあ今日はここまで」
欲しい玩具を与えられた子供のような無邪気さで机越しに抱き着こうとするエマを、薫は冷徹にあしらって席を立つ。紅茶代を机に置くと、そのまま出口へと向かった。
「……今度はプライベートで会いましょ?」
少しだけ低めな声が、薫の背後からした。
「仕事絡み以外で? 暇が出来たら、良いよ」
薫は調子を変えないまま、重い木のドアを開けた。息苦しいまでに暑い夏の空気が、蝉の声で震えていた。
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