焔紅月/6

 煌々と、紅い焔が夜空を焦がしていた。

 既に周囲は騒然としている。近隣の住民が何事かと飛び出してきたのだ。叫び声もそこかしこで上がっていた。

 炎のなかから勢いよく何かが飛び出してきたときの悲鳴は、最早絶叫に近かった。それは二階の窓を突き破って道路へ飛び降りたのだった。寝巻のまま身一つで必死に飛び出してきたのである。その人間は焼け焦げた服のまま、道路でうずくまって動かなくなった。何人かがその男に駆け寄る。

 ……人家、としか思えない。

 紗羅が向かった先は、明らかに人が住んでいると思しき家である。二階から落下してきた男が呻いた。まだ、まだあのなか……まだ……。

「どうして」

 紗羅の口をついて出た言葉がそれだった。火の手は勢いを増して、今にも隣の家へと燃え移ろうとしていた。折しも風が強い夜、隣の庭木には既に小さな火が燃え移っていた。隣人と思しき中年の女性が金切声をあげて何やら訴えている。スマートフォンを持って、家が炎に蹂躙されている様子を撮り続ける青年もいる。野次馬の誰もが騒然としている。遠くからサイレンの音が響く。

 まだあのなかに人がいる、と誰かが叫んだ。

「どうして。人を焼かないんじゃなかったの」

 薫の嘘つき、と問いかける言葉の行方は空虚そのものだ。応える声がある筈も無く、求める理屈も決してありはしない。けれど紗羅は、その焔に強い意思のようなモノを感じていた。間違えて火を放ったのでは無い、偶然火を着けたのでも無い。

 そして紗羅はその野次馬のなかに、あの異様な気配を感じ取っている。

 その気配は動かない。自分の焔を眺め続けている。動転した群衆、興奮した野次馬のなかでやたらと冷静なその姿を素早く探す。

 ……一人。虚ろな瞳で焔を視つめ続けている少女がいる。

 既にその生命は途絶えている。にも関わらずそこに立っている。重苦しい影に、立たされている。

「いた」

 言葉より先に紗羅は一気に駆け出す。誰にも聞こえない筈のその呟きに、その少女の屍は弾かれたようにして駆け出した。紗羅はソレを追い駆ける。

 美優があの焦がされたエクリクルムの欠片をその霊眼で視定めると、すぐに凡その居場所が判った。とは云え、病室からどれほど離れているのか、どの方向なのか、その程度の情報にしか過ぎない。

 けれど紗羅が勢いよく走りだした頃にはもう、夜空には煙が上がっていたのだ。紗羅が病室を出る前に、美優はこう言葉をかけていた。

「その妖は絶対そこに残るよ、だって炎を見たいんだから」

 美優にしては珍しい確信のある強い口ぶりだった、と紗羅は思う。そしてその確信が正しいものと気が付くまでに、そう時間はかからなかった。煙と異様な紅色の光が迫るなかで、紗羅は最初にあの放火魔に気が付いた時と同じ、厭な感じを鋭敏に察知していた。近づけば近づく程に濃くなるその感じは、左手首に強烈な熱を生じさせていった。焦げているのではなくただ熱い、それだけのこと、そう割り切ると最早その感触は目的の妖との距離が確実に縮まっていることを伝えてくる有益な情報源にすら思えた。

 駆け出した二対のヒトの形は、けれど常人ではありえない動きで路を駆け抜ける。

 人と人とのあいだを迷いなくすり抜けていき、その様子が誰かの眼に止まることも無い。決して注目を浴びない疾走は、例え曲がり角に差し掛かろうとも一切の減速を認めなかった。生身の人間ならばとっくに足首の腱や関節を痛めて動けなくなるほどに、その両脚は常軌を逸した速度で回転し、地面を踏みしめて方向転換する。

 躰のことを考えない、一切が合理化された動き。

 カマイタチにも似た風が空を裂く。

 と、歩いた傍から火の手が上がった。子供の背丈程の火柱。

 ……炎、だけでは無い。その横からは紗羅よりも大きな火柱が立つ。

「何で、何で――!」

 合理化された疾走に炎の足跡が描かれる。ソレは道路のアスファルトを焦がし、雑草を焦がし、偶々近くを通り過ぎただけの人を――。

「どうしてよ!」

 紗羅は駆けながら、我を忘れてそう叫んでいた。叫びながら息を切らさずに駆け続けた。

 そのヒトの形をした二つは、それほどに走っていながら息を切らすことをしない。――そもそも息をすることを知らない。

 誰も殺さないと薫は云っていたのに。誰も焼かないと聞いていたのに。目の前の現実と紗羅の思考は決定的に異なっている。にも関わらず、追うその背からは昨夜と同じ気配を感じる。

 ……同じ、だけれど違う。楽しんでいる……のではなくて、もっと別の……。 

 五つ目の火柱が上がった。

 紗羅の背後からは惨たらしい叫び声が響いてくる。助けることなど考えられない、燃えた瞬間に既に手遅れな程、その炎は暴力的である。なのに――その暴力からは何故か、そぐわない何かを紗羅は感じ取っている。

 次第に人通りの無い、家すらも無い山道へと屍は入っていく。けれど周囲の木々に炎を撒き散らす様子は無かった。それどころか燃え尽きてしまった灰のような印象に変わったように、紗羅には視てとれる。

 物質である肉体に限界はある。造られた肉体と、ただの屍。

 どちらが先に限界を迎えるか、紗羅には最初から解っていた。追いかけられる少女はただの人間の肉体、追う少女は最初から人間離れした仮の肉体。

誰もいないU字カーブの手前で、屍は唐突にその動きを止めた。ガッ、と強すぎる足音でその場に踏みとどまる。止まる時ですら一瞬。

 距離を縮めきっていた紗羅は、駆けながら背の霊刀を抜き放つ。一本の蒼白い閃光がその屍の首筋を一息に薙いだ。

 ……手応えは無い。

 肉は斬った、骨も断った。けれども妖を斬ったあの感触が無い。ぬるりとした触れない気色悪い――あの靄のような――。

 斬り抜けた先で、紗羅はふと眼前の景色を認識する。

 紅い。紅い焔が夜の街を彩っている。

 背後の蠢く気配に、一瞬反応が遅れる。

 ……この場所、あの燃えている家の目の前。ここから景色を視たかった。感じたかった。そう、この焔を、夜空を無理矢理に照らす紅色。真昼の暑さより烈しい熱さ。この焔たちを。

 刹那的なその嗜好が紗羅の意識にのぼった時間はたった一秒に満たない。そしてその意識は紗羅の認識から逃げ水のようにして消えてゆくと、それを追いかけた意識が紗羅を背後の気配を認識させる。

 其れが何かを視る前に、霊刀が振り向きざまに振られていた。

 紗羅の首に、何かが絡みつく。其れは完全に霊刀によって断たれているにも関わらず、紗羅の首を焼け焦げた腕が締め付ける。

「――ッ」紗羅は其れを咄嗟に握り締める。掌が焼けることを認識する。だが、それ以上に首が焼けている。焼け爛れる臭気がずっと強く、間近に感じられる。

 辛うじて霊刀を右手だけで正面に構え直して、屍を――妖を視た。

 その屍の首から上は無い。頭は完全に断たれて道路に転がっていた。表情は無く、ひたすら惰性的にくすんだ色の血を流している。首からは血が静かに零れていた。とっくに死んでいたその肉体、血を勢いよく吹きだすことなど忘れてしまっている。

 そしてその屍の背後に、もう一つの姿が――焼死体が佇んでいる。両腕を失ったその黒い人影が、屍の肉体を支えている。

 其処に、人は居ない。

 在るのは、ただヒトの形をした何モノかが一対。

 いつ飛び掛かられても良いよう、紗羅は身構える。細くとも霊刀を構えるには片腕で充分だ。けれど首からあの腕が離れない。どれほど力いっぱいに引き千切ろうとしても、まるで意味を為さない。

 ……隙だらけだ、あたし。

 声に出さない独白は頭のなかですら震えている。いつ目の前の妖が次の仕掛けをしてくるかも解らない。絡みついた手は決して緩まない。いつ炎に包まれるかも解らない。

「この、忌々しい……!」

 締められた首から吐き捨てられたその言葉は、けれど言葉だけが捨てられたのでは無かった。

 ……なら、首が焼け落ちるその前に、焼き殺される前に――。

 紗羅は、何事も無かったかのように両手で霊刀を握り直した。シュゥ、と首筋から蒼白い煙が立ちのぼる。……熱さは、わかる。けれど熱いとは感じない。痛みは危険を伝える情報に過ぎない。ならば……ならば、その情報を正しく使うまで。

 醒め切った思考が、紗羅から人らしさを奪っていく。一切の感覚を捨てて、目の前の妖に集中する。熱いことそのものに知らないふりを決め込む。

 ……ああ、そう、あたしはなかなか燃えないのね。そうで無いならとっくに昨日燃やされていたでしょうに。

 妖は動かない。ただそこに佇むだけである。

 紗羅は一気呵成に踏み込み、詰める。切っ先が屍の心臓を貫いて、妖へと――。

 首を絞めていた妖の腕が、突如、灰になって砕けた。視界を覆う黒い靄が切っ先の行方を眩ませる。僅かに妖を突いただけ、紗羅は力の抜けた肉体を足で蹴って刀をその心臓から抜いた。

 途端、鮮血が、紗羅の黒々とした熱い視界を染めていった。焔が雨のようになって眼球へ直接降り注ぐかのような光景を、紗羅には視えた。

「――ッ! 何よ――この――」

 人形が吼える。奪われた視界が灰と血で焼けていくのを視る。ソレは真っ赤に燃えながら、紗羅の左眼を直撃する。痛みが強烈なまでの苦しみになって、紗羅の左眼を焼き尽くしていく。認識するだけで感じない、そんな醒めた思考すら既に無くなっていた。

 ……熱さだけは、あたしにももう解る。解ってしまう、熱いことを感じてしまう。

 闇雲に刃が振られる。感覚の無い躰でも、既に紗羅は熱さと云う感覚を認識出来てしまっていた。熱いことを理解した――それは壮絶なまでの苦痛である。

 右眼だけが妖の不確かな姿を捉えていた。夜の闇のなかに溶けゆくその姿を、掠める刃がその場に引き留める。

 ……あの時、左腕を掴まれて。紗羅は感覚としての熱さを知ってしまった。あの瞬間、熱さだけが絶対の感覚になった。どうして。どうしてあたしはあの時。

その記憶が紗羅の意識そのものを直に焼いていく。

 そうやって悶え苦しむ紗羅を、妖は落ち窪んだ眼窩から見据えるのみ。振られる刃に合わせて、音もなくステップを踏む。規則正しいその動きは、さながら二人で踊っているかのよう。付かず離れず、絶妙な距離が保たれる。

 妖は、霊刀に浅く斬りつけられる。

 ……炎の壁。絶叫。金属の、プラスチックの、ゴムの――それから生身の焼かれる臭いたち。熱い、熱い。

 刀が再び、妖を掠める。焔のように鮮烈な紅色が飛び散る。踊りは終わらない。

 紗羅の視界は二つに割れていた。ひとつは妖を、夜を視定める眼。もうひとつは灰に焼かれた紅の幻想。世界が二重に視えてしまっているのだった。

 ……身体は動かない、脚も、腕も無い。視界は地面すれすれにある。その場で倒れ伏している以外にどうすることも出来ない。ただただ焼かれることを待つのみ。ただここで焼け死ぬだけ……違う、違う!

 幻想とは裏腹に、その場で霊刀を握る紗羅の動きは鋭さを増す。掠めただけの妖の身体から灰が飛び散る。刃を躱し続けることは無く、一太刀一太刀が確実に焼死体を抉ってゆく。

 ステップが遅くなる。ゆったりとした動きに変わる。まるで、斬られることを待っているかのように。

 窪んだ虚ろな眼窩を視定める。一歩、鋭い。

 ……巨大な炎の塊が、またひとつ目の前で上がった。断末魔は別の断末魔に掻き消される。火のついた人間がすぐ目の前に転がった。燃える顔を、あたしは知っている。この顔をあたしは知っている。

 眼窩を霊刀が捉えていた。既に失われている右眼を貫いて、焼け爛れた頭蓋が割られる。

 ……ああ、そう。そうなの、この視界は……この焔は…。

 妖の踏んでいた無音のステップが、くるりと惰性で回転をするのを紗羅は右眼で視る。終に刃は焼死体の頭蓋を叩き割った。悲鳴は無い。そのまま刃は妖を縦に両断してゆく。

 ……烈しい炎のなかでひとりだけ、何事も無いような素振りで此方に歩を進める姿があった。降りかかる火の粉を払おうともしない。しかしその姿が炎に包まれることも無い。その手には紅に照らされる一本の銀が握られている――霊刀。あたしのそれと同じ、尋常ならざるモノを断つ刃。

 あたしが、あたしを視ている。

 ……ようやく、燃やす意味が解った。

 霊刀が、妖を二つに断ち斬った。

 熱を伝えられた人形と、痛みを伝えられた妖の残骸が、其処にあるのだった。熱は焔によって、痛みは刃によって。

 冷え冷えとした月が、妖の灰を蕩けさせていった。

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