天使の生まれた夜/3

 影の雫の小人たちが口ずさむ。

「死体か」「屍か」「死体だ」「否、否」「生者だ」「人だ」「生きている」「否」「死んでいる」「あァ、生者だ」「死者」「生者だ」

 ――死した、生者だ。

「生者だ」「生者だ!」「生きている。生きている!」「身体だ」

 影の小人が廻り踊る。声音は多様、老いて嗄れた声、清く細長い声。小人たちには貌が有る。外見には区別がつかないその個々を、紗羅の眼がそれぞれ判別する。深い藍と紫の影、その中でちらちらと瞬く光。夜の空がこの陰に映されている。雨雲に隠された、有る筈も無い、妖しく煌めく星空が。

「死んでいる?」「ええ」「生きているよ」「死者」「骸だ」「肉か、肉では無く」「人」「身だ」「身体だ、身体」「死んだ身体だ」「喰う」「喰う?」「あァ、あ」「喰う」

 声音がひび割れる。割れた声は形を為さず、狂騒のみが小人たちを乱す。混ざり、溶ける。天井から、更なる雫が滴り落ちる。震えた影たちが生まれ落ちる。生まれては、乱れ、溶け合い、影が影を奪い合う。その狂乱の中、唯一。

 ――死した、生者だ。

 その音色だけ、一切を飛躍してこの闇を貫いていた。

 紗羅は胸の奥が疼いている事を知った。肩が震えて脚が引きつける。彼女は夜道を駆け始めたときの事を想起した。躰の感触が似ているのである。似ているだけで同じでは無かったが、躰の奥底から何ものかが湧き上がっていた。彼女は小人たちの狂騒を視ているだけだったが、小人たちが自らに向かって口々に喚き、争っているコトを知っている。だが、その事実から湧き上がる何ものかは、決して恐怖では無かった。次に襲ってくる未知の現実に対して、彼女はある種の挑戦的な気分になっていたのである。

 影の雫が次から次へと天から滴る。その粒はだんだんと大きくなった。小人たちをめがけて、一際巨大な塊が落下する。半球形のゲル状に広がったソレは小人たちを押し潰すと、周りの小人たちへ、手も指も無い不格好な腕を何本も伸ばして捕まえる。影の小人たちが、より大きな影の塊に狩られてゆく。

 この光景に、彼女はいよいよ明瞭な意識を宿した。

 塊は群体。故に猛り、吼える。カタチを潰された小人たちが未練に嘆く。浮いては沈む貌、腕、脚。

 言葉無き叫喚が其処にある。

 今や激しく降っている雨に打たれて、たった一つきりになった影の巨体が身を震わせる。無数の波紋がその表面を飾っていた。

 ――死した、生者だ。

 小人たちを取り込んだソレは、既に正しくヒトのカタチを成してはいない。辛うじて判別出来る頭や腕は凹凸に過ぎず、先端は潰れている。足は無く、常にそのカタチを波打たせた胴体で這いずっていた。ヒトのカタチになろうとしては崩れるその様は、蛞蝓が無理に立ち上がろうとしているかのように不自然さであった。

 一瞬、ほんの一秒にも満たない、その瞬き。

 少女が、跳ね上がった。死体よりも動く事を拒否したヒトの姿が、内包されていた野性的な瞬発力に突き動かされる。

 抜かれた刀が雨粒を斬り裂いている。彼女の切っ先には、僅かな震えすら無い。真っ直ぐに、妖の胴を薙いでいる。藍と濃紺の光沢を放つ影の飛沫が、金色の星屑のようになって黒と群青の昏闇を彩る。

 赤色の眼が、眼前の妖を捉えて離さない。素足が泥を掴む。認識と一致して躰は動く。妖を斬ったその刃に、影の飛沫が吸い付いて沈んだ。柄から右手へ伝わる妖し気配を、紗羅は雨を受ける渇いた大地の如く貪欲に我がモノとする。

「あァ、そうだ――は、残――故――」

 妖の声が重なって割れ、紗羅には聞き取れなかった。ひとつの塊でありながら、其の塊に詰め込まれた影たちがせめぎ合って、凡そ尋常ならざる咆哮であった。けれども傷つけられたコトによる苦悶では無かった。むしろその逆のように紗羅は感じた。

 今や、彼女の躰はしなやかに稼働していた。左手に鞘を持ち、右手で大振りの刀を抜き放っている。腰を落とし膝を曲げ、身の丈を超える相手を低い姿勢から視定めていた。

「――死した、生者――かつての死者――」

 妖の声が少なくとも耳障りな響きであるコトは、間違いなかった。紗羅にとっては、この妖の発する何ものかを理解する必要があるとは感じられなかったのである。大きく裂けた胴体から影の飛沫を撒き散らしながら、そしてその損傷を以てしても止まるコトを知らず紗羅に向けて潰れた頭をもたげ腕を伸ばしながら、ソレは紗羅に向けて音無しの声を発していたのだったが、彼女は黙って、寸胴な首を斬り払う。

 彼女はその躰で知る。細かな霧のような柔らかな空気と、透き通った水晶のような雨が散りばめられた、美しい夜を。初めて知った夜の景色に瞳は爛々と輝く。

 次いで腕を、それから腕に成り損なったの突起を。振るわれた刀が夜を鮮やかに彩り、影の飛沫が其の身に沈む。

「――眼――故の――殺し――」

 苦悶は最早、紗羅には届かない。

 斬り裂く感触に躰が戦慄く。昏く、鮮やかな闇。相反する要素を紗羅の眼が視る。紗羅の認識が思考を刺激し、思考が躰を動作させる。

 脚に凍てつく感覚と焼けつく感覚を同時に覚えてやっと、彼女は刀を止めて自らの足元の状態を気に掛けた。足元では、妖から融け出した影が、蔦のように足首から太腿へと絡みついている。生白い脚の表面はそのままに影はひたすら影でしか無かったが、その影こそが紗羅の痛覚を刺激していた。 

 彼女は、知らず、妖の其の影へと踏み込んでいたのである。ざらついた泥の感触はいつの間にか消えていた。彼女は妖の影の中に自らの脚を視る。足首から、やがて太腿が露わになる。白く、細く、無機質な脚が、影の海の中で立って居る。紗羅は紗羅の脚が紗羅に向けられる様を視る。足元に広がる影の海、或いは沼が太腿あたりまでせりあがって、紗羅の脚を失わせている。彼女の脚は影と同化し混ざり合って、彼女のモノでは無くなっている。

 ……違う……違う!

 消失している――筈の爪先で、地を蹴り上げる。

 彼女は鞘を捨て、両手で刀を上段に構えた。妖の脳天をめがけて刀を振り下ろす。叩き割るかのような一撃は、再び妖し気配を飛び散らせて、刀の柄から彼女の掌、肩、それから躰の奥底へと染み入った。充ちてゆく感覚に彼女の躰は軽くなり、躰ごと刃を埋めて、妖を至近距離から仔細に視定める。かの妖の中央に、赤黒い渦が在るのを視る。其の渦が、影の群体を繋ぎ止めている――渦に捕らわれ妖の裡でもがく、影の小人たち――紗羅はソレを力任せに断ち斬ってゆく。

 ――たったひとりが、影の渦に立って居る。

「どうして」問は、紗羅に向かう。「どうして? ねェ、どうして、どうして?」繰り返される問は虚ろ。紗羅は刀を振り下ろす。紗羅は紗羅の姿を視ている。鏡写しになった姿がひたすら問い掛ける。紗羅は応えを知らない。問う必要すら解らない。彼女は彼女の裡の衝動に動かされている。衝動の為に動いている。その衝動が何ものであるかを、紗羅は知らない。……どうして。どうして?

 首が斬られて景色が傾ぐ。胴体は真一文字に割かれて、中身を零していた。白い肉体、薄紅色をした繊維の束、銀色の螺子と歯車。紗羅は、紗羅の壊れた肉体を視ている。

 刀が、此方へ振り下ろされる。紗羅に向けて、紗羅が刀を振り下ろして居る。

 ――止められない。止まらない。

「此処に居たか」

 紗羅の頭が影に埋められようとしたその時、そして紗羅が妖の一切を断つ――紗羅の一切が妖に喰らわれるその前に、或る一人の女の声が彼女の耳に届けられた。

 後頭部を乱暴に掴まれる。寸でのところで、紗羅の躰は妖の裡から勢いよく引き剥がされた。バランスを失って背中から倒れ込みながら、翠の冷たい眼と紗羅の視線が重なった。投げられるかのように手放された紗羅は、後頭部から肩にかけてしたたかにコンクリートの柱に打ち付けられた。

 すらりと伸びた背に、濡れそぼった黒いブラウスとダークブラウンの長い髪。

 のたうつ妖の後ろから新たな影が出で来る。新たに現れた影には、しかし定まった輪郭があった。其れはヒトをすっぽりと覆うくらいの大きさの長細い五角形であった。

 ラン、と鋼の音。

 影の正体は棺であった。留め具が外れて蓋が開くと、影の雫で出来た妖を後ろから一気に呑み込む。

 ラン、カラン。

 紗羅の前には、女と、紗羅よりも大きな棺とが静かに佇むのみであった。役目を終えたと云わんばかりに、その蓋はすぐさま閉じられる。影の雫の一滴すらも残されては居ない。

 棺の後ろから伸ばされた鎖がひとりでに女へ巻き付いて、彼女は棺を背負った。一連の棺と鎖の動きは重さを感じさせず、流れるように生々しく、何ものかに動かされているかのようだった。紗羅はその棺を掴むほっそりとした指を視た気がしたが、確かには視なかった。視たと思った瞬間に視えなくなるその指は、陽炎のように揺らいだ印象を紗羅に与えた。

「お前、探したよ。其の躰で逃げるとはね。私の見立てが甘かったようだ」

 振り返った女の方に揺らぎはない。眼の奥に翠の輝きを秘めて、紗羅を睨みつける。けれども紗羅は立ち上がりもせず見上げるのみであった。その眼に感情は何一つとして込められてはいない。瞬きすらもしていない。

「素っ気無さは変わらずかぁ。

 ――お前は何者だ」

 女に問われて、やっと、彼女はそれまで総ての問を無視していた重い口を開く。

「紗羅、よ。冷たい葬儀屋さん」

 その声は携えた刃の光よりも冷たく凛としていて、まるで相手を斬り払うかのようだった。けれども女は一拍遅れ、弾けたように笑いだした。

「ふふ、ふふふ。そう、紗羅、紗羅……へえ、その名前なのか! 何処の泥棒猫かと思っていたが、そうか、紗羅と名乗るか!」

 場違いな低い笑い声を響かせながらも、表情は一切笑ってはいない。錐のような視線が少しばかり緩められた程度である。紗羅は女の急な反応に困惑していたが、女の方はそれ以上に驚いていた。

 それでも、紗羅に向けて手は差し伸べられた。

「こんな棺桶を背負っているけど、葬儀屋なんかじゃあ無いよ。義肢を、躰を造っている。私は白羽薫。まあ、好きに呼んで。紗羅」


 七月も近い、雨に沈んだ夜の街にて――紗羅と薫は出会った。

 

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