天使の生まれた夜/4

 帰ろうか。

「何処へ」

 お前の……いや、君の家へ。

「それは、何処」

 ……それは、何処。

 尤も仮住まいかもしれないけどね。そうぼやく薫の口ぶりは幾分か柔らかくなっていた。

 庭に向いた大きな窓から、朝を告げる気怠い陽射しが迷い込んでいた。陽射しを避けて片隅のソファに転がる人形の口が動く。刀をかき抱くようにして躰を丸めていた。

 この家が、紗羅の家なのだと薫は告げた。薫にとっての家であり、紗羅にとってはこれから家になるのだと。

 夜も深くなった頃に、紗羅と薫は、彼女たちの家へと帰り着いた。荒れた古い洋館である。手入れの行き届いていない広い庭で伸び放題になっている背の高い夏草。真夜中の屋敷は、灯すらまばらな寂しい通りのなか、やたらと存在感を失わせた不気味さを際立たせている。

 ――覚えていないのか。

 屋敷の書斎に紗羅をあげる前に、薫は淡々と尋ねた。

「少し、思い出したわ」

 うっすらと蘇る記憶に、この屋敷は存在していた。曖昧で断片的であったが、この屋敷の一室で寝かされていたようであると気が付いた。この場所から、紗羅は着の身着のまま、夜に彷徨い出したのである。

 壁には背の高い本棚がずらりと並べられ、部屋の中央では仰々しく鎖に絡めとられて棺が吊り下げられている。黄ばんだシャンデリアに古めかしい模様の入った天井。紗羅が躰を沈めるソファの前には本と書類と埃が積み重なり、薄っぺらいテレビが申し訳なさそうに画面を覗かせる硝子張りのテーブル。この部屋の奥、入り口から最も遠いところには半楕円形の書斎机があり、硝子張りのテーブル以上に散らかっている。その横には無機質な黒い寝台と金属の器具が整然と並べられたラックが置かれ、そこだけ病院の診察室の一角を彷彿とさせる場違いな雰囲気になっている。窓に向かってカンバスとイーゼルが幾つか並ぶ。

 中央の棺以外にも、用途不明のオブジェクトが、無造作に配置された棚や、黒ずんだ絨毯の上そのままに転がっていた。配線が束になって伸びる黒い箱、それに繋がる頭の無い精巧な人体模型、球体関節人形――とその一部――所在無さげに床から伸びる折れ曲がった大小の金属柱。開けっ放しのダンボール箱たちには厳重に梱包された跡が伺える。

 それ以上に異質な物かもしれないと、紗羅は自己の躰を考える。

 ――どこまで覚えている。いや、忘れている?

「眼――冷たいその眼、翠の光」

 ――それ以外は。それ以前は。

 ……わからない。

 記憶は、無かった。眼の光。ぼやけた天井の模様。銀色の光。ちらちらと瞼の裏で点滅する景色は、この書斎から遡る事が無かった。

 ――死んだ事は。

 ……わからない。

 死んだ? 紗羅は頭の中で反復する。耳に残る響き――死した、生者――記憶は無く、忘れていることすらわからなかった。けれども、紗羅には、死んだ、と云う単語とその概念が気味の悪い程にしっかと己に嵌り込むのである。

 脳裡に焼付いた薫の眼。紗羅が妖の裡から引き摺りだされた時に視た、玲瓏で異質な輝き。

 ……殺されそう。

 その時、彼女はそう思った。極限にまで引き絞られた弦のような意思が宿った瞳が、紗羅を、まさに殺さんとしているかのようだった。蠢く影の雫の妖を前にしたあの瞬間ですら、その瞳は妖など収めていなかったのである。

 ――お前は、何者だ。

 或いは、この問の次の瞬間に、紗羅の頭をあの大きな手が掴んでいたかもしれなかった。そう、彼女には思えた。だがそれ以上に感じるものは有り得なかったのである。喩えその女の手で殺され、壊されようと、それはそれで良かった。全く、それで良かったのである。彼女は、つとめて冷静に、己の破滅を覚悟していた。

 其処には、死に対して褪めきった自らが居た。死そのものに慣れきった自らを、紗羅は認識していたのかもしれない。

「あたしの、この、躰は」

 最低限の明かりしか灯されない書斎で、紗羅は訊いた。

 ――義体。霊義肢。さて、どう説明したものか。

 薫はくたびれたカラダを書斎机の向こうにある椅子へと乱暴に預けて、視線を空に彷徨わせた。

 ――私が、造った。私の人形、だけれど君にとってのカラダ。人工的に用意された魂の器、留められた瞬き、霊能の粋――。

 大きく息を吐き出すと、薫はそのまま黙った。瞼が閉じられ、穏やかな息遣いに胸が僅かに上下している。以降、彼女は静かに眠ったままである。彼女が造った人形の躰に宿る少女に視つめられながら。

 力の抜けた姿を、紗羅は羨んだ。何故羨んだのかは解らない。はっきりとした理由も無いまま、彼女は彼女の造り手を。

 刀を抜こうとした。

 ソファに沈んだ躰は他人のモノのように実感を伴わない。紗羅は紗羅の躰を自らの躰として認識はしている。認識しているのだが、そこには不自然なズレが生じている。腕を、脚を動かせば、己が躰の中を伝って歯車と歯車が回る些細な異音を認識する。泥に汚れたままでも気持ちを悪くせずそのままにしている。至る所に擦過傷が出来ていて常に痛みを伝えてくるが、それ以上に痛みに対して紗羅は頓着していない。痛みを知っても理解していない。そしてその状態すら、紗羅は一歩引いているかのように認識している。

 夜明けが近づけば、紗羅の躰は重くなった。明瞭な意識に霞が掛かり、姿勢を保つ事が難しくなって躰を横たえる。

 こうなる前を、紗羅は知らない。紗羅の記憶はこの書斎の、紗羅が眼にしているあの寝台の上で始められている。それ以前について、彼女は興味を抱かなかった。己が何者であったかよりも、己が何者であるか、その事が気にかかった。

 刀は抜けない。自らについて知らない彼女は、自らをこの躰に閉じ込めたらしきひとを、不確かな動機で殺す事を躊躇う。

 ……嫉妬、それとも、怒り。

 無表情な人形は、瞬きをしないその端正な顔立ちで夜明けを待つ。無機質な、人工のカラダの奥底には決して消えない問と衝動が、烈しくせめぎ合っていた。その危うい均衡から、紗羅は刀を抱きしめて静寂を装う。彼女はこの時、己が境遇を儘に認識した。

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