天使の生まれた夜/2

 街には霧が覆い被さり、陽は仄明るく霞んでいた。行き交う人たちは忙しなく、鋭い足音が響いていた。陸橋を電車が轟音と共に走り、道には進藤町の車両が列をなしていた。夜から表情をすっかり変えた騒々しいこの街へ、紗羅は彷徨い出ていた。溢れ返った音がその頭を砕きそうに思えて、彼女はその場からなるべく早く離れたかったのだが、歩けば歩く程、音と人、そして光が溢れた。整然と並べられた街路の緑には生気が抜けていて、紗羅はそこに自らに似た姿を見出していた。時折、歩みの不確かな彼女に、しかめっ面をした人間の肩がぶつけられた。彼女はその度にバランスを崩し或いは片手を地につくのだったが、その姿を見ようとした者は居なかった。

 紗羅には、この朝の陽射しが夜の昏闇よりも見通せないのである。

 視界は白。躰は重くなるばかりで、平衡感覚も危うい。彼女には汗の一粒すら無縁である。足の裏が熱いアスファルトに焼ける。熱は躰の中へ中へと篭るばかり。夜が恋しかった。月明かりをいっぱいに浴びたかった。さもなくば、せめて陽の無い場所へゆきたかった。

 古い洋館のイメージが、紗羅の脳裡をよぎった。殆ど明かりの無い散らかった部屋。固い寝台。それから――覗き込む冷たい眼――。そこから先を思い出そうとして、彼女は自らの首を締めあげられる心地になった。息をしない彼女が、有り得ない苦しみを認識する。それはただの情報に過ぎず、感覚からは程遠い。目の前の現実が白く塗り潰される事、それだけが今の彼女にとっての現実である。強烈な陽射しが霧を払い除けてゆく現実。霧の白が薄らぐにつれて、陽射しの白に彼女は眩む。

 砂埃に塗れながらやっとの思いで、あの天使のあしらわれた時計台にまで帰りついた。そこは廃れたアーケードの出口で、疎らながらも往来があるのだが、一本だけ、一日中陽の差し込まない路地があった。紗羅は、誰からも忘れられたその路地へと自然に足を向けた。其処は、街のなかにあって不意に迷い着く陰の孤島であった。

 何処からともなく、踏切の音だけが届き此処で響く。

 背の低いクリーム色の廃ビル。大通りから遠く、狭苦しいなか空に向かって伸びようとし、中途半端に立ち枯れた残骸。不徹底に巡らされた灰色のシートはあちらこちらが破れ、地面は剥き出しで、大半の窓は失われていた。紗羅は、束の間の安らぎを求めて、半ば無意識のうちに、その湿った陰の下へと躰を投げ出す。ひび割れた柱を背にし剥き出しの土に身を預けた。躰は震えていた。寒いとは感じていないのに、震えは止まらない。ネグリジェの裾が乱れても彼女は気にも留めなかった。しかし刀だけは未だしっかと握り締めている。

 廃ビルの外では、夏色の空がめいいっぱい地面を殴りつけている。

 百度傾いて焦点の合わない視界の端で、彼女は廃ビルの外にいっとう黒々とした影を捉えた。人間である。傷んだ白髪を肩まで伸ばした猫背の青年であった。彼は片手に焦げ茶色の何かをぶら下げていた。その青年が廃ビルへと入ってくる。

 ぐにゃりとしたそれは無造作に揺られていて、歪んだシルエットからは、少なくとも鞄では無いと判る。その青年は逆光で黒っぽく塗り潰されていたが、そもそも黒一色の服を着ているのである。銀色の装飾が所々で光を反射させる。一見して、真っ当な青年では無いことは確かだった。けれども、彼を不良少年とするには、その覇気や活力と云ったものが感じられない。

 青年には紗羅が視えない。見ようとする意志や気力、気概が欠落しているからであった。この場では、人目を憚る素振りも無かった。青年以外にヒトは居なかった。

 彼は紗羅から一区画程離れた所にしゃがむと、手にしていた焦げ茶色の物体をすぐ目の前に投げ捨てる。

 ……猫。死んだ猫。喉の裂かれた……。

 青年はひと際鮮やかな光を放つ刃を取り出すと、慣れきった手つきで捨て置いた猫の死骸へ突き立てる。何度も繰り返された。青年の黒い服は血を浴びようと、それを些末な汚れとすら扱わない。

 紗羅はその有様を無感動に眺めていた。彼がただならぬ何事かをしている事は理解したが、それ以上の何事であるかは考えなかった。紗羅と同じように彼は表情を全く変えなかった。時折跳ね返った鈍い光沢の血を顔面に受けて頬を反射的に引きつらせるのみだった。ひたすら機械的な運動だった。視界のなかで、それらだけが動いていた。紗羅は重い躰を起こす事も出来ず、青年がナイフを振り下ろす光景を見続けた。視界のなかでそれだけが浮き上がって視えた。危うく、蠱惑的な色をしていた。

 青年がやがて動きを止めると、今度はナイフを手にしゃがみこんだまま瞑目した。急に眠り始めたかのようだった。暫く、息すらしていないように視えた。その後、彼はおもむろに死骸を摘むと、この廃ビルの陰の奥へ奥へと姿を消した。彼の居た跡には、千切れた肉と内臓が血と泥とに混ざり合っていた。白髪の後ろ姿が紗羅を見とめる事はついに無かった。彼はただひたすらに力無い足音を彼女の耳に届けた。遠くなった足音は戻らなかった。

 青年が消えてから、この陰には動きの一切が無かった。動く事そのものが拒絶されているかのようであった。唯一、光、もしくは時間だけが止まったままではいられなかったが、強烈な陽の光から少しでも遠ざかろうとした紗羅には、その程度の些細な動きは認識出来なかった。無感動な意識は濁って平坦になり、残されていた僅かばかりの記憶のとっかかりさえもが失われつつあった。視界は白一色に潰されて、青年が此処に居た事すらあやふやになっていた。彼女はそれを苦痛とは感じなかった。そうなっているだけなのである。事実に対して、紗羅は何も思わなかった。思考そのものが停止している。

 仮にも、もし陽がそのまま照り続けていたとすれば、彼女の存在はこの廃ビルの陰の一角と共に、誰からも忘れ去られ見つけられない陰と一緒になっていた。それは彼女にとってひとつの安らぎであったかもしれない。が、それは許されなかった。

 果たして、夜は来た。

 夕刻から急に降り始めた雨は次第にバラバラと大きな音を立てて焼けついた街を冷やし、紗羅の意識は幾分か明瞭になった。空を覆った黒雲は夜の訪れを早くした。陰はより濃度を増して、取り戻した視界に闇が落ちる。

 紗羅は、上方から滴る雫を視た。黒色の雫。不完全な天井から落ちる水滴と――影。彼女は、滴った雫たちが立ち上がるのを視た。小さな黒色の水溜りに跳ねた雫が、はらはらと微塵に砕けるその最中、そこかしこに滴った影の雫が頭をもたげる様を視た。

 貌の崩れた小人が嗤う。紗羅の掌よりも小さな身の丈の、てらりとした影の雫で出来た小人たち。雨粒に混じって落ちた雫は、芽を出すかのように身を起こす。嗤っている。小人たちの容貌は一様に泡立っていたが、ソレが小人たちの嗤いだった。紗羅は既に、ソレらに囲まれている。

 夜が、此処を騒がしくしていた。

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