微睡の白/7
シロツメグサの敷き詰められた中庭の先に、箱のような真新しい建物がある。コンクリート製の箱のような小屋。そのシンプルな壁は夏の陽射しが強く叩きつけられて輝き、白く輪郭がぼやけていた。
ガラスの扉を押し開けた先には、小屋ひとつぶんの空間がある。校舎にしては小さすぎる建物、普通の教室にしては大きすぎる空間、大きな窓にひたすら真白ので無機質な壁、規則正しく並べられた長机。傍若無人なまでに壁と机に散った不規則な彩りと、そこここに置かれたカンバスや額縁や筆立。人間の気配を拒んだ空間に広がる、人間の痕跡。
大きな天窓からは、屈折して柔らかくなった光が部屋いっぱいに降り注ぐ。
陽射しに溢れているのに、空気は冷たい。薫の屋敷の、使われていない部屋を彷彿とさせた。絵やら石膏像やらが並んでいるのも、屋敷の一室と同じだった。落ち着くようで、あたしは調和を乱しているかのような罪悪感を覚える。
……静か過ぎるのかしら。
タン、タン、タン……自分の足音すらやかましい。外からの音は遮断されている。
三日もすると、あたしはあの喧騒に辟易してしまった。手持無沙汰になった昼休憩、あたしは人の居ない場所を求めて、とにかく一時的にでも一切の関わりを断ちたくてふらふらと彷徨っていた。そうして彷徨っていると、この場所に辿り着いたのだ。美優も騒がしいのは苦手なようで、静かに本を読んでいたり入院中に遅れたぶんの勉強をしたりと、静かに過ごしている。とはいえ、あたしのようにアテも無くふらふらとするのはあまり好みではないようだ。
初日の、あのそぐわない感じはずっと鳴りを潜めている。長井先生も薫の事を口にしない。雪は屋敷で眠り姫を決め込んでいる薫の面倒をみる他無く、学校にカウンセラーとして顔を出すことは叶わなかった。やたらこの学校は広くて入り組んでいる。そのせいで、アテも無いままに歩き回っていれば時間は潰せた。
何も食べなくて良いあたしにとって、この時間帯は特に居心地が悪い。雅はともかくとしても、あの騒がしさのなかで何かを食べるだなんて吐気がする。食べても良いが食べなくても良い。どのみち、あたしに必要な食べ物はニンゲンのそれとは違うのだから。
ああもう、疲れたわ。
長机のひとつに腰かける。目の前の壁には大きな絵が掛けられている。
縦長の画面いっぱいに満開の桜が描かれていた。淡い色使いでぼんやりと優しく、それでいて大きな木が放つ独特の威厳と迫力を兼ね備えているようだった。点描で細かく描きこまれていて近寄って見れば桜のピンク色にも青や黄や、様々な色彩が混じり合っていることがわかる。繊細に、丁寧に描き込まれた作品だった。
壁には他の絵も幾らか掛けられていたけれど、この絵はあたしを惹きつけた。あたしがこの絵に惹きつけられたのではなく、この絵のほうがあたしを呼んだ。そんな気がする。
誰の作品だろう。どこかの画家、それとも生徒の作品? サインも無ければ名前を示すプレートも無い。舞い散る桜の花びらは全体に対して大袈裟なくらいで、そのせいか今どきの絵に思える。桜が散ることに殊更、拘っているように見えた。薫の持っている絵とはまた違っていて――。
「……気に入ったかい、その絵」
声がした方には気だるげな女子生徒。奥に続くドアに半身を預けていた。
「ボクが描いたんだ。飾ってくれてるけど、あんまり好きじゃないな」
落ち着き払った声、髪にしたってあたしと同じくらいの短さ。背もたれの無い椅子を持ってきてその上に立つと、慣れた手つきで壁から額縁を外した。あたしの座る机に桜の絵を置く。絵そのものは変わらないのに、色合いがくすんでしまった気がした。
絵に投げつけられた作者からの宣告が、その価値を一瞬にして失わせてしまう。
「綺麗なのに残念ね」
率直な感想だった。
「ごめんよ、せっかく気に入ってくれてたみたいなのに」
彼女は隣に腰かける。床から浮いた足を気ままに揺らした。
「夢で見た景色なんだ。こんな桜が本当にあったら良いのにね……」
「桜、好きなの?」
「ううん、別に。嫌いでは無い、いや、人並みには好き、それくらいだ。ここまで描いておいて大して好きでも無いだなんて自分でもおかしいと思う」
どれだけ描くのに時間をかけたのだろう。絵具が何度も細かく塗り重ねられている。ここまで絵を描ける高校生はそう多くないと思った。それだけに、たったひと言だけでその色彩を失ってしまう。
夢で見た景色。見たことの無い夢。眠らない躰には無縁の幻。
この絵の作者は窓の外を眺めていた。花壇の向こうには深緑の木立が並ぶ。景色を見ているようでいて、この景色そのままを見てはいない、そんな視線だった。あたしと同じ景色を見てはいない。
「絵、描くのかい」
こちらに顔を向けることは無かった。あたしは、いいえ、とかぶりを振った。筆をとった事も無い。絵に囲まれていると、人間に囲まれているよりも気分が落ち着くだけだった。
素っ気無い応えにも、気を悪くした風では無かった。天窓からの白い光が横顔の印象を薄くさせていて、まさに淡い色使いで描かれたかのような横顔だった。
それ以降、あたしたちの間で交わされる言葉は無かった。絵の無くなった壁と窓の外をただ眺めているだけだった。感じる懐かしさの理由を頭のなかで探っていくと、陽射しが眩しすぎて眩暈がした頃の、書斎でただひたすらに横たわっているだけの時間に突き当たった。躰が重くややもすると地面が波打ってしまう眩暈の思い出は不快なもので、こうして騒がしさから逃げられて安息を得られるこの場所とあの固い寝台を重ね合わせてしまうとは皮肉なものだ。
帰ったら薫に文句のひとつでも云ってやろう。昏々と眠り続ける薫は云い返すことすら出来ずにあたしの文句を聞かされる羽目になる。それくらいはしてやっても良い。この躰に馴染めずに動けなかった目覚めてすぐの時のことを思うと、それくらいのうるさい意趣返しはむしろ薫にとって気付け薬になるかもしれない。
四日は眠り過ぎだ。世話をする雪の身にもなってほしい。医者に診せるかどうかも判らないままだ。診せたところでどうにもならないだろうけれど、放置したままも気が引ける。こんな時の為の連絡先が用意されているかどうかすらわからないのでは、動きようも無い。
……雪は雪で慣れきっているらしい。顔色ひとつ変えないで薫の世話をしている。薫にしても、左腕が壊れていることを除けば、単に眠っているだけにしか視えなかった。実際、ただ疲れ切って眠っているだけらしい。薫が居ないとこの躰を直すヒトが居ない。そのせいでこのところ、ロクに妖狩りに行けていない。
つまり、飢えている。月の光を浴びているだけではまるで霊素が足りていない。躰の動きも思考も停滞しやすいばかりだった。屋敷に入ってからは美優へ妖が集ることも無くなって、このところ霊刀を振り回すコトが出来ないままでいる。
ああ、斬りたい。
そうだ。今夜あたりにでも出掛けてしまおうか。躰を思うがままに動かせれば、少しくらい気晴らしに――。
僅かに、チャイムの音がこの静謐に侵入してきた。午後の授業が始まる五分前を告げる合図だった。
「ああ、行くの。随分とまた厭そうなのに。どうだ、ここなら誰も来やしない」
立ち上がったあたしに声が掛けられる。このひとはここから動く気が全く無いらしい。机に腰かけたまま、そこから動こうとしなかった。不思議と、授業に出ない姿の方がこのひとには似合っているように思えた。
「あなたは行かないの?」
「行かない。ボクが行っても邪魔になるだけだろう。そうだな、また眠ってしまおうか。そうすればまた絵のひとつくらい描けるだろうし」
ガラス戸を押し開けると、蒸し暑い風がこの穏やかな空間に入り込む。
「ツガワハヅキ。ボクの名前」
昼下がりの避難場所にいたそのひとは、美術室を後にするあたしの背中に向かってようやく、自分の名前を告げた。ハヅキはその時も、全く振り返る素振りすら見せなかった。
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