微睡の白/13
「授業に出て眠ってしまうくらいなら、ここで昼寝でもしていた方が気分も良い」
授業に行かなくても良いの、と問いかけたあたしに、ハヅキはしれっとそう云ってのける。授業なんて眠たくなるだけ、この学校に入った理由もはっきりしているから、それを追求すれば良い。カンバス一面に翼を広げた黄色い鳥を描くハヅキは、それだけを注視しながら晴れ晴れと語った。
「絵を描いていられる方が気が楽だ。題材にも困らない。夢に視たままを描くだけ。つまらないものをやる暇があったら、此処を間借りさせてもらう方が、ね」
あたしは出来るだけ邪魔にならないように、ハヅキの斜め後ろの机に腰かける。授業に出ようと出まいと、この風宮ならさしたる問題にもならないんだろう。
黄色い鳥は、けれど翼が四枚。眼が四つ。背景には蒼い霞の浮かぶ夜空。生きたままを映し出しているようで、そんな奇抜な鳥が生きものでは無いコトは、姿からして明らかだった。あの桜の花びらと同じような繊細さで、羽根の一枚一枚が月に照らされたときの刹那的な色彩が、ハヅキの筆の後を追うようにして表れてゆく。
「君って、名前は?」
そう尋ねられるまで、あたしは自分が名乗っていなかった事に思い至っていなかった。
「紗羅。ごめんなさい、気が利かなくて」
「別に。ボクだってそうそう気安く名乗らないから。こっちの界隈なんかに、常識なんてあって無いようなものだからね――名前一つでも余計な意味があったりする。紗羅って名前にはどんな意味があるんだろうか」
「意味? 意味なんて……知らないわ。そう名乗っているだけ」
「ふぅん……」
あたしたちの会話はそこで途切れて、またハヅキは黙々と細かな色彩で異形の鳥を仕上げてゆく。たった一枚の羽根を描く為に、何回も細かく筆を使う。気の遠くなる作業だった。けれどもそうして、目に見えない偽物の鳥が本物の羽ばたきを宿す。鳥のように空を飛ぶ妖は視たコトが無いけれど、ハヅキの眼にはしっかり視えたのだろう。
あたしたちは、普通は知らないセカイを知っている。ハヅキもまた、そんなセカイのモノを視ているのだろう。現実離れした絵でありながら、嘘っぱちには思えない。
昨日は桜の絵が掛かっていたところに、新しい絵が掛けられていた。色彩の乏しい画面には、腕と脚。胴体や頭は無く、腕と脚が一人分、ささくれだった木の机の上で無造作に転がされている。傍らには林檎に空っぽのグラス、銀色のナイフにフォーク。血の気がの無くなった生白い肌には、けれど人間のそれを連想させる柔らかさがそのまま残っている。それなのに、グロテスクさを感じない絵だった。
「その絵もボクが描いたみたいなんだ」
あたしがその絵を眺めている事に気が付いたハヅキは、バツが悪そうに口を歪める。
「……みたい?」
自分が描いたと認めたく無いのだろうか。けれどハヅキの答えは違っていた。
「ボクはこんな風には描けないから。ボクが眠っている間に、ボクの知らないハヅキが描いたんだ。そこにサインもしてある」
少しだけ悔しそうだった。絵の右下に小さく、神経質そうな線で『葉月』と記されている。
「へえ、それで画風も二種類あるわけね」
「驚かないのか」
「そんな人間もいるんだって良く知ってるわ。家の人がそう云う症例を扱ってるもの」
「症例、ね。ボクのは体質さ」
ハヅキが知らない葉月。同じ身体でありながら、自分では知らない心を抱くハヅキ。特殊な事情の割にその語り口はあっさりとしたものだった。……霊能者、妖……認識が狂ってしまうコトが往々にしてある連中だからこそ、この手の『症例』と関わるコトも多くなる。不知火は不審火、昨夜の花は集団自殺。自分の知らない自分が居る、だなんて『症例』もある。……あたしなんか、生身の人間ですら無いのだし。
右側の翼を描き終えて、ハヅキは立ち上がると大きく伸びをした。
「あっちにもボクらの描いた絵がある。休憩がてら、良かったら案内しようか」
美術室の奥へ続くドアの向こうへ、あたしは連れられる。昨日ハヅキが出てきた部屋だった。準備室さ、と紹介されたその小部屋には、所狭しと絵やカンバスや画材道具の入った棚が並べられ、部屋の小ささ以上に小さく感じる。
其の部屋は、正しく歪んでいた。
さっきの美術室に置いてあった以上に、大量の絵が、それも無造作に放置されていた。どの絵もあの桜や鳥の絵にあった繊細な色彩の不思議なモチーフか、あの腕と脚に表れていたくすみと生々しさのある人間のような何かのどちらかが表れていた。音が無いのに、騒がしい小部屋だった。
描きかけのまま放置されている絵も多かった。写真に写されたかのように描き込まれた顔が半分、のっぺらぼうのままにされた顔が半分の絵すらあった。思い入れのある絵も多いらしく、ハヅキはぽつりぽつりと描いた時の思い出を語ってくれた。
心臓の絵もあった。生々しいピンク色をしていて、血がてらてらと光っていた。グロテスクさを感じさせる事の無い物体としての心臓は、ナマモノとしてのリアリティと、一緒に描かれているドライヤーや置時計、平積みにされた雑誌と同じレベルの物体として描かれているのだった。
ハヅキと葉月の間には、やはり決定的な隔たりがあるらしかった。
「いつも“彼女”の画力には驚かされる。そも、ボクはこんなモチーフで描こうとすら思わないんだ。一度真似をしようとしたんだが、いや、どうすればこんな精密に描けるのか皆目見当がつかない」
決して綺麗な絵では無い、人体のパーツが描かれた絵たち。絵としての美しさがモチーフから来る嫌悪感に相殺されて、それそのものが其処にあるのだと、たったそれだけの事をしっかりと主張している。表面をなぞっただけでは描けないそのものを、あたしの知らない葉月は描いている。
「会ってみたいわ。一度、“彼女”に」
すると、ハヅキは渋い顔になる。
「会う……会う、か。不思議と、ボクはそう思わないんだが」
「どうして?」
「さあ、それは解らない。“彼女”の絵は好きだ。ボクより実力もあるだろう。だのに“彼女”自身は嫌いなんだ。理由は……解らない、嫌う理由は解らないが……」
額縁に納められた、砂浜に埋まる肋骨の絵をハヅキはその細い指で撫でる。
「どうしてだろうな。ボクも知りたい。きっと、葉月もボクのコトが嫌いなんだ」
風化しかけた肋骨は昨夜の首を吊った死体たちを想起せた。命だったモノたち。
「浜風祭で飾るとすれば、紗羅ならどれを選ぶ?」
「――そうね、どれが良いかしら」
けれども、この小部屋に入った時から、半ばその答えは決まっていた。一通り見てもその強烈な印象は、その絵以上に感じなかった。他の絵が悪い訳じゃない、それでもその絵には及ばない。
「これ。これが良いわ」
一人の人間が、狭苦しい本棚に囲まれた場所で、椅子の背もたれに対し逆に依りかかっている。両腕は力無く垂らされ、背には天使のように翼が生えている。そして、その人間か、あるいは異形からは、その腹を裂いて、もう一人の血に塗れた人間が、まるで世界を求めるかのようにして両腕をいっぱいに広げて出で来ようととしていたのだった。
赤子では無い。一回り小さくとも人間そのものと同じようなカタチをしている。
産まれているとは思えない。むしろ、其れは殺している。
「この絵……誰が描いたのかボクは知らないんだ」
サインは無かった。画風も、どちからと云えばあたしの知らない葉月の方に近いけれど、この絵はむしろハヅキのそれよりも鮮やかだ。
「此処にある絵はどれも、ボクか“彼女”の絵の筈なんだ。他人の絵は無い、のに、いつの間にかこの絵は此処に掛けられていた。ボクの記憶は曖昧だ、まだらになっているから……けれど“彼女”のそれとも違う……」
ハヅキは困り顔だった。それでも、その絵を見つめる視線は何処か遠くて、自分たちの絵に対するそれとは別のモノだった。
ふとハヅキは、海の中を揺蕩う魚たちの描かれた群青色のキャンパスの横で足を止める。その絵の隣には真新しい白い布が掛けられたイーゼルがあった。ハヅキはその布をそっと取り外す。
「これは女の子の絵……? 初めて見るな」
その絵は、まだ下絵の段階だった。簡素な椅子に腰かけた少女の輪郭が素描されている。
「あなたが描いたのでは無さそうね」
少なくとも、画風は葉月のものに思える。この描きかけの作品以外に、人物画はひとつも無かったコトに気が付いた。
「――これは、もしや紗羅、君か」
……云われてみれば、この姿はあたし自身にも思える。下塗りに簡素な線だけだったが、短い髪に制服姿で自分自身の姿と同じ特徴を備えている。顔も輪郭線だけでそれがあたし自身だと断定は出来なかったけれど、否定する要素も無い。
もしこれがあたし自身だとするなら、妙にくすぐったい気分になる。けれど、ハヅキはあまりその絵のコトを良さそうに思っていないらしかった。
「ボクじゃないボクに、もう出会ったのか?」
「あたし、まだあなたじゃないあなたと会った気はしないわ。区別がついているのかはわからないけれど」
「ふむ。さあどうなんだろう。ボクとはまるで性格も違うんだが……ボクと会うのはこれが二回目かい?」
「そうね、昨日と今日、それだけよ」
「ふうん……なら彼女もまた、君を夢に見たんだろう。ボクが起きている時に彼女は眠っているのだから……ボクと同じ夢描きを気取ってるのさ」
ハヅキはその絵を哀しそうに見つめていた。あたしを描いた葉月がどんな人間なのか、ハヅキはそれ以上を話してくれなかった。
――突然ハヅキは、ハッと息を呑む。
「紗羅、その腕はどうした」
端正な顔立ちが鬼気迫るものへと豹変する。
「昨日、帰った後に何があった。“彼女”が描いていた間に」
「何も。ちょっと捻っただけよ」
あたしは咄嗟に本当のコトを隠す。薄紫の眼を持つハヅキならあたしがどうやって怪我をしたのか理解出来るのかもしれないのに、そのコトは云ってはばいけない気がした。
「すまない、もう帰ってくれ」
何故、などとは尋ねさせない。そんな口ぶりだった。
「早く」
薄紫があたしを睨みつけた。すると頭がぐらりと揺れて、床が水平では居られなくなって――やおら、絵が騒がしくなった。小部屋から追い出されたあたしに対して、古びた木が軋むような音たちが殴りかかり、眩しすぎる光の粒が雨のようになって天窓から降り注いだ。唯一まともに認識出来たのは、中庭へと続く真っ白な硝子のドアだけだった。云われるがまま、半ば締め出されるようにして美術室から立ち去る以外無かった。
気が付けば陽はもう暮れかけていた。ひんやりと陰った茂みではコオロギが鳴いていた。最終下校の時間が迫っていたけれど、校舎にはまだ消えそうに無い明かりが幾らか点いていた。
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