天使の生まれた夜/5

 陽射しの欠片に睫がくすぐられて、紗羅は寝返りを打つ。ソファの背に顔を押し付けてでも、素直に窓をすり抜ける陽に背きたかった。汚れたネグリジェの背に当たる陽射しをも、彼女の意識を乱反射させて鬱陶しかった。

 上目でちらと薫の方を視やると、首を右に傾けたまま椅子に深々と吸い込まれるかのような姿勢をしたまま、その瞼を閉ざしていた。眩しく思わないのだろうか、と紗羅は思う。薫の顔と身体、窓側半分には陽射しが彼女に寄り掛かっている。埃が白みががった金に色づいていて、この書斎にピン留めされた古い標本の蝶のような印象を抱かせる。鎖を巻き付けて棺を背負っていた、夜の冷たく無機質な彼女とは相反して、あたたかで落ち着いた姿をしていた。

 紗羅の肩を後ろから軽く叩く気配があった。この書斎には紗羅と薫しか居ない。紗羅と薫との間には、およそ手を伸ばしても届かない程の距離がゆうに保たれていた。

 ふと、そよ風が耳元を掠めた。重いものが擦れる、ぎりり、とした音がしていた。廊下に続く扉がまさに開きつつある。人の手は無い。足音も無く、然し扉は此方から彼方へ押し開けられつつある。さほど重くも無い木製の扉であったが、それがさながら鋼鉄でつくられた金庫の扉であるかのように、ゆっくりと力いっぱいに開けられているようだった。紗羅には廊下へと押し開ける華奢な手が、腕が、視えるようで視えないでいた。ソレへ焦点を合わせようとするとたちまちに掻き消えてしまう。確かである事は、その場所に誰も居ない事だった。居ない筈の誰かが、或いは何かが扉を開けている。

 扉の向こうで、ひらり。白色のワンピースの裾が揺れた――ように、紗羅には思えた。其れは、紗羅を誘うように。生温いそよ風に、彼女は浮かされたように身を起こす。覚束無い足取りで廊下に出ると、白くて淡い、ほどけて失われてしまいそうな気配を追う。彼女は屋敷の奥へ奥へと踏み込んだ。

 窓の無くなった突き当たりで、うっかりすれば見落としてしまいそうな細い階段を下った。二階へ続く階段は書斎のすぐ脇で、この屋敷に似合うだけの大きさで伸びていたが、この階段は細く、そして急だった。追いかけていた気配は、その先で急に途絶えた。気配そのものが、別の気配に上書きされたのである。

 地下には鬱屈した暗さが伸びていた。黴臭さと、それとは異なる甘ったるさが混ざり合っあった気配が充満していた。空気そのものが、階下とは遮断されているかのような不自然さを帯びて軋んでいた。紗羅を迎え入れるように、夜明けを思わせる明かりが点いた。弱々しくちらつく蛍光灯の光だった。

 人形たちが、整然と並んでいた。――ひたすらに。

 この地下室を、紗羅は知っている。いつの日だったか定かでは無い景色が、紗羅の記憶を刺激する……覚えているのでは無くて。記憶とは異なる、とりとめのないイメージが再生されては消え、彼女の記憶になってゆく。呼吸の必要を知らない筈の人形が、体内の空洞を湿気させる。

 躰のパーツとしての義肢。或いはヒトのカタチそのもの。

 紗羅はその人形たちの間を歩く。ベールの掛けられた頭の無い人形があった。一糸纏わぬ人形も、脚の欠けた人形もあった。腕があるべき場所に脚がくっつけられた人形は器用にジャージを着ていた。翼のある人形に、腕が三本ある人形。ある人形は立ちつくし、ある人形は座っており、ある人形は天井から吊られていた。地下室には景色を映さない窓枠があり、そしてそこににもたれかかるようにして、一体の人形が片手で本を広げていた。硝子玉のような瞳に、真っ新な偽物のページが映る。地下室の奥には二台のグランドピアノが対になって用意されているステージがあり、背中合わせに一体となった二人の少女の指が鏡合わせの鍵盤に触れていた。

 それぞれの人形の間には、ヒト一人が通れるだけの間隔が保たれている。少しでも不用意につつけば、その場で崩れ、倒れ込み、この地下室そのものが崩れてしまいそうな危うさがあった。

 ここでは総てが白くて淡い人影だった。

 ひととおりに観て周ったときである。上階から伝わる控えめな足音が、紗羅の耳に届いた。暫くしてその足音は、この地下室へ続く階段を降りてくる。

「君の姉たちだよ、彼女たちは」

 階段の傍の、微かに地上から光が漏れたその場所で、薫は気怠そうな欠伸をしていた。

「私の作った人形、全身霊義肢たち。その意味では君の躰の先駆にあたる」

「……随分と無口な姉たちね」

 動くものは紗羅と、今し方入ってきた薫のみである。二人がこの場所を後にすれば、この人形たちが並べられた地下室は、再び静謐に秘められたままになる。薫が姉と形容した人形たちが、紗羅のように動き出す事は無いままに。

「そう? 十二分に騒がしいじゃないか」

 けれども薫はごく自然にそう口にして、その後に苦笑する。薫だけが知っている秘密を、うっかり口にしてしまったかのように。紗羅には解らない世界を、薫は聞いていた。

「ああ、しまった、余計なコトを。

 あまり見入り過ぎると良くない。何方に自己が在るか、君なら判別がつかなくなりかねない」

 頭が二つある少女へと手を伸ばしかけた紗羅に向けてそう忠告すると、ふと、薫は言葉を零す。カタチは違えども、どの人形も互いに似通っていた。

「……自覚は、あるんだ」

 ぽつり、寂し気な、そしてそれだけでは無い神妙な気配を漂わせながら、薫は呟く。すぐに薫は「いけない、また。この場所はこれだから他人を入れたくないのに」と、取り繕って自分に云い聞かせていたが、紗羅は構わずに訊き返していた。

「え? 自覚?」

 仕方なく、と、ため息混じりに薫は応じる。

「大したことじゃあない、君の、自分自身の躰が人形だって事。取り乱すでも無く、まるで長い眠りから覚めただけのよう。いいや、それにも及ばないくらいに、ただ単に起き上がっただけのような――どう云えば良いのだろう」

「それが、どうかしたの? あたしは単に――」

 けれど今度は紗羅の方がそこでつかえる。

「単に――」

 その先の言葉が出てこない。単に、生きている、のか。人形である己が果たして生きているのか。息をせず、脈も打たず、耳をすませば歯車の音。世界と彼女の間には薄い膜が張られているみたいになっていて、彼女の躰に紗羅の実感は伴わない。そしてそれ故に、この異質な筈の自身を受け入れる。

 頭が二つある少女は瞬かず、頑なに俯いたままである。無機質な瞳には

  《S-T2》

 の刻印が映っていた。彼女の足元に穿たれた銀の刻印であった。彼女たちの足元には、各々の刻印がされている事に紗羅は気が付いた。彼女たちは在るべき場所に在り続けているのである。

 察したように、薫は軽く頷いた。

「……単に、存在している。明確な意識を以て、この部屋に立って居る。その面では、ここの人形たちとは根本から異なっている。けれど、それそのものを示す確かな言葉を探すことは難しいし、そも、本当の意味での先駆は皆無に等しい。

 そうね、そこにどう折り合いを付けるかは解らないけれど。私は君の助けになる。それが君を勝手に蘇生させた私の責任でしょう」

 つかみどころの無い漠とした疑問に漂う紗羅の意識を掬いあげるように、薫は云った。昨夜の彼女とは全く別人のような、優しい口ぶりだった。

「ともあれ! そんな泥だらけで歩き回られて、屋敷を砂粒に撒き散らしてもらっても困るからな。着替えは、そこらの姉たちから適当に拝借してくれれば良いし、ある程度なら上に用意がある。

 支度を済ませたら外に出るよ。君を連れて行きたい所があってね」

 この場所は本当に調子が狂う、そう云い残して薫は階段を上っていった。この部屋から外に出る事に、紗羅はぼんやりと名残惜しさを感じていたが、当人はその事実に気が付いていなかった。

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