四 エスペリア歴891年 (三)

 フェビラの砦は夜はひときわ冷える。

 防寒具を引き寄せつつ、煌々と輝く月を眺めていると、微かな足音が近づいてきた。


「リユン。まだ起きてたのか」

「キミこそ」


 同じように砂色のコートを羽織ったレーンが、リユンの隣に腰を落ち着ける。


「今日は見張りの当番じゃないだろ」

「便所のにおいがひときわひどい晩もあるんだよ。そういうときは、眠れたもんじゃないから外に出る」

「よくまあ続いているよ」


 呆れた風にレーンは肩をすくめた。

 キミは?と尋ねると、うーん、と曖昧な返事が返る。口を引き結んで天を仰いだレーンの横で、リユンはかじかむ手のひらに息を吐きかけた。夜のフェビラ砦は風のささめき以外、静まり返っている。


「なあ。ここから帰ったら、おまえはどうする?」

「どうするって……バルテローに?」

「いや、王都」

「うーん。まずは卒業かな。落第したくない」

「おまえでそれはないだろう」


 レーンは笑ったが、リユンはあながち楽観視できていなかった。確かに座学こそ成績はよかったものの、剣術は人並みであるし、射撃に至っては人並み以下もいいところだ。狙撃がうまいものは、今回の戦で前線のほうへ何人か引き抜かれていったから、幸か不幸かは知れないが。


「卒業したら、どこかの隊に配属になって、そこで生きていくんだろうな。どちらにしても、行く場所は戦場だろうけど」

「家には戻らないのか?」

「……そうだね」


 親子の縁を切る覚悟でサイ家を飛び出し、すでに三年以上が経つ。

 戻ったら、エルンにいさんに会いにいってみようか。

 そんな今まで考えもしなかったことをふと思いついた。もうすぐフローリアの誕生日だ。あのおしゃまな妹にビーズのティアラを買って、三段のチョコレートケーキを食べ、橙色の蝋燭を灯し、下手くそなバースデーソングを歌う。


「キミはどうするの?」

「俺?」


 口端に笑みを残したまま続けようとして、レーンはふと口をつぐんだ。ちらりとうかがえば、どこか思い詰めたような顔で手元を見つめている。


「俺はもう、あの学校には戻らない」

「……どうして?」


 尋ねてから、リユンはふっと息をついた。


「キミが、この国の王子さまだから?」


 あたりにひとはいない。それでも注意深く声をひそめて囁くと、暗がりではあるが、相手が微かに瞠目したのを感じた。


「おまえ、いつから?」

「最初から。キミと学校の裏庭で出会ったときには知っていたよ、レーン。レーヴェ=エスペリア」

「まさか。嘘だろう」

「嘘じゃない。僕はキミに会ったことがあるんだよ、レーン。幼い頃、エルンにいさんに連れられて行った国の式典で国王代理のかたわらに座るキミを見た。銀髪が光できらきらしていて、でも次に会ったときには黒髪になっていたから、少し驚いたけども」


 息を吐き、リユンは言った。


「僕は一度だってキミに名前を聞かなかったでしょ、レーン」


 はじめて会ったとき、リユンは少年に「なに」とは聞いたが、「誰」とは問わなかった。レーン=エスト。彼の口にした偽りの名前を呼び続けた。最初は疑念を抱きながら。途中からはまぎれもない親愛をもって。


「髪は染めたんだ。銀はこの国じゃ王族にしかあらわれない色だから」


 手のうちを明かして、レーン=エスト、否、レーヴェ=エスペリア第一王子は肩をすくめた。


「でも、普通わかるか? 儀式っていったって、距離も離れているし、言葉を交わしたわけでもないのに」

「記憶力には自信あるんだ。あと僕は一度見た顔は忘れない」


 厳密には、何かの琴線に触れた顔についてであるが。


「理由を聞いてよい? キミが王子様をやめて軍学校生をやっていた理由」

「……オーリン公は知っているか」

「宰相閣下?」

「元、な。あれは俺の母方の祖父だ」


 レーヴェは膝小僧を引き寄せた。


「父上が崩御してから、この国に王はいない。乳飲み子の俺は継承を据え置かれ、以来、叔父のシンミア=エスペリアが代理に立っているけれど、それも絶対ってわけじゃない」

「つまり、オーリン公はキミを推しているのかい?」

「俺を軍学校に預けるなんて馬鹿げたことを思いついたのもあのくそじじいだ。あそこはオーリン公の息のかかった奴が校長をしているから、格好の隠れ場所だったというわけ。“レーヴェ=エスペリア第一王子”はおおやけには三年前、ノースアズレリアに留学したことになっている。――俺は」


 そこで唇を湿らせ、レーヴェはリユンを見た。


「近くオーリン公が兵を挙げるとき、旗頭となるため王都に残った」

「シンミア=エスペリアを訴追するの?」

「だろうな」

「それ、僕なんかに話してしまっていいの。誰かに話してしまうかもしれない」

「おまえはやらないよ」

「……そういう言い方は卑怯だと思う」


 眉間を寄せ、リユンは別のことを訊く。

 ここまで聞いてしまったら、最後まで付き合うほかない。


「なら、そのキミがこんなところにいるのは何故? オーリン公は引き止めなかったの?」

「縛られて倉庫に閉じ込められたって言ったろ。孫娘のイヴの力を借りて逃げてきたんだ」

「『キミ』はいいの?」

「『俺が』そうしたかったから、そうしたんだよ」

「どうして」

「俺はこれからもっと大きな賭けをする。今度は俺ひとりぶんじゃない、大勢の命と名誉を巻き込んだ大きな賭けだ。――だからだよ。俺はこの先、ずっと勝ち続けなくちゃいけない。負けることは、もうできないんだ。ここでへまこいてるようなら、この先もきっとうまくいかない。これくらい、たやすく乗り越えてみせないと。ちがうか」


 そう言って暗がりを見据える少年はさながら炎である。

 未だ氷と昏がりに閉ざされた国に燃え立つ一条の。

 不思議な心地がして、リユンはそれを見つめた。胸を奥のほうから揺さぶられたような、そんな気がした。家から逃げて、ふらふらと流されてきたリユンにとっては、隣の少年の在り方そのものが異質で、それゆえにまぶしかった。

 そのとき、砦の異変を知らせる鐘がフェビラの空に鳴り響いた。


「なんだ?」


 身を起こし、レーヴェが銃剣を引き寄せる。物見台から外をうかがえば、何やら階下が物々しい。夜にもかかわらず開け放たれた搬入口から侵入しているのは、エディルフォーレの旗を背負う兵たちだ。遠く、丘陵のあたりが橙色に燃えている。

 目配せをすると、リユンたちはひとまず階段を下りる。開け放たれた搬入口では、すでに異変に気付いた見張りの兵たちが押し合いをしている。「奇襲だ!」と叫ぶ者があれば、「裏切りだ!」と叫ぶ者がいる。しかし、搬入口が開け放たれている以上、内部に手引きした者がいると見て間違いはなかった。

 ほどなく地を揺らす轟音がして、砦の左一部が破損する。砲台だ。コーネイン将軍が半狂乱で降りてきて、「砲兵! 砲兵!」と叫ぶ。リユンは駆けずり回る兵たちに押されるようにして再び城塞に向かった。


 前線に兵を費やしていたフェビラ砦に守りの城兵は少ない。

 よもや、エディルフォーレの狙いはそれだったのではあるまいか。前線に残数の少なくなった兵を引きつけておき、内部の手引きで砦そのものを一気に叩く。赤々と燃える丘陵を見つめ、リユンはぞっと背筋を震わせた。

 フェビラ砦は夜明けを待たず、陥落する。

 そう確信したからだった。

 砦内に残った数少ない砲兵たちがやっと応戦程度の砲撃を始めた。そこに畳みかけるようにエディルフォーレ側からの砲撃。振動に倒れそうになりつつ、リユンは城壁にしがみついた。


「砲兵! 砲兵!」


 怒声が頭上を飛び交う。砦のふもとまでたどりついたエディルフォーレ兵が、要塞に攻城櫓をかけようとするのが見えた。登ってこようとする兵を城兵が狙撃するが、攻城櫓自体は揺るがない。リユンは壁から離れて、武器庫のほうへ走った。手榴弾を探したのだが、物資の尽きかけた砦の武器庫はほとんど空っぽだ。

 代わりに、壷に油を入れて搬入口付近のエディルフォーレ兵に投げていた少年を呼び寄せ、攻城櫓を指差した。油壺を投げ、次いで松明を落とす。生皮を貼り付けただけの攻城櫓は火に弱い。燃え上がる攻城櫓に気付いた城兵たちが、次々油壺と松明を投げ落とす。


「退け! 退け! 退け!」


 コーネイン将軍の甲高い声が響き渡った。外に出ていた兵が中へ戻り、搬入口の扉が無理やり閉められる。


「砦を捨てる」


 爪を噛みながらコーネイン将軍は言った。


「バルテローを目指すのだ」

「負傷者はどうするのですか!?」


 誰かが訴えるように叫べば、「捨て置け」とコーネイン将軍は吐き捨てた。


「歩ける者はついて来い。舟橋に向かう」

「お言葉ですが、閣下」


 おもむろに、リユンは思ったことを口にした。


「舟橋はエディルフォーレに包囲されていると思います」

「馬鹿め。あちら側にはまだエディルフォーレの松明は見えぬ!」


 ――馬鹿はあなたのほうだろう。見えるところに置くわけがない。

 リユンはなおも言い募ろうとしたが、「ならばおまえはついてくるな!」とコーネイン将軍は唾を吐き散らかし、手勢の者たちを率いて歩き出した。砦には万一のときのために大河側に脱出口が作られている。コーネイン将軍はそこを使うに違いなかった。


「キミはどうする、レーン」


 レーンは血の滴る銃剣を下げて戻ってきていた。少し考えこむような顔をしたあと、「負傷兵たちを運べないだろうか」と大真面目な顔で言う。運べるわけがない、とリユンは呆れたくなったが、口にはしなかった。この少年が真面目にそれを考えていることがわかったからだ。

 舟橋へ向かうコーネイン将軍配下の者たちを見やる。囮。ある考えが閃いた。

 残された少年兵たち、負傷兵たちを集め、地下の水路へ降りる。そこに幾槽もの舟が置いてあることをリユンは知っていた。それらを少年兵たちの力を借りて水路に浮かべ、柵を外した。

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