三 エスペリア歴891年 (二)
フェビラ砦はすでに敗色が濃い。
夜霧に紛れ、フェビラの避難民が砦後方の川にかかる舟橋をバルテローを目指して渡っているらしい。小麦を買い付けた行商からそのように聞いたリユンは、砦の陥落が間近なのではないかと疑った。
バルテローの地方役人を介して買い付けた小麦はそのフェビラ砦に運ばれる予定である。小麦を検閲する役人を横目に、リユンは驢馬に干草をやっている行商に王都周辺の様子をしつこく聞いた。増援の数、期間、ルート。
「妙な餓鬼だな」
煩わしがる行商にせっついていると、頭から防寒用の布を被った年嵩の男がこちらをのぞきこんで口端を歪めた。見たところ、七十も半ばほどだろうか。痩せた身体を防寒具で包み、かたわらには従僕らしき少年の姿もある。
「近いフェビラの戦況よりも、遠い王都のことばかりを聞きよる」
「砦は落ちるよ。それよりシンミア=エスペリアがいつ砦を手離す気なのか、そちらのほうが気になる」
フェビラが陥落した場合、次の拠点となるのはおそらくこのバルテローだ。答えると、男はほうと口髭を梳いた。
「おまえと似たことを言う餓鬼がいるぞ、イヴ」
男は驢馬の足に藁を巻いていた少年へ目配せを送る。イヴ、と呼ばれた少年は一度顔を上げたが、こちらへ一瞥をくれただけでまた藁巻きに戻った。あまり興味はないらしい。
「小僧。この戦、おまえはなんと見る?」
「エディルフォーレをフェビラに引きつけている間に、バルテローに兵を集められれば勝てる」
「悪くはない。だが、それくらいなら雪女王の将軍どもも皆考えているな」
存外思慮深い答えに、リユンは瞬きをする。男は驢馬への積荷を終えて馬上のひととなった。七十過ぎとは思えぬ堂々たる身のこなしだ。
「あちらと同じことを考えていては、勝てん」
顎をしゃくった男に合わせて、行商の首長らしき男が周囲に声をかける。イヴという名の少年も藁巻きを終えて乗馬した。麻の手綱を引いたはずみに防寒具からかいま見えた細腕にリユンは眉をひそめ、意趣返しのつもりで「おじさん」と男にだけ聞こえるように囁いた。
「『女の子』を連れてどこへ行く気?」
防寒具の奥の眼光がにわかに鋭くなる。踏み込みすぎたか、と思い、少し身を引くが、続けて弾けたのは豪快な笑い声だった。
「おじいさま」
イヴが叱責するのも構わず大声を轟かせて笑うと、「――ひとやま当てるのよ」と男は一転声をひそめて囁いた。
「ひとやまって何を?」
「それはまだ言えんな。小僧ごときはおとなしく見ておれ」
にやりと笑って、騾馬の腹を蹴る。薄闇のなかを突き進む行商の列をリユンは静かに見送った。のちのエスペリア屈指の女宰相となるイヴ=オーリンとリユンの浅からぬ縁の始まりであり、また後世に名を残すルネ=オーリン宰相との最初で最後の邂逅であった。
行商から買い付けた小麦を少年たちと手分けをして、穀倉に運び入れる。
それまで雑多に運ばれるだけであった小麦を産地別、日付別に分けることを始めたのはリユンだ。こうすれば、無計画に兵糧を消費せず、黴の生えた穀倉を作らずに済む。先日、こめかみに数針を縫う怪我、ついでに肋骨を痛めたリユンはしばらくの間、運搬の主要員にはなれず、代わりに倉庫の帳簿を作る雑務をあてがわれた。
先日とは、バルテローの民家で姉妹が凌辱された一件である。
マハリ少尉の命令を跳ね除けたリユンはあのあと、夜明け前まで容赦ない暴行を受けた。少女の妹は結局、ニコル=キリノが連れてきた。リユンは床の上に力なくうずくまって、すぐかたわらの寝台で少女の小さな悲鳴が上がるのを聞いていなければならなかった。無力だ、とリユンは思った。
バルテローの街に入ったときに感じた違和感。
どこか怯えるように窓から隊列をのぞくひとびと。
この街は砦の兵によって蹂躙されていた。
何も知らないでいた自分が情けなくて、どうしようもなく悔しかった。
「サイ。マハリ少尉が呼んでる」
フェビラ砦に送るぶんの穀倉にタグをつけ、一か所にまとめていると、いつもの無表情でニコル=キリノ少年がやってきた。心配そうに見守るセームにだいじょうぶだよと軽く笑い、リユンは作業の間まくっていた袖を下ろした。ニコルの背について、マハリ少尉の私室に向かう。
あれからマハリ少尉にことさら呼び出されることはなかった。
変化といえば、リユンの寝所が便所に移ったことくらいだろう。北向きの便所は夜はひときわ冷える。便器の底から這い上がる汚物のにおいの充満した便所で、リユンは壁にことんと頭を預け、膝を抱えるようにして眠った。
こんなことはなんでもない、とリユンは思うようにした。こんな下らないことで己の何が傷つけられるというのか。くだらない。くだらなかった。こんなことで自分はくじけたりなんかしない。
それでも、縫ったこめかみがじくじくと疼いて寝付けることのできぬ晩、まるで儚い幻影のように十年を過ごしたサイ家の屋敷を思い出すことがあった。
妹のフローリアの誕生日を皆で祝う。蝋燭の炎、蜜色にきらめく銀食器と、厨房長が腕によりをかけた三段のチョコレート・ケーキ。歌。わらいごえ。それらはリユンの瞼裏によぎっては次の瞬間には汚臭にまぎれて泡沫のごとくに消えてゆく。
――こんなすがたを見たらエルンにいさんは、きっと怒るだろう。
リユンはシャツのうちの包帯へ目を向けながら思った。もしかしたら連れ戻しにやってくるかもしれない。真面目な長兄の紅潮した顔を思い浮かべると、自然に笑みがこぼれた。そうしたら、リユンはあの家に帰るのだろうか。あの真綿のような優しさとぬくもりに満ちた家に。……帰りたいと、思っているのか。
尽きない問いに目を瞑り、リユンは膝に顔をうずめて眠る。
「――入れ」
別所へ意識をやっていたリユンは、マハリ少尉の声にふと我に返った。いつもは義務的にドアまで案内してきびすを返すニコル=キリノも、今日は何故か少尉の部屋へ一緒に入る。中にはレーン=エストをはじめとした十数人の少年兵たちが先客としていた。眉をひそめたリユンとニコルに並ぶよう命じて、マハリ少尉はパイプを吸った。
「今日おまえらを呼んだのはほかでもない。輸送班に欠員が生じた」
輸送班、というのはリユンやレーンたちが配属された補給班とは別の、物資を砦へ輸送する任にあたっている隊のことだ。
この輸送班は、死傷者が多数出ていることで知られていた。
当初、南西のエルザ自治区を経由してフェビラ砦に運ばれていた物資はエルザ自治区の長が突如進入をしぶったことから、エディルフォーレと国境間近いサーフィア山脈を越えざるを得なくなった。深い峡谷を数多く持つ山脈では、転落事故のほか、しばしば野盗に襲われたり、エディルフォーレの奇襲を受けることもあった。
「よって補給班から特に優秀なおまえたちを輸送班に入れようと思う。異論は?」
無論、異など唱えられるわけがない。少年たちの沈黙を是と受け取ったのか、マハリ少尉はうなずき、異様にぎらぎらと光る目を愉悦に細めた。
翌晩、リユンたちはバルテロー砦を発った。
隊長のマハリ少尉とニコル少年をはじめとした少尉付きの兵、そしてリユンたち少年兵を入れ、総勢五十ほどの数になる。頻発するエディルフォーレの奇襲を避け、近頃では夜陰に紛れて補給隊列を組むことが多いらしい。搬入用の出入口には穀物や木材、弾薬等の物資が積まれた荷車が置かれ、火影に照らされている。
エディルフォーレではすでに治世三十年を数える女王――廃れていた奴隷制を復興させ、徹底した階級社会と血税でエディルフォーレを拡張した通称“雪女王”が、エスペリア近郊の村を次々略取し、奴隷兵たちは初秋に近いこの季節でもますます勢いを上げるばかりなのだと聞く。一方で、細々とした輸送を続けるフェビラ砦は枯渇し、下級兵は草の根をかじって飢えをしのいでいる。砦は陥落する、とリユンが見ているのはこのためだ。
「なんでキミまでゆくことになったんだよ」
周囲に気取られぬよう音のひそめられた出発の笛が鳴り、少年たちが荷車を押し始める。リユンはかじかんだ手のひらに息を吹きかけ、荷車の把手をつかんだ。隣を歩くレーンは平然とした顔をしている。
「さぁな。腕っ節が強そうに見えたんじゃないか」
「マハリ少尉は何かを企んでいる気がする」
「どういう意味だ?」
「わからないけど。でも何か変なんだよ」
リユンはマハリ少尉の背を一瞥したものの、それ以上明確な言葉が浮かばずに首を振った。
その日のバルテローの空には遅い月が架かっていた。
群青の空を散らばる星々の瞬きが山道を細々と照らしている。常は行商が使う山道を無理やり開いて敷いた道は足元が均されておらず、凹凸に引っかかるたび、荷車が大きく揺れて肝を冷やす。野盗や敵の奇襲を警戒するのならば、音はなるべく立てないほうがよいからだ。
リユンは銃を携帯できていなかった。王都を発つとき支給されたナイフがベルトに差さっているだけで、他の少年兵たちもおそらくは大差ない。
――輸送中にマハリ少尉が何がしかの騒動を起こすのではないか。
リユンの懸念は杞憂に終わり、一行は夜明け方、無事フェビラ砦にたどり着いた。
到着する頃には、遠い山嶺に夜明けの光が射し始めていた。搬出用の門から荷を中へ運び込む。
フェビラ砦の内部は荒れていた。踏み入るや、鼻についたにおいにリユンは眉をひそめる。そこかしこでうずくまっているのは傷ついた兵士たちで、欠損した四肢や傷口には蠅がたかっている。これは肉の腐敗する、そういったにおいだった。砦に通常置かれているはずの医官や従軍看護婦の姿も見当たらない。
「ご苦労」
痩せた男が階段を下りてきて、マハリ少尉に声をかけた。コーネイン将軍、とマハリ少尉が敬礼をする。まだ二十代と聞いたが、頬は痩せこけ、目の下を濃い隈が縁取っているせいで、十も二十も老けて見えた。
「少尉。王都からの伝令はきたか?」
「いえ、まだ」
コーネイン将軍は運び込まれた荷の中身を訊くより早く、別のことを問うた。伝令、とはおそらく増援の知らせのことだろう。少尉のすげない答えに、コーネイン将軍は「くそっ」と悪態をついて爪を噛んだ。
「陛下はいつまで我らにここにいよと命じられるのか」
独白めいた呟きを漏らし、「おまえは? バルテローに引き返すのか、マハリ少尉」と恨めしげな視線を寄越す。いえ、とマハリ少尉は殊勝に首を振った。
「陛下は我らにフェビラ砦隊に加わるよう仰せでしたので」
少尉の兵たちは既知のことであったらしいが、少年兵たちからは抗議の声が上がった。そんなことはひとつも聞かされていない。
「黙れ、餓鬼どもが」
それをひと睨みでおさめると、少尉はコーネイン将軍に媚びた笑みを浮かべた。
「我らで力になれることがあればなんなりとお命じください、将軍。増援もまもなく王都から参りましょう。それまでの辛抱です」
*
増援はこない、とリユンは考えていた。
バルテロー砦の観測所である。観測所からはナグー平原が見渡せ、遥か丘陵で陣が敷かれているのがわかった。エディルフォーレとフェビラの軍勢だ。といっても、随所で小競り合いが生じているだけで今は砲火を交えてはいない。
一時砦の堡塁に迫るほどであったというエディルフォーレの軍勢は、しかし、かれこれ十日ほど、丘陵で微動だにせずこちらの出方を探っているようだった。
フェビラ側には、増援を待つ間の時間稼ぎという腹がある。では、エディルフォーレは何を待っているのか。食糧が尽きたのだ、という見方がある。あるいは、過日の補給線への奇襲がきいたのだという見方。
――でも、本当にそうだろうか。
リユンは疑いを抱いている。
ひとりそのことについて考えるとき、いつも頭をよぎるのは、
――あちらと同じことを考えていては、勝てん。
年老いた行商の言葉だった。
見張りを交代すると、休憩の間、リユンは砦のあちこちを見て回った。
フェビラ砦は背後に川と舟橋を持ち、外には頑強な堡塁をめぐらせた砦だ。砲台も備え付けられ、ひとたび篭城すれば半年はもつのではないかと考えられている。
ただそれも、食糧や弾薬が十分に貯蓄されていてのことだ。一年にも及ぶ戦でフェビラ砦内には負傷者が溢れ返り、兵の数は少ない。砦内の地図を探したが、見習い兵に過ぎぬ自分には手に入れることが難しかった。そこで時間があるときにこうしてあちこちを見て回り、スケッチをしている。
最上階に観測所。一階に兵舎。二階三階には食糧庫や弾薬庫、油脂庫。地下には近くの川から引いてきた水路が通り、それが給水・排水施設にもなっている。水路を歩いてみると、どうやら北方の川辺まで続いているらしかった。非常用にか、小船も何艘か置いてある。
水路から少し離れた岩盤は、古い坑道もくり抜かれていた。かつてフェビラ砦を建築する際使われたらしいが、今は地盤が危ういため、使用禁止になっている。そこで、見慣れない男を見かけた。
「少尉」
思わず、といったリユンの呼びかけに、坑道から幾人かの部下とともに出てきたマハリ少尉は瞑目し、こちらを睨みつけた。
「サイか。こんな場所で何をやっている」
「水路を確認していました」
素直に返答し、「坑道ですか?」とリユンは使用禁止の柵がほどこされた坑道のほうへ目をやった。何らかの返答を求めたつもりだったが、少尉は鼻を鳴らしただけで部下たちを顎でしゃくり、その場を立ち去った。
首を傾げ、リユンは坑道をのぞきこむ。長く使われていなかった坑道は、岩盤に含まれる石灰が作ったのか天井に鍾乳が生まれ、地面に残された足跡に雫を滴らせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます