二 エスペリア歴891年 (一)

 窓の外では晩冬の湿った雪が降っている。

 雪の夜は月もないのに、不思議と明るい。暖炉の燃えかすが時折気まぐれに爆ぜる音を聞きながら、薄紅に染まった女の背のまろいくぼみをたどっていく。教えられたとおりになぞると、甘やかな嬌声が上がった。


「――……召集?」


 シャツ一枚を羽織って、新聞をめくっていた十三歳のリユンに、背後からしだれかかったマリアンヌが尋ねた。真紅の爪がシャツの釦に這う。釦を止めて、またもどかしげに外す、そういった戯れ。


「いつ?」

「春。この雪が解けて、汽車が動き出したら何班かに分けて送られるのだって」

「だけど、あんたまだ学生じゃないの」

「ひとが足りていないんだよ」


 南部のナグー平原は、もとはエスペリアの辺境伯が治める領有地だった。しかし昨夏、辺境伯が付近の乱を鎮圧するため城を空けていた隙に、突如としてエディルフォーレの大軍が国境のタビア城塞に押し寄せ、常駐していた城兵を追い出してしまう。城塞を乗っ取ったエディルフォーレは、我こそがナグーの主であると宣言した。

 エディルフォーレにしてみれば、エスペリアが内乱に明け暮れている隙に隣接する北方の地を平らげるつもりなのだろう。エスペリアは北の最果てに位置する小国だが、その中でも北方一の大河が渡り、東方諸国との商業ルートともなり得るナグー平原周辺の価値は高い。

 これに奮起したのは、無論エスペリアだ。

 国王代理シンミア=エスペリアの命により、側近のコーネイン将軍が兵を率いて王都を発ち、タビア城塞から北に離れたフェビラ砦にて辺境伯軍とともに猛追するエディルフォーレ軍に抗戦している。しかし、戦況は芳しくない。コーネイン将軍は二十代半ばの実戦経験に乏しい官僚上がりの軍人で、これを快く思わない貴族たちが揃って私兵を出し渋ったため、兵のうち大半は金で雇った傭兵で構成された不正規軍だったためだ。幾度かの交戦で負けを重ねると、コーネイン将軍は本国に増援を要請した。


「あんた、死ぬの」


 不意に耳元で漏らされた声に、リユンは目を瞬かせた。

 まさか、と緩く笑う。


「僕らが行くのは後方の支援部隊のほうで、前線には回されないって教官も言っていたから。心配してくれているの、マリアンヌ」

「あんたがいないと、あたしの爪は誰が塗るのよ」


 唇を尖らせた女に、そうだったね、と呟き、サイドボードの上に倒れていた真紅の小瓶を取った。足指を差し出すように言って、爪紅を含ませた刷毛をきれいに揃った爪に滑らせる。左足も右足も同じように染めて、次は手の指を。ところどころ色の剥げた爪をアルコールで落としてから、また新しい爪紅を塗ってゆく。

 

「この爪がぜんぶ剥げちゃう前に帰ってきなさいよ」


 そうだね、と教わった睦言を返して、リユンはズボンに足を通す。でも、たぶんもうマリアンヌには会わないような気がした。マリアンヌのほうも同じ予感を抱いていたのかもしれない。元気でねあたしの坊や、と額に口付けを落として、指先が赤く艶めく手を振った。

 


 正式な召集令状が軍学校に届いたとき、リユンは四年制の軍学校の三期生になっていた。この時代、兵の補充で学生のうちに戦場に出されることはままあった。最終学年の四期生ともなれば、見習い兵として他の兵士と何ら変わらない扱いを受ける。違うのは給金くらいだ。

 出立の日をリユンは長兄に伝えなかった。

 夜明けの薄光の中、サイ家の屋敷のある方角をしばらく見つめたあと、リュックを背負い直して、席の埋まり始めた汽車のコンパートメントに乗り込む。荷物を棚に上げていると、銀の包み紙にくるんだチョコレートがひとかけ放り投げられた。


「やるよ」


 後ろの背もたれから顔を出したセームが八重歯を見せて笑う。

 片手で受け止め、リユンも笑みを口元に乗せた。


「キミが一番乗りか。一番は僕だと思っていたのに」

「俺はお別れをする家族なんかいねえし。なあ、バルテローまではどれくらいかかんのかな。ごはんちゃんと出ると思う?」

「出るとしたら何だと思う?」

「黒パンだな、固いやつ。あと固形スープ」

「乾パンだよ。賭ける?」

「いいぜ。俺が勝ったら、マリアンヌのキスな」

「マリーがいいって言ったらね。キミじゃ無理だと思うけど」


 そんな応酬をしているあいだに、バルテロー行きの生徒たちが続々とコンパートメントに乗ってくる。朝日が射す頃には、中はほぼ満員になった。けれど、リユンの対面の席は未だに空いたままだ。車内を見回したセームが「……レーン来ねえな」とぽつりと呟いた。


「もしかしてレーンの奴……」

「僕は知らないよ」


 先回りしてリユンは答える。

 バルテローへの召集が決まったとき、怯えて脱走をはかった生徒は少なからずいるにはいた。だが、レーン=エストに限ってそれはないだろう。リユンは別の可能性を考えていた。そして、あの少年はおそらく来ない、とも。

 がたん! そのとき背後のコンパートメントが荒々しく開き、大仰な足音とともに荷物と外套を引っ掛けた当のレーン=エスト本人が駆け込んでくる。ようやくお出ましだ、と口笛を吹いたセームに、間に合ったろ、と軽く答えて、対面になだれこむように座る。レーンの息は荒く、肩のあたりもぐっしょり汗をかいていて、ここまで走ってきたという風体だ。


「……キミってさ」

「なんだよ」

「本物の馬鹿なの?」

「はあ?」


 レーンが横目で睨んできたので、リユンは視線をよそにやり、「どうなっても知らないよ」と呟いた。代わりにリュックから取り出した水筒を少年のほうへ放る。砂色の詰め襟を緩めていたレーンは、水筒の中身をがぶりと飲み下して、プラットホームに一瞥を送る。


「……うまく撒けたな」

「撒く?」

「あのじじい、腕と足を縛って倉庫に投げ込みやがるから、地下通路を使って逃げてきてやった。イヴと俺の作戦勝ちだな」


 確かにレーンの黒髪や頬は煤で汚れて、どこかの地下通路をくぐってきたようにも見える。「イヴ」はともかく、「あのじじい」には心当たりがあった。ふぅんとうなずき、端の溶けかけたチョコレートをひとかけリユンは齧る。

 汽車の扉が閉まり、発車のベルが鳴る。

 動き始めた車窓に映る空は、春とは思えぬ凍えた灰色をしており、それはまもなく雪深い針葉樹林に差しかかった。


 *


 汽車は三日三晩走り、フェビラ砦から北に離れたバルテローの街へとたどりついた。すぐに駅から、市街地を守るようにめぐらされたバルテロー砦に移動する。バルテロー砦は堡塁を備えた、フェビラに次いで大きな砦で、今は後方支援の拠点となっていた。周囲の村や王都から徴収した物資は一度バルテローに集められ、前線であるフェビラ砦に輸送されている。

 バルテロー市街に入ったとたん、ふと空気が変わったことにリユンは気付いた。

 どこか陰鬱なにおいのある気配である。底のほうに澱が溜まり、腐臭を発しているような。視線を感じた気がして顔を上げたが、それらしい人影はない。白昼の街に人気はなく、家々はどこも固く鎧戸を閉ざしてひとを寄せ付けないようだった。

 再び視線を感じて振り返ると、家の窓からこちらをうかがっている少女と今度は目が合った。小さな妹たちを思い出してひらりと手を振ってみせると、少女は目を瞠らせ、次の瞬間少女の手ではないものによってカーテンが閉められた。


「どうした?」


 列から少し遅れたリユンに気付き、レーンが尋ねる。ううん、とリユンは首を振り、カーテンの閉じられた窓をしばし見つめたあと、目を離した。



 到着早々、命令が下った。各地から集められた食糧や燃料、油脂、弾薬を倉庫に運び入れ、補給用の積荷と分けるのだという。輸送班の隊長はマハリ少尉という中年の男だった。積み荷を運ぶ少年兵をよそに、部下たちと賭け事に興じるマハリ少尉からは酒の悪臭がした。嫌な上官に当たったな、とリユンは直感する。崩落の館と呼ばれるマラキア地区の娼館で、日がな酒や女に溺れる男たちを見ていたため、リユンはそういう嗅覚が優れていた。

 事件はすぐに起きた。

 荷を運んでいる最中に、前を歩いていたセームが足をもつれさせ、転倒したのだ。三日に及ぶ汽車旅で体調を崩していたセームは、積荷を落として、おなかのものをげぇげぇ吐き出した。

 ――パシッ。

 そのとき、鋭い音が打ち鳴った。


「休憩は禁止だ、坊主」


 マハリ少尉が腰に差していた鞭を取り出し、セームの背を打ち据えたのだ。喉を詰まらせた少年が赤茶色の吐瀉物を吐き出す。それがきれいに磨かれたブーツにかけられたことが気に食わなかったらしい。さらに二三度打ち据えようとするので、リユンは持っていた荷を弾みをつけて地面にぶん投げた。どすん、と大きな音が鳴る。振り返ったマハリ少尉に、「待ってください」とリユンは言った。


「セームは怠けているわけじゃない、風邪をこじらせているんです。熱もある。救護所はないんですか」

「あいにく、ここにお前らにやる薬なんざねぇよ。第一、こいつがいなくなったぶんの仕事は誰がするんだ?」

「……僕がやりますよ」


 セームが落としたぶんの積荷をリユンは担ぎ上げる。マハリ少尉は不愉快そうに舌打ちをして、「そいつを連れていけ」と見習い兵らしき少年に命じる。床にうずくまったまま動かなくなったセームを見て、放っておけば面倒事になると考えたのだろう。半ば引きずられるようにして運ばれるセームに気を引かれつつも、リユンは離れた場所に置いた自分の積荷もさらに背負って少年たちの列に戻る。

 セームのぶんの仕事をする、というのは半ば勢いで言ったことだが、これに関してはあとでたっぷり辛酸を舐めるはめになった。マハリ少尉はいちばん重い積荷をわざとリユンにあてがい、取り落とそうものならどうしてくれようとばかりに鞭を片手に目を光らせている。

 それでもひとつとして落とすことなくやりきったのは、生来の気の強さと意地のおかげだった。要するに、負けず嫌いなのだ。命知らずなほどに。


「目つけられたかな……」


 赤く腫れた肩をさすって、リユンは息をついた。ごめんよ、とあとになって今にも泣き出しそうな目をして謝ってきたセームに鼻紙を押し付けて、顔を上げ直す。



 ひと巻きのブランケットと藁を詰めた枕、それからナイフがひとつ。それがリユンたち少年兵に支給されたすべてである。シャワーは上官が使うため、それ以外の者は共同水道しか使わせてもらえない。春とはいえ夜はまだ冷え込み、シャツを脱ぐととたんに肌があわ立つ。蛇口からちょろちょろと流れ出す水に頭を突っ込み、他の少年たちと紙石鹸を使い回して手早く洗った。


「サイ。マハリ少尉が呼んでる」


 周りと手分けをして寝支度を整えていると、少尉付きだという少年から呼び出しを受けた。どうした、と聞いてくるレーンに、さぁ、と返してブランケットを預け、リユンはいぶかしみつつ無言で歩き出した少年のあとを追う。


「名前、まだ聞いてなかったっけ?」


 歳は近そうだが、少年とは召集時期が違った。尋ねれば、「ニコル=キリノ」と簡素な答えが返ってくる。


「ふぅん、ニコ?」

「勝手に略さないでくれないか」

「ああごめん。マハリ少尉はなんて?」

「知らない。おまえさ」


 こちらを振り返り、心底嫌そうな顔をしてニコルは言った。


「ああいうのやめろよ」

「ああいうの?」

「ああいう、安い正義感を振りかざすの。何様気取りだよおまえ」

「そんなことあったっけ」


 セームの一件だろう。思い当たりはしたが、わざととぼけておく。


「おまえが余計なことをすると、こっちがとばっちり食らうんだ」

「なんのことかわからないけど、謝るつもりはないよ」

「後悔するぞ」

「知らないね」


 てっきり少尉の私室に赴くのかと思いきや、二コルは要塞の外に出た。カンテラひとつを掲げて、夜に沈む街を歩く。途中すれ違った兵士たちはマハリ少尉の隊だろうか。酒に赤らんだ顔の、異様に精気を帯びた目が得も知れず不穏で、リユンは眉をひそめた。

 たどりついた民家の一階に人気はなかった。ただ、厨のほうから年老いた女がリユンと変わらないか、少し上くらいの少女を抱きしめ、小刻みに震えながらこちらを見つめている。


「この部屋だ」


 階段を上がったところでニコルは足を止めた。


「キミは来ないの?」

「嫌いなんだ」


 わけのわからぬことを返すと、ニコルはまるで扉の向こうに忌むべきものがあるかのように睥睨し、足早にその場を去った。閉ざされた扉からは微かにオレンジ色の明かりが漏れ、ひとの息遣いにも似た物音がしている。リユンは扉をノックした。


「リユン=サイです」

「ああ、入れ」


 扉を開いた瞬間、目に飛び込んできた光景を見て、リユンは息をのんだ。マハリ少尉は肘掛け椅子にもたれて紙煙草をくゆらせており、寝台にはひとり少女が転がされている。衣服は引き裂かれ、殴られたらしい頬は赤黒く腫れていた。においがした。その潰した果物にも似た青臭いにおいの正体がリユンにはすぐにわかってしまった。娼館の寝台にはこういったにおいがしみついている。


「サイ」


 マハリ少尉に呼ばわれ、リユンは一歩後ずさりかけた足を止める。紙煙草を灰皿に押し付けた少尉は口元に下卑た嗤いを載せてこちらを見つめた。


「こいつ、もう動けないんだと。もうひとり妹がいただろ。あれを連れてこい。連れて来たら、おまえにも一度やらせてやる」


 厨で老婆に震えるようにして抱きしめられていた少女を思い出して、目を開く。その一瞬、寝台に力なく横たわる少女の虚ろな眸と目があった。「返事は」とマハリ少尉はかたわらに置いた鳥銃をいじりながら問う。それがいたずらにこちらを脅かす風に動くのを見て、腹の底からふつふつと冷たい怒りが沸き上がる。正しく。リユンは憤っていた。

 こんなことは間違っていると思った。

 青臭くても、何様気取りでも、リユンにとっては到底許せることじゃない。妹なら自分にもいる。厨で震える少女と、寝台に力なく横たわる少女に、妹たちの顔が重なった。


「断ります、少尉」

「ああ?」


 聞き返すマハリ少尉の目は泥酔のせいか据わり、「もう一度」と言いながらも手は鳥銃を掲げている。


「聞こえなかった。もう一度答えろ」

「断ります、と言いました。話はそれだけですか」


 答えているさなかに銃床で頭を殴られた。よける暇もなかった。眼前が赤に転じ、気付けば床に倒れ臥していた。軽い脳震盪でも起こしたのだろうか。猛烈な吐き気に襲われて息を吐くと、背をブーツの固い爪先で踏みつけられる。


「俺の言うことが聞けないっていうのか。なあ、サイ」


 にやにやと嗜虐じみた嗤いを浮かべる男を、リユンは這い蹲ったまま睥睨した。

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