Episode , “Flower” 4

 わたしのあいするひとはいつも淡い雪と少し苦い煙草の香りがする。それに包まれるとき、わたしは息の詰まるような安堵とくるおしいまでの愛おしさを覚えるのだった。ブランカ。甘やかな声がわたしの名を呼ぶ、そのひと。

 額に触れた水滴に気付いて目を開けたわたしは、こちらをのぞきこむユリィさんの顔を認め、勢いよく身体を起こした。


「麻酔は……っ」

「今、使われているわ」


 嗄らした喉で尋ねたわたしに、ユリィさんは苦笑して並ぶ寝台を目で示す。どうやらわたしの運んだ薬瓶は無事この場所に届けられたらしい。それにひとまず安堵し、わたしはユリィさんが手当てしてくれた右手に目を落とした。


「軽い凍傷と貧血を起こしていたの」


 説明するユリィさんの声を聞きながら、両手を握りこむ。感覚はきちんとあり、ぎこちないが五指も動かすことができた。


「ユリィさん。なにか、手伝うことはありませんか」

「手伝うってあなた……」


 寝台から降りたわたしを驚いた風にユリィさんが見つめる。ちょうどそのとき、「水を沸かしてくれ!」という先生の声が聞こえたので、わたしは返事をして寝台のそばに揃えてあった靴をもどかしげに履いた。


「待って、ブランカさん!」


 駆け出しかけたわたしの背にユリィさんが声をかける。


「倒れたあなたを見つけてここまで運んだのは――」


 そのとき「早く!」という先生の怒声が響き、わたしはユリィさんに小さく頭を下げると、きびすを返した。



 ラフトおじさんが届けてくれた物資のおかげで、幸い器具が不足することはなかった。患者さんの手当てに追われる先生たち、その手伝いをするユリィさんたちの間でわたしも休みなく働き、空の桶を持って幾度も水を汲みに行く。

 共同水道は吹雪のせいで管が凍り、水の出が悪い。溜めてあった水瓶もすっかり使い切ってしまった。わたしはシオンたちに声をかけると、軒に連なっていた氷柱や雪をかいて集め、それを大鍋で沸かして、湯を作った。

 年嵩の看護婦さんに比べれば、わたしたちができることはまだ少ない。だから、わたしは雪をかき集めると大鍋に移し、沸騰した湯を持って先生のところへ駆けてゆくのを繰り返した。途中からは身体を動かせる患者さんたちも自ら進み出て、雪を集めるのを手伝ってくれるようになる。

 ブランカ。手伝うことは。

 兵士さんたちの力強い呼び声にうなずいて、わたしは院内を駆け回る。


 されど、明けない夜などない。

 常冬の国に遅い日が射す頃には、患者さんの運び込みや治療もひと段落つき、院内を緩んだ空気が包んだ。暴動はすでに夜半過ぎには鎮圧され、今は軒に積もった雪が時折しずり落ちる音がするばかりだ。

 ずっと張り詰めていた緊張が切れてしまったからだろうか。わたしは物資の運び込まれている小礼拝堂の長椅子に腰を落ち着かせたはずみに、片付けるための包帯を両手に抱えたまま、淡いまどろみに落ちてしまった。

 ことん、と手のひらから滑り落ちた包帯を誰かが拾い上げて、わたしの膝の上に載せる。ベンチが微かに軋み、隣にひとの座る気配が伝わった。指先がふわりとわたしの頬にかかった短い髪に触れる。さらさらとそれを遊ぶように梳いてから、そのひとは、ブランカ、と甘い四音をわたしの耳元でささめいた。

 瞼裏にまばゆい虹色の光が射す。睫毛をはためかせると、ずっとずっと夢に見るまで乞うたひとがまるでかつての日々に戻ったかのようにわたしの隣に座り、髪をいじっていた。


「お目覚めですか、おひめさま」


 未だ夢うつつのわたしに、彼が微笑う。


「りゆん……?」

「うん。おはようブランカ」


 彼の姿は記憶にあるより少し痩せた気ぶりこそするものの、セント・トワレ駅でわたしを見送ってくれたときから少しも変わっていなかった。

 目の前で起こっていることがにわかには信じられず、「どうして」と呟いたわたしに「やっぱり覚えてないんだ」とリユンは肩をすくめた。聞けば、リユン=サイ将軍は夜の暴動を鎮圧させたあと、負傷したひとびとを病院へ送る任に隊をあたらせていたらしい。仮設病院に彼が状況を確認に自ら向かったのは、ちょうどわたしが飛び出してしばらく経った頃だったという。

 ふわりと苦い香の記憶が蘇り、あ、とわたしは思う。もしかして、道半ばで崩折れていたわたしを見つけてくれたのも、リユンなのだろうか。


「キミは今晩、僕が三度死にかけたのを知らないでしょう」


 出し抜けに問われて、わたしはリユンを仰ぐ。一瞥するとどこも悪くしていないように見えたけれど、夜の暴動で怪我をしてしまったのだろうか。おろおろと視線を彷徨わせたわたしの両頬を手で包んで、リユンは長い嘆息をする。


「一回目はエディルフォーレ人の看護婦さんが外に出たきり帰ってこないって聞いたとき。二回目は雪に埋もれかけたキミを見つけたとき。三回目は、今」


 目を覚まさないかと思った、とリユンがばつが悪そうに呟くので、わたしは困ってしまい、少し笑った。


「……ごめんなさい」

「そう言って、キミはまた同じことが起きたら吹雪のなか飛び出してゆくんでしょう」


 謝ったわたしをリユンが睨めつける。言われてみればそんな気もして、わたしは答えに詰まってしまう。そろりと両頬を包んでいるひとをうかがうと、彼はとても苦い表情をしていて、けれどそのうち真剣な顔が保てなくなり、ふたりで笑った。


「あ、わたし……」

「あちらは落ち着いたから、少し休んでいいよって。キミを心配してた看護婦さんが言ってた」


 時計を探すそぶりをしたわたしに、リユンが教えてくれる。だが、いざ院に戻らなくていいと言われると、変に落ち着いてしまい、次の言葉に困ってしまう。

 もしもリユンに会えたら、伝えようと思っていたことがある。

 わたしはあなたにずっと恋をしていたのだということ。そして、あなたの隣に立ってこれからも生きてゆきたいのだということ。

 頭の中では数え切れないくらい想像して、考えた。けれど、こんな寂れた礼拝堂で、髪も洗ってない、きれいな服も着ていなければ、お化粧だってしていない、みすぼらしいわたしで。どう切り出せばよいのか途方に暮れる。うまく紡ぐことのできない言葉を飲み込んで目を伏せ、そこでわたしはわたしの髪をいじるリユンの腕に微かに血が滲んでいるのに気づいた。


「リユン、腕をみせて」


 こうなると、とたんわたしはなりたてながらも看護婦さんの目に変わってしまい、それまでの逡巡が嘘のように彼の袖を引く。


「ああ、でもなんでもないよ、これ」

「でも、血が出てる」


 リユンは腕を引こうとしたが、頑なに言い張るわたしに根負けしたらしい。じゃあ、と差し出された腕を取って袖をまくると、確かに浅い裂傷のたぐいだった。これなら、わたしでも手当てができる。

 わたしは片付けの途中だった水盆と消毒液を持ってきて、リユンの腕を洗った。


「ブランカせんせい、とっても痛いんだけど」


 消毒液にさらすと、リユンが本気で顔をしかめるので、おかしくなってしまう。脱脂綿できれいに拭った腕に包帯を巻きつけるかたわら、彼はあいているほうの手でわたしのうなじにかかる毛先をいじった。髪を切ってしまったことを指摘されるのだろうと身構えていたが、彼は毛先をくるくるといじるばかりで何も言わない。藍色の眸は少し細められつつわたしを見つめていて、それが妙に気恥ずかしく、わたしは頬をほんのり紅潮させて俯きがちに包帯を巻いた。


「――背、伸びたね。ブランカ」

「でも、リユンにはまだ届かない」

「届いてしまったら困るよ。エスペリア語も、きれいになった」


 手当てをする間、わたしたちはぽつぽつと互いのことを聞き合った。遅れることはあれど、わたしの手紙はどうやらほとんどがリユンに届けられていたらしい。

 誕生日の約束破っちゃってごめん。手紙もあんまり返せなくてごめん。それから、ずっと会いにいけなくてごめん。彼くらいの肩書きのひとなら、それを理由にいくらでも言い訳ができるだろうに、リユンはただそれだけを繰り返して、「ブランカがここに来たって知ったのもついこの間なんだよ」と苦笑した。

 わたしは巻き終えた包帯を結ぶと、リユンを見上げた。静けさのひそんだ藍の眸を見つめていると、ああやっと会えた。会えたのだ、という喜びがじんわり胸を温め、涙ぐみそうになってしまう。


「リユン」


 緊張で少し頬を赤くしながら、わたしは口を開いた。


「あのね、手紙にも書いたけれど、聖メイティルを卒業したの。卒業、できたの……。まだ、これからの勤務先も決まっていないし、王都の病院は一度落ちてしまったし、リユンが信じてくれたようにわたしはちっともできていなくて、成績だってずっと落ちこぼれのままだったけれど、……でも」


 一度目を伏せ、噛み締めるようにわたしは呟く。


「十八歳になれたよ、リユン。十八歳に、なれた。……八年前のわたしには想像もつかなかった」


 あなたに追いつきたくて、この日々を駆け抜けた。リユン。わたしは、少しは大きくなれただろうか。幼く、あなたを追いかけるばかりだった小さな十歳のわたしから、強く優しいあなたに少しだけでも近づけただろうか。

 つたない問いを繰り返すと、どうしてか泣き出しそうになってしまい、すんとしゃくり上げて、もう一度勇気を出して彼に向き直ろうとする。けれど、それは叶わなかった。しゃくり上げるわたしの身体を引き寄せ、リユンはわたしの短い髪に頬を擦った。


「キミって子はどうしていつもそうなんだろう」


 苦笑まじりの声が落ち、ブランカ、と耳元で彼が囁く。


「あのね。ぜんぜん、なんだよ。ぜんぜん、変わってないよ、キミは。弱ってた軍人さんにパンを持ってきてくれた小さなキミから少しも変わってない。ブランカ。かわいいところも、一生懸命なところも、人一倍頑固で、ときどき無鉄砲で、あとはさみしがりで。それから、いつも前を向いて歩いてる。キミはそういう子で――……ブランカ」


 ああ、いつの間に。彼の呼び声はこんなにも蜜のごとく甘やかに響くようになっていたのか。ブランカ。彼がわたしにくれた、その。


「あいしているよ」


 まるでひとひらの光のごとく射し込んだ言葉に、わたしは息をのんだ。眸をいっぱいに瞠ったわたしを膝の上に抱え上げて、「十八歳おめでとう、ブランカ」と彼はわたしに額をこつんと合わせて囁く。


「キミが大人になるのを、ずっと待ってた」

「ずっと?」

「知らなかったでしょう?」


 謎かけめいて笑い、リユンはわたしの手のひらをそっと持ち上げる。ブランカ。呼び声につられて目を向ければ、花びらがひとひら触れるような口付けが手の甲に落ちた。


「どうか、僕だけの花嫁さんになってください」


 教会の蒼い薔薇窓から、ひかりが射している。見れば、リユンには左腕だけじゃなく、頬や手の甲にもたくさんの傷痕があった。頬に触れる手のひらに手を重ねて、「またメーヨーにたくさん蹴られてしまったの?」とわたしが別のことを尋ねれば、「ほかにもメーメーっていう馬がいるからね」と彼はくすくす笑う。ああ、そのわらい方。藍色の眸を細めてしあわせそうにわらってくれる、あなた。胸のうちにじんわりとひかりが灯っていくのを感じて、わたしは微笑む。


「だいすきよ」


 心臓が甘く熱を持つ。ひかりが降る。

 涙がぽろりとこぼれてしまって、もうそれ以上言葉にすることができない。


「だいすき……」


 彼の首に腕を回して頬を擦るようにすると、リユンはわたしの背に腕を回したまま苦笑した。


「キミはさ、ブランカ」


 濡れた頬を指でくすぐって、彼は囁く。


「少し、おおかみさんのお勉強をしたほうがいいよね」

「おおかみさん?」

「そう、おおかみさん。ちょっとずつ教えてあげる」


 首を傾げたわたしをふんわり抱き上げ、彼は礼拝堂の光がまだらに落ちた道を歩きだしてしまう。こんな格好を誰かに見られたら、とても恥ずかしい。


「ブランカ、どこにゆくのー?」


 寄宿舎の階段をのぼる間、廊下で遊んでいた子どもたちがわたしの裾をつかんで聞いてきた。それに、わたしを抱える男のひとは、しー、と内緒の約束をして。


「おひめさまは、わるい軍人さんにとらわれてしまったのです」


 虹色の光にきらめく扉を、御伽噺のはじまりみたいに開けた。

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