Episode , “Flower” 3

「ブランカ」


 最初にわたしをそう呼んでくれるようになったのは、患者さんの中でもいちばん年嵩の兵士さんだった。


「足の爪を切ってくれ」


 山盛りのシーツをよろめきながら運んでいたわたしにに、寝台に横たわらせた脚を指して言う。見れば、老兵士さんの足爪は少しささくれていて、指を合わせると痛そうだった。

 わたしはシーツを空いた寝台に置くと、老兵士さんのかたわらに座り、ポケットに入れていた爪切りを取り出した。失礼します、と断りを入れてから足に触れさせてもらい、伸びた爪を短くしたあと、角の部分はやわいやすりで擦っていく。


「ブランカは花という意味だな」


 患者さんたちで回している新聞を開きつつ、老兵士さんが言った。もしかしたら、単に手持ち無沙汰になって話しかけてくれただけなのかもしれない。けれど、とたんにわたしはうれしくなってしまって、はい、と笑顔で顎を引いた。

 ――やさしい軍人さんがつけてくれたんです。わたしのいちばんのたからもの。最初は花だって意味も知らなかったのだけど、響きが可憐で、とても好きになってしまった。

 どうやら、わたしは以前よりずいぶん饒舌になってしまったらしい。訊かれてもいないことをたくさん話してしまい、我に返って頬を赤らめると、「俺の孫娘もブランカという名前なんだ」と老兵士さんもやはり恥ずかしそうに笑った。

 「ブランカ」は老兵士さんにとっても、宝物みたいに大事な名前であったらしい。その響きを口にすることを懐かしむように、折に触れて「ブランカ」と呼ぶ兵士さんに、わたしも律儀に「はい」と返事をする。不思議なもので、老兵士さんが「ブランカ」と呼んでいると、それまでわたしと目を合わそうとしなかった他の兵士さんたちも、自然にわたしのことを名前で呼ぶようになった。

 老兵士さんに乞われ、わたしは〝やさしい軍人さん〟とわたしが王都で過ごした日々のことを語った。わたしはサイ将軍の名前を出さなかったので、兵士さんたちはそれがバルテローの若き司令だとは思わなかったようだけれど、〝やさしい軍人さん〟がついたメーヨーの嘘のくだりは皆がお腹を抱えて笑ってくれた。嘘がとびきり下手で、わたしの焼いたアップルパイが好きで、小説家になりたかったやさしい軍人さんは、バルテローの傷ついた兵士さんたちにもあいされた。


「彼の名前はなんていうんだい」


 日々のならいとなった爪磨きをさせてもらっていると、わたしの手元に和やかな眼差しを向けながら老兵士さんが尋ねる。どう答えたらよいのか考え込み、わたしは淡く苦笑する。やさしい軍人さんはわたしにとっては「春」の名なんですと、染料が溶け落ち、灰かぶり色に戻った短い髪を揺らしてわたしは答えた。


 *


 バルテローの夜に警邏の鐘が鳴る。

 その日のわたしは数日ぶりの夜番にあたっていた。夕方に短い仮眠を取ったあと、夜も更けた頃にシオンたちと交代し、カンテラの明かりをひとつ掲げて眠る患者さんたちの間を見回る。高熱でうなされる患者さんの手を握り、絞った手巾で汗を拭いていると、礼拝堂の石造りの壁に警邏の鐘がけたたましく反響した。


「落ち着いてください、大丈夫です」


 驚いて目を覚ました患者さんたちに、一緒に巡回に当たっていたユリィさんが言い、わたしに中を任せて院の外へ話を聞きに行く。


「市街地のほうで暴動が起きたらしいわ」


 しばらくして戻ってきたユリィさんが語ったことには、暴動はちょうど夜半頃に起きたのだという。発端は西部に住まうエディルフォーレ混血の少女で、彼女を見かけた若者たちがバルテローを出て行くようにと迫り、それに怒った少女の家族や近隣の住民たちとの間で諍いが起きた。

 まっさきに病院に担ぎ込まれてきたのは、件の混血の少女で頬を殴打されていた。しかし、これだけで騒ぎは収まらなかった。バルテローの戦乱以来膨らみきった緊張が弾け、街の若者たちが暴れ出した。不穏な怒声に続き、しまいには銃声までもが静かな夜の街に鳴り響く。院内には次々負傷したひとびとが運び込まれ、起き出してきた先生や年嵩の看護婦さんたちはそれにかかりっきりになった。

 まだ看護学校を卒業したばかりであるわたしにできることは少ない。ユリィさんに命じられるまま、湯を沸かし、タオルや器具を用意していると、「麻酔の残りがないわ!」というユリィさんが悲痛な声を上げた。

 もともと、バルテローの街では薬や医療器具が慢性的な不足に陥り、運ばれてくる支援物資でどうにか病院をもたせていた。けれど、一晩でこれだけの量の患者さんが運ばれてくることは想定外だった。包帯や消毒用の薬といったものはなんとか予備があったものの、最初に麻酔が切れてしまった。衰弱した負傷者の患部を直接刃で開けば、痛みに耐えきれず死なせてしまうこともある。


「もらってきます」


 迷いは一瞬だった。わたしは湯を満たした盥を置くと、肩掛け鞄をつかむ。週に一度の支援物資が今晩バルテローに届けられていることをわたしは知っていた。運ばれた物資は駅舎のそばの倉庫に格納され、バルテローの官吏さんが確認をしたあと病院や学校、家々に配られる。麻酔薬をはじめとした薬品や医療器具の要請は先日先生がしていたので、そこに行けば、予備の麻酔も見つかるはずだった。


「待って、ブランカさん」


 先生に火で炙って消毒したナイフを渡していたユリィさんがわたしを引き止める。


「あなたひとりでは危ない。私も行く」

「いいえ」


 わたしは首を振った。これからたくさんの患者さんが運び込まれるであろう院内でユリィさんの手がなくなってしまうことは惜しい。それにエスペリア人からすれば子どもほどの身の丈のわたしであれば、夜陰に紛れて駅舎までたどりつける目算があった。


「だいじょうぶです。すぐ戻ります」


 まっすぐにユリィさんを見上げると、わたしは別の先生から病院の証書をもらい、コートにマフラーを巻いて礼拝堂を出た。

 外は深い雪に覆われ、銀灰色をした粉雪がちらついている。遠方で乾いた銃声が聞こえ、わたしは息を詰めた。非力な娘に過ぎないわたしは、銃を向けられてしまえば為す術もないだろう。騒ぎが起きてからしばらく時間が経ち、街の自警団や駐屯している軍も出動していると聞く。沈静化するのは時間の問題であろうが、わたしは慎重に道を選んで、駅舎へ向かった。

 傘を持っておらず、コートを羽織っただけのわたしの身体からはみるみる熱を奪われ、手足もまた感覚をなくしていく。銃声がするたび、強張って歩みを止めそうになる四肢を叱咤し、わたしは路地を抜けた。

 大通りに差し掛かったとき、前方で爆竹の弾ける大きな音が立った。とっさにポストの裏に身を隠す。心臓が激しく打ち鳴っていた。問答無用で銃撃されることはないと思うけれど、やはり怖い。爆竹の粉が背にしているポストの角に当たって、焦げたにおいを発した。ちかづいているのだ、と考えて、わたしは肩掛け鞄を胸元に引き寄せる。


「お前たち、何をやってるんだ!」


 そのとき甲高い笛音が聞こえて、叫び声が上がった。ひとが散らばる足音。警邏か、軍のひとが駆けつけたらしい。一時爆竹の破砕する音が聞こえたが、すぐに静まり、足音はどれも遠方に通り過ぎていく。

 いつの間にか詰めていた息を吐き出すと、わたしはポストから抜け出て、あたりに怪我人がいないことを確かめた。大通りを渡り、広場を背に坂道をのぼって、固く閉じられた駅舎の倉庫の前に立つ。


「遅くにすみません、どなたか、いらっしゃいますか!」


 声を張り上げて倉庫の扉を叩くが、外の騒ぎを警戒しているのか扉は一向に開かない。


「すみません!」


 わたしは繰り返し、扉にこぶしを打ち付ける。霜の張った頑強な扉を何度も打ち付けたせいでわたしの手袋はところどころ破れ、丸めたこぶしから血が滲むのがわかった。けれど、そんなことには構っていられない。

 ――おねがい。おねがい、開けて。

 ひときわ強く叩いたはずみに、わたしの身体はふらりとよろめく。だが、足をもつれさせて崩折れる前に温かな手のひらに両肩を支えられた。驚いて振り返ったわたしを見つめて、相手もまた大きく息を呑む。懐かしい、優しげな弧を描く眉、豊かにたくわえられた髭。ラフトおじさんだった。


「ブランカさんじゃないか。どうしたんだい、こんなところで」


 カンテラの明かりを軒にかけ、ラフトおじさんはわたしの傷ついたこぶしを両手でくるみこむ。


「麻酔薬をいただきたいんです」


 手早く事情を説明すれば、ラフトおじさんはすぐに官吏さんに話をつけて倉庫を開放してくれた。その際にかいつまんで聞いた話によると、この戦乱でラフトおじさんは王都からバルテローへの物資輸送の手伝いをしていたらしい。戦乱後はそのままバルテローに駐留し、必要な物資を王都に求める役割についたのだという。

 一介の雑貨屋さんがそんな大役を担えるものなのだろうか。目を丸くしたわたしにラフトおじさんはくすりと笑い、この国の古い官吏にラフト=スピネルズという男がいる、今は将軍御用達の雑貨屋だが、とウィンクした。

 麻酔薬の瓶をひとまず抱えられるぶんだけもらい、包帯やその他必要になりそうな物資は用意が整ったあとすぐに届けてもらえるようにする。肩掛け鞄に薬瓶を詰め、お礼を告げて早々にきびすを返そうとしたわたしを「ブランカさん」とラフトおじさんが呼び止めた。


「気をつけて」


 やんわりと目を細め、ラフトおじさんはわたしの乱れた髪を梳いた。ありがとうございます、ともう一度お礼を伝えて、わたしは凍てつくバルテローの雪風に立ち向かう。



 かつて。もう記憶の端々が褪せてしまうほど昔、こんな風に大事なものを持てるだけ抱えて、走ったことがわたしにはあった。八年前、まだ十歳であったブランカ。あの頃のわたしは小さな手足で、たった三音だけを頼りにエディルフォーレの深い森を歩き抜いたのだった。

 リユン、わたしはあの頃より少しは大きくなれただろうか。

 あなたの背を追うばかりだったあの頃から、大人になれただろうか。

 わたしはあなたがいないそのときでも、いつだって最初に与えられた三音、わたしにとって初めての対等なる他者、初めての父、兄であり、最愛のひと。あなたのくれた呼び名を頼りに歩いてこられた。非力な奴隷の娘に、歩む力を与えてくれたのはあなたのその声であったから。だからそう――あなたが名無しの娘に花の名を与えてくれたそのときに、きっと「わたし」ははじまったのだ。


 教会にたどりついたとき、わたしはほうほうのていだった。

 途中で雪嵐に転じた吹雪は容赦なくわたしの道を閉ざし、冷たく重い雪を掻き分けることはひどく体力を消耗させる。家々の外柵を伝ってわたしは歩き、されど途中で力尽きて、雪の中に崩折れた。そばの門扉にすがって立ち上がろうとするが、強張った指先は門扉をつかむことすらできずに力なく落ちる。

 先ほど扉を力の限りに叩いたわたしのこぶしは傷つき、破れた手袋からあらわになった指先は弱い凍傷に陥りかけていた。力がうまく入らないのも道理だ。

 けれど、あとすこし。あとすこしなのだ。わたしは足をとらえる雪に歯噛みし、もがき、なんとか探し当てた門扉を固く握り締める。喉が弱く震えたとき、つたなくわたしが紡ぎ出したのは最初に覚えた三音だった。

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